marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ナイチンゲールは夜に歌う』ジョン・クロウリー

ナイチンゲールは夜に歌う
短篇集と呼ぶには、少し長めの二作を間に挿んで、天地創造神話をクロウリー流にアレンジした日本語版の表題作「ナイチンゲールは夜に歌う」と、作家が昼間のバーでアイデアを練る姿をスケッチしてみせる英語版表題作「ノヴェルティ」の四作で構成される、クロウリー六作目にして編まれたオリジナル作品集。デビュー作から『エンジン・サマー』までの三作を刊行したダブルデイ社だからか、初期のSF的作風にもどったような作品集になっている。バンタム社から出た『リトル、ビッグ』で、ジョン・クロウリーのファンになった読者には様子がちがって感じられるかもしれない。

幻想文学大賞ノヴェラ部門受賞作「時の偉業」が読ませる。ジャンルとしては、タイム・パラドックス物のSFにあたるのだろうが、六篇の連作短篇としても読める作品のなかには、あえてSFと名のらなくても、と思えるものもある。タイム・マシンの設定を借りずとも「さまよえるユダヤ人」のように、時空をこえて出現する運命を背負った人間という主題は、多くの作品のなかにある。あえて、タイム・マシンを使ったところにSF作家として出発した作家のこだわりがあるのかもしれない。

時間航行が派生させる難問(パラドックス)のいくつかを、手際よく回避してみせる「カスパー・ラストのただ一度の旅」が、この年代記(クロニクル)の書き出しに選ばれたのは、アメリカ人読者への挨拶のようなものか、もしかしたら、単にタイム・マシンの設定を持ち出すための言い訳に、以前に書いて没にしてあった原稿を再利用したのかもしれない。明らかに英国や英国領アフリカを舞台にした他の作品とは色調がちがって明るく軽い。

デニス・ウィンターセットというオックスフォード出身の植民地官僚を主人公とする歴史上に残る一挿話を扱った連作が本編。ローデシアという国名の由来となった英国人政治家セシル・ローズの活躍と失脚は大英帝国が版図を広げていった時代を象徴するものだが、その陰にあって大英帝国のために働く<異胞団>(アザーフッド)という結社があった。ローズ好みの青年であることから、その結社に見込まれた主人公はある仕事を頼まれる。史上のある時点における決定が、その後の歴史を変えることがある。その歴史上の転換点に、必要な人材を送り込むことができたら、歴史は思うように操ることができる。その結社が歴史を改変するたびに起こす微妙な変化が積み重なり、その後の世界は信じられない姿に変わってしまう。それを案じた主人公は、ある決定を下すのだったが…。

歴史上に実在する人物の史実に沿いながら、自在に物語を紡ぐという試みは、作家という人たちには耐えられない悦びをもたらすものらしい。洋の東西を問わず、この試みに手を染めた作家は数知れない。歴史上の人物を描く場合、いかにもその人らしい逸話のなかに作家ならではの創意を凝らす必要がある。セシル・ローズが、ある年頃の青年を好んだという伝聞を生かした展開はよく考えられている。アフリカの自然を取り込んだ情景描写もまた素晴らしい。

悼尾を飾る「ノヴェルティ」の舞台となっているバー&グリル「セブンス・セイント」は、『リトル、ビッグ』でオーベロンがシルヴィーと酒を飲む店である。スモーキィがシティで仕事にしていた、電話帳を読んでコンピュータのバグを見つけるエピソードにあった、コンピュータはセイント(聖人)と、ストリートの略語である“St.”の見分けが付かず、勝手に「7丁目のバー」を「第七聖人のバー」にしてしまう、というギャグを実際に使っている。ファン・サーヴィスでもあるし、作家自身の遊びでもある。作家が小説のアイデアをしぼり出す秘密を教えてくれる点で作家志望の読者にはこたえられない一篇。他にディストピア物SF「青衣」を含む。

『リトル、ビッグ』ジョン・クロウリー

リトル、ビッグ〈1〉 (文学の冒険シリーズ) リトル、ビッグ〈2〉 (文学の冒険シリーズ)
読み終えた後、それについて何か語りたくなるのではなく、いつまででも読んでいたくなる、そんな本である。物語の中から出たくなくなる。読み終えてしまえば、そこから立ち去らねばならない。いつまでも、この謎めいた屋敷や森や野原のなかで迷い子になっていたい。それで、読み終えるとまた初めに戻り、もう一度、もう一度と読み返すのだ。読み返すたびに新しい物語が立ち現われてきて、いっこうに終わる気配がない。無数の物語を一つの大きな物語に封じ込めた小さく(リトル)て、大き(ビッグ)な魔法のような物語である。

舞台はニュー・ヨークと思しき大都会(グレイト・シティ)から北に位置するエッジウッド(森の端)と呼ばれる土地。そこには、二十世紀の初めに建築家ジョン・ドリンクウォーターが手がけた「四つの階と、七本の煙突と、三百六十五段の階段と、五十二枚のドアを持つ家」が建っていた。森や丘が広がり、湖にそそぐ小川が流れる広大な敷地のなか、上から見ると五芒星形をした屋敷は、ぐるりを巡ると、その立つ位置により異なる建築様式が現われるという、変わった構造を持つ。

そこには代々ドリンク・ウォーター家が住みなし、エッジウッドを五芒星形の中心とする頂点に当たる五つの町には、彼らの係累や使用人の一族が住み、一帯はシティとは隔絶した世界を営んでいた。19―年六月、聖ヨハネの祝日を前にしたある日、シティからスモーキィ・バーナブルという青年が結婚のため、エッジウッド邸を訪れる場面から物語は一応始まる。しかし、本当の物語は、そのずっと昔からはじまっていた。スモーキィの妻となるアリスも、その妹ソフィーも、ノラ大伯母さんもそのことを知っていた。知らないのは、スモーキィただ一人だったのである。

大きな物語を語り続けてゆくためには時間がかかる。しかも、主題は「妖精」の世界と人間世界とのもつれあった関係である。妖精の方はいいが、時間に縛られる人間の方には何世代にも引き継がれる「物語」を担う役目がある。妖精と感応できる特別な能力を持つ人間が、その力を次世代に繋ぐためには配偶者と多くの子どもが要るのだ。しかし、自分はただの人間でありながら、妖精と関わる力を持つ相手と結婚し、その力を受け継ぐ子どもと暮らし続けることを引き受ける人間がそうどこにでも居る訳がない。言うまでもないことだが、初代ジョン・ドリンクウォーターがその一人であり、スモーキィ・バーナブルもまたその一人であった。

大きな物語を生むためには、小さな要素が必要で、およそ個性というものを持たないスモーキィのような青年も、決められた位置に嵌められると絵柄が完成するパズルの無地の一ピースのようなものであるが、その一枚はどんな形でも良い訳ではなく、スモーキィその人でなくてはならなかった。スモーキィがエッジウッドを訪れ、そこに留まる間、物語を動かす歯車は回り続け、大きな大きな巡りが用意される。何代もにわたるドリンクウォーター家の直系、傍系につながる人々が、次々と現われてはそれぞれの物語を語る。一つの物語は別の物語を呼び寄せ、また別の物語の種をまく。こうして、古より伝わる、衰えつつあった一族が数々の試練を乗り切って帰還した新しい王を迎え再生する物語が語られる。これは「贈与と交換」、「死と再生」といった文化人類学でお馴染みの主題をもとにした「時間」をめぐる物語である。

人間界と妖精界で、人が往来するのはそこに「贈与の互酬」があるからだ。ドリンクウォーター家からは、忽然とオーガストライラックといった子どもたちが消えるが、その代わりのように、跡継ぎとなる子が生まれたり、大事な伝言を携えて再び戻ったりする。このやりとりを通じて互いの世界の生命力は維持されているのだ。部外者であるスモーキィには、そんなことは皆目分からない。分からないなりに、時には義妹相手の浮気といった幕間劇も演じながら、カード占いが予言する物語の進行役をつとめていく。この愚者としてのスモーキィの「小さな」存在が物語の中で「大きな」意味を持つ。

王や姫や騎士ばかりが登場する物語は永遠に春の季節が続く妖精の世界と同じで、謂わば「彼岸」で演じられている。それに対して、スモーキィは現実の人間界である「此岸」に生きている。そこには、発電機が故障して暖を取ることができない寒い冬もある。だからこそ、布団を重ねて妻と抱き合う夜の喜びもある。片足を妖精界に突っ込んで生きている家族の中で、ひとり局外者の位置にあるスモーキィの割に合わない努力があって物語はその生命を失わないでいられる。

所謂ファンタジーを読むのとは一味ちがう味わいを持つのは、偏に、物語の基軸となるのがこの人物であることによる。後半、息子のオーベロンが軸となって物語を進めていく段になると、この小説は一気にファンタジー色を強めていく。シェイクスピア作『夏の夜の夢』を下敷きとするそれはそれで読み応えのある出来映えとなってはいるのだが、ヴァージニア・ウルフとその姉ヴァネッサを髣髴とさせるドリンクウォーター姉妹とその家族が醸し出す文学的ともいえる前半の読み心地には及びもつかない。

英国由来の五十二枚組みのカードやアリスが湯浴みするゴシック風の浴室、永久運動による「太陽系儀」といったラファエロ前派の絵にでも出てきそうな英国風の意匠を、大西洋を越えた新大陸の自然のなかに移植し、別天地を創造して見せた作家の物語作者としての圧倒的な技量に感服した。たしかに存在することは分かっているのに、はっきりとは姿を捉えることのできない妖精というあえかな存在を扱う手際も水際立っており、あのル・グウィンをして「この一冊でファンタジーの再定義が必要になった」と言わしめたのもむべなるかな。刊行翌年の世界幻想文学大賞受賞も当然と思わせる、歴史に残る著者の代表作である。

『エンジン・サマー』ジョン・クロウリー

エンジン・サマー (扶桑社ミステリー)
大洪水の水が引かず、ノアの方舟が何世代にわたって航海を続けたと仮定しよう。ノアも息子たちも死に絶え、何千年も過ぎて陸地が見えたとき、そこに人々がいたとしたら、その人々には、ノアの子孫は地上の者とは思えなかったのではないだろうか。方舟には方舟の物語が、地上にはまた別の物語が伝えられていたはず。もし、言葉が通じるものならば、方舟に招じ入れられた地上の者の語る言葉に、ノアの子孫は耳を傾けたにちがいない。こんなとき、SF作家なら得意のギミックで翻訳を可能にしてみせるだろう。

タイトルの『エンジン・サマー』は、文中では「機械の夏」と訳されている。意味的にはそれにちがいないが、音的には「秋から冬にかけて風が弱く暖かな日のこと」を指す「インディアン・サマー」(小春日和)を思い浮かべてしまう。まるで、本来の意味が失われた後で、誰かがよく似た音を持つ別の言葉で言い換えたように。少し読めばわかるが、舞台となっているのは、文明社会が崩壊した後の未来のアメリカ。かつて繁栄を謳歌していた文明社会は「嵐」と呼ばれる危機の前に完全に崩壊し、地上に残されているのは、「嵐」以前に「都市」での文明生活に見切りをつけ、脱出した者たちの子孫たちだけであることが分かってくる。

主人公はその命名法や、お下げに編んだ髪という記述から、ネイティブ・アメリカンを連想させる<しゃべる灯心草>(ラッシュ・ザッツ・スピークス)。系(コード)と呼ばれる部族によって異なる性向を持つ人々が、生き残るため緩やかな連帯を保ちつつリトルビレアという迷路のように入り組んだ街で構成される共同体を営んでいる。<しゃべる灯心草>が属するてのひら系の者は、その名の通り物語ることを好む。主人公も語り部の女たちによって語り継がれる種族の物語を聞くのを好むが、いつかは故郷を捨てて旅立つ運命にあるようだ。

近未来を舞台にしたSFが好んで描くのが、文明社会が崩壊した後の混乱した世界、つまり「ディストピア」なのだが、本作は崩壊後の世界をそうは見ていないようだ。形式からいえば、若者が旅を通じて様々な人と出会い成長を遂げる、という人格形成小説(ビルドゥングス・ロマン)の系譜につながる。その教養小説の骨組みに、少年と少女の出会いと別れを描く青春小説的な甘酸っぱさを加味し、銀の手袋とボールをはじめ、SF的ガジェットについての謎解き興味をまぶした、著者三作目にして代表作となる長篇小説である。

若い頃は結構読んだSFだが、近頃はとんとご無沙汰していた。物語を楽しむために必要と思われる以上に大量の疑似科学的情報をこれでもか、というほど読まされるのに閉口してしまうからなのだが、好きな向きには、そこがいいのだろうというくらいのことは分かるつもりだ。その点、この作品に登場する物の多くは、クロスワードやからくり人形仕掛けの晴雨計といった、現代人には自明だが未来人には未知の物体である。つまり、「読者は知っているが登場人物は知らない」という物語ならではの仕掛けがほどこされていて、とっつきやすい。

というよりむしろ、科学偏重の現代文明に疑問を呈し、エコロジーや、環境重視といった時代潮流に乗ったところが受け容れやすいのかもしれない。ツリー・ハウスに住む<またたき>(ブリンク)をはじめ、登場人物たちは、廃墟と化した家屋でかつての機械類を再利用した今風に言えばリサイクルやリユースといったエコな暮らしを実践している。かつて、ベトナム戦争反対に沸く人々は、「自然に帰れ」というスローガンを掲げたヒッピー・ムーブメントにオルタナティブ生活様式を見出したものだった。発表されたのが79年というから、コミューンやドラッグ・カルチャーといったヒッピー・ムーブメントの影響を受けたと思しき人物たちの行動様式や慣習が、時代がひとめぐりしたせいか、かえって懐かしく感じられる。

SFらしいギミック満載だが、ストーリー的には少年の旅は意外に地味である。樹上で暮らす<またたき>(ブリンク)に出会うのも故郷の家からさして遠くなく、次に移り住む<リスト>の交易商人たちのキャンプも危険からはほど遠い。遍歴する主人公は「勇者」でも「騎士」でもない。小説が、物語るということ、をテーマの一つとしているからには、主人公の修業はまず「聞く」ことからはじまる。賢者や老婆の語る物語のなかに、彼が解かねばならぬ秘密が隠されているからだ。

物語の語り手が、自分の経験してきたことを語る、という設定が、作家が小説を書くという行為のメタレベルの解説になっている。物語を書くことの意味、作家とは何か、語られた物語は誰のものか、といった世界を創る者としての作家の疑問がナイーブなまでに素直に表現されているところに、初期の作品らしい初々しさが出ている、と今だからいえる。

空を飛ぶ都市「ラピュタ」が登場するように、スウィフト作『ガリバー旅行記』に倣い、寓意や風刺の色濃い本作の謎は物語の最後で解かれるが、回想的視点で語られる主人公の旅の意味は再読を要求せずにはおかない。複層的なテーマを持つ作品に張りめぐらされた伏線一つ一つの意味を回収するために、読者は最初からもう一度<しゃべる灯心草>の話を辿りなおすことだろう。円環構造をなす、終わることのない物語。これに優る物語の愉しみがあろうか。

日曜日、日盛りの芝生には誰もいない。

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遷宮効果もうすれてきたのか、観光バスの数はめっきり減って、近頃では徴古館ももとの静けさをとりもどしたようだ。

 

育成中の芝生は、まだ生えそろってはいないが、リスや小鳥くらいは歩いていてもいいだろうに、日曜日というのに子ども連れの母親もいない。日をいっぱい浴びた芝生広場は、ただただひっそりかんとしている。

 

大きな常緑樹が枝を伸ばしている下は、程よい日陰を作っていて、散歩に疲れた者にはありがたい休憩所だ。汗がひいたらまた歩き始めよう。

 

『屋根屋』村田喜代子

屋根屋
上手いタイトルをつけたものだ。上から読んでも下から読んでも、右から書いても左から書いても同じ漢字を使った最短の回文「屋根屋」である。もっとも、作者が名うてのストーリー・テラーとして知られる村田喜代子。この人の書くものならタイトルが何であっても手にとるだろう。空を飛ぶ恋人たちやロバの絵で知られるシャガールの絵を表紙に使って、シャレた本が出来上がった。

「私」は、北九州市に住む専業主婦。夫はサラリーマンで、休日はゴルフ三昧。息子は受験勉強とテニスの部活に忙しい。新しく東京に建てる電波塔の名が「東京スカイツリー」と決まった梅雨に入ったばかりの頃、築十八年の木造二階建てのわが家に雨漏りが始まった。素人の夫では手に負えず、専門業者がやってきた。

「永瀬工務店」は、屋根専門の工務店。永瀬は以前寺社の屋根修復に関わっていたが、長期に及ぶ仕事中に妻が入院、勝手に休むこともできぬまま妻は息を引きとり、死に目に会えなかった。それ以降、大屋根の端から飛び降りたくなる強迫神経症を病み、医者にその日見た夢を記録する日記をつけることを言い渡され、そのお陰で快癒。夢日記はその後も続けること十年、今に及ぶという。

夫と一人息子が出かけた後、週日の日中を独り過ごす「私」は、毎日やってくる屋根屋との休憩時の茶飲み話を楽しみにするようになる。屋根屋は長年の修練で夢を自在に見ることができるという。そんなある日、夢でフランスのとある町の屋根の上にいたことを話したついでに「私」は、屋根の夢が見たいと口にする。永瀬は「私がそのうち素晴らしか所へ案内ばしましょう」と言うのだった。

ここまでなら社交辞令ですむ。ところが、次に会った時永瀬は、自分が見たい夢を見るには、見たい夢の体験を作ることだと言い、手帖を破るとその一枚に福岡市にある寺の所番地を書いて手渡した。近くの高いビルの上から屋根を見るのだと。実際に足を運んだ時点で、女は男の術中に陥ったと言えるかもしれない。次は、夢を思い出しやすいレム睡眠中に覚醒するため、いつもより一時間早く目覚まし時計をセットして眠るように、と永瀬は電話で指示を出した。後は、夢の中で会いましょう、と。

家族にかまってもらえないことで不満を燻らせていた専業主婦が、無意識の裡に募らせていた自分のことを見てほしい、という願望が識閾を超えて噴出したと見るべきだろう。たとえ、夢の中とはいえ、夫以外の男と逢瀬を楽しむことに、女は何の葛藤も感じていない。ところが、夢の中、ネグリジェ姿で寺の大屋根の上で男を待つ女の上に現われたのは、咆哮する金茶の大虎だった。消え去った後で屋根屋が言うには、心の隅で思っていたご主人が出て来たのだろう、と。罪の意識はあったのだ。

一度味をしめるともう止まらない。次は奈良にある瑞花院吉楽寺。瓦に落書きがあることで知られる古刹である。ここでは、オレンジ色の火の玉に脅かされる。どうやら屋根屋の死んだ妻らしい。どちらも疚しさを感じつつの道行きなのだ。極め付きは連続夢を使ったフランス旅行だ。シャルトルやアミアンの大聖堂の屋根を見てみたいと言う屋根屋の夢につきあって、毎晩夢での逢瀬を楽しむ「私」。二羽の黒鳥になって大空を飛ぶうちに屋根屋は、いっそこのままここで暮らさないかと女を誘う。男性読者としては、お気楽な夫に注意してやりたくなるが、同様の不満をかこつ女性読者なら、このまま突っ走れと応援するところかもしれない。

なにしろ夢の話だからフランスにだって行ける。豪華なホテルに宿泊し、料理だって味わえる。それどころか、鳥になったり、透明になったりして成層圏近くまで上昇し、ヒマラヤ山系の上を飛んで日本に帰ってくるという豪華な旅が家にいながら楽しめるのだから、考えようによっては最高である。しかし、部屋こそ別とはいえ、連日夫以外の男と海外旅行を楽しんでいるのだ。夢であることを自覚しながら見る夢を「明晰夢」という。この明晰夢の危険性の一つとして現実との区別が付かなくなることがあると言われている。「夢うつつ」の毎日が過ぎるうちに「私」が陥る危険とは…。

かつては、時々見た「空を飛ぶ夢」をほとんど見なくなった。フロイトの性的欲望説をとるなら、まあ当然と言っていいし、ユングの現実逃避や希望の拡大説をとっても、今更これといった希望もなければ、受け容れられないほど苛酷な現実もない。しかし、主人公のような立場にある人物なら、どうだろう。地方都市の住宅地にいて、夫も息子も自分のことに忙しい。自分のアイデンティティをすべてかけるほどの趣味もない。自分の知らない世界に住む強烈な個性を持った異性が現われれば、まして現実ではない夢の中の逢瀬なら、心が動くのは当然だろう。

「夢オチ」というのは、極めて安易な解決の手法であって、村田喜代子ほどの作家がそんな結末を採用するはずはないが、どうするつもりか、と楽しみにしながら最後まで読んだ。なるほど、こうきましたか、という結末に上質の怪談を読む喜びを感じた。すべてが終わった後に背中に残るざわつく感じ。読書の愉しみをたっぷり堪能させてくれる一冊。

『アルグン川の右岸』遅 子建

アルグン川の右岸 (エクス・リブリス)
物語の舞台となっているのは、中国内モンゴル自治区とロシア国境を流れるアルグン川の東岸。かつて日本が満州国と呼んで支配していた土地で、中国最北端の地である。語り手はその地に長く暮らすエヴェンキ族の最後の酋長の妻で齢九十歳をこえる。エヴェンキ族は、古くからバイカル湖周辺一帯にトナカイを飼育しながら狩をして暮らす狩猟民族であったが、ロシア人により迫害され、アルグン川を渉り、その右岸に逃れ住んでいた。

二十世紀に入ると、アルグン川右岸は時代の波に翻弄されるように、清国、中華民国、日本軍の対ソ連前線基地、中華人民共和国と次々に新しい国家によって支配されるようになる。厳しくとも豊かな自然環境のなかで、民族の伝統を守り、季節によって餌となる苔や草木を求めて移動するトナカイの群れとともに、獲物を求めて狩を続けるエヴェンキ族であったが、自然とともに生きる彼らにも、時代の流れは押し寄せてきていた。あれほど豊かであった森林は伐採され、原野に道路が切り拓かれ、トナカイの群れを鉄条網に囲うという国家の政策が待ち受けていた。

狩猟民族であるエヴェンキ族にも、健康や教育文化振興という名の下に、猟銃の保持が禁止され、居留地への定住化を推し進める力が迫る。最後の酋長ワロジャを亡くした部族は、その妻であった語り手と孫一人を残し、皆山を下ることになる。話をするのも聞くのも嫌いなアンツォルにではなく、シーレンジュを打つ雨や囲炉裏の火に語りかけるように、老婆は自分が産まれた頃から、今に至る一族の歴史を話し出すのであった。

エヴェンキ族は、シャーマンの語源であるサマンと呼ばれる祈祷師を中心とした一族で集団を作り、その住居はシーレンジュというテント式の小屋である。トナカイの背に荷や人を乗せて移動し、熊やキタリス、ヘラジカ、あるいは川魚や鳥を獲って食料とし、白樺の樹皮から取れるものを、衣食住に利用し、信仰にあつい氏族である。ただ、自然は時に過酷であり、語り手の姉妹も冬の厳しい寒さの中で命を落とす。そんな中、氏族の温かな目に見守られ、少女は成長し、やがて夫となる人を見つける。

目次の後に「人物相関図」という樹形図が付されているが、なるほど、これがなければ誰が誰の兄であり、伯父であるのか、さっぱり分からぬくらい大家族の歴史を描いたもので、比喩的な言い回しを許してもらえるなら、氏族の一大叙事詩と言ってもいいほどの大河のような物語が、この樹形図のなかに封じ込められている。広大な自然の中、首長やサマンといった力のある者を中心として、氏族はまとまって暮らしているが、始終顔と顔をつき合わせて暮らしていかねばならない男と女の間には恨みつらみや妬みがつきまとう。

美しい者や力ある者ばかりが集まっているわけではない。中には、足を失った者、子のできない夫婦、妻のいない男、鼻の曲がった女や、口の歪んだ女もいる。また周囲も羨む美貌や腕力に恵まれた若者もいる。清冽な北の自然を背景に、それらの人々が、愛し合い、憎みあい、時には奪い、また逃げる。人にすぐれた能力を授かった者には、それゆえに耐えねばならない試練がつきまとう。サマンとなった義理の妹ニハオは、他人の命を救うために我が子の命を捧げる運命に逆らえない。人と人の間だけではない。人の代わりにトナカイの仔が死ぬこともある。

大昔から伝えられてきた言い伝えや祈り、呪いが、太古のままに力を残している氏族の生き生きとした暮らしぶりが、大自然の景観の中で時を越えてよみがえる。時折りはさまれる時事的な話題の何とつまらぬことか。しかし、その些末な人間界の出来事が、この美しい生活を今も生きる人々を追い詰めてゆく。川や、山を自分たちの言葉で名づけてゆく人々を、日本軍が、中国共産党が、戦争と革命の二十世紀のなかに、否が応でも引きずり込んでゆく。『アルグン川の右岸』一篇は滅びゆく者たちに捧げられた挽歌、といえるだろう。何と美しくも哀しい歌であることか。表紙を飾る大きな角を持ったトナカイの写真がじっとこちらを見つめるさまに胸を打たれた。その内容にふさわしい見事な装丁となっている。

『ケンブリッジ帰りの文士 吉田健一』角地幸男

ケンブリッジ帰りの文士 吉田健一
「序にかえて」を一読すれば分かるように、著者の吉田健一に寄せる思いは、単なる作家論の対象であることをはるかに超えている。初めてその文章に出会った時から実際にその謦咳に接するまで、まるで道なき広野を行く旅人が辿る先人の足跡のように、著者は吉田がその著書でふれた内外の書物を取り寄せては読み漁っている。それだけに、吉田健一その人と文学について、ここまで迫った論を知らない。

吉田健一の文章には独特のくせがあり、名文と評価する向き(三好達治草野心平)もあるが、恣意的な切れ目や、息遣いに合わせて適当に付される読点に狎れた現代人に、吉田のそれは、やたら迂回しては横道にそれたがりいつまでたっても結語にたどり着かないまだるっこしい書きぶりのように思えるかもしれない。しかし、それには後で述べるように深い意味がある。

吉田健一は、父茂の領事赴任に従って六歳で中国、七歳でパリと転地を繰り返し、八歳の歳ロンドンでイギリス人小学校に入学、十四歳で帰国するまで彼の母国語は英語であった。十八歳で再び渡英し、ケンブリッジ大学キングス・コレッジに入学する。そのとき受験勉強にシェイクスピアの『十二夜』全文を暗記したというから凄い。しかし、師であるディキンソンの教えに従い、在英わずか十ヶ月で帰国する。せっかく絶好の環境にあったのになぜ帰国を選んだのか、というのが角地の疑問である。

健一の帰国に関しては、清水徹の『評伝 吉田健一』に、「ある種の仕事をするには、故国の土が必要だ」というディキンソンの言葉が引かれているように、日本で「文士になるため」であったろうという了解がなされている。だが、それだけなら、無事卒業してからでも遅くはない。もっと切羽詰った理由があるのでは、と考えた角地が見つけたのは、「母国の喪失」だった。無論、この母国とは英国である。ケンブリッジで暮らす毎日が文化的に満たされた美しいものであればあるほど、健一はそこで自分がアウトサイダーであることを思い知らされたはず。そして故国喪失者は、何としても早急に新しい故国を発見する必要があった。吉田健一にとっては、それが日本であった。

では、当時の日本の文学的状況はどうだったのかといえば、英国で文学とは何かということを突き詰めようとしていた吉田の目から見れば、故国のそれは惨憺たるものであったというほかない。文学に文学でないものを求めるがゆえに、文学と呼ばれているものの中には文学でないものが大手を振って歩いていた。帰国した吉田の仕事は、それらと真っ向から対決することから始められた。

吉田健一の代表的な著作、『乞食王子』、『大衆文学時評』、『金沢』をとりあげ、その中からこれと思われる文章を引きつつ、当時の吉田がやらねばならないと思っていた仕事(上記「ケンブリッジ帰りの文士」)や、思いがけず成し遂げていたエクリチュールの達成(「乞食王子のエクリチュール」)、畢竟文学には読める本と読めない本しかないと喝破して見せた「シェイクスピアの大衆文学時評」、そして畢生の名著『時間』を書き上げるに至った契機となった小説執筆の秘密(「時間と化した物語作者」)にふれた四章に、著者はじめての本格的吉田健一論である「時間略解」を併せて収める。

吉田健一の文学について、その愛着を語った文学者は河上徹太郎中村光夫をはじめ、枚挙に暇がないが、ここまで、その文学が目指した志の高さ、思惟の深さについて触れ、引用の煩瑣を恐れることなく精密な考察を尽くした論をはじめて読んだ気がする。一読後、引用された吉田の文章をもう一度その本文の中で味わいたくなり、書架から『文学の楽しみ』を取り出し再読した。以前は難解とも感じた文章が嘘のように明快に読み取れることに驚きを禁じ得なかった。その文章がなにゆえ、難解と思われがちであるのか。それについて触れた吉田本人の文章を引用し、その答えとする。

我々には何か書く時に我々に既に持ち合わせがある言葉と文体で表せる範囲内に書くことを限る傾向があり、勢ひそれは他のものも書き、又読者の方でも大方の見当を付けて期待してゐることでもあるから書くのに苦労することがないのみならず出来上つた文章が解り易いといふ印象を与へる。(中略)併し我々が実際に或る考へを進めるといふのは話を先に運ぶ言葉を探すことに他ならなくてその上で言葉を得ることは考への進展であるとともにそれを表す文章の開拓でもあり、かうして考へが言葉の形で進んで終りに達した時にその考へも完了する。(中略)書く方は言葉とともに考へを進めるのであるよりも自分が得た言葉に導かれて一歩づつ自分が求めてゐることに近づき、これを読む方でも同じことをして書く方に付いて行くことになる。それは書くものにも読むものにも或る程度の努力を強ひずには置かないがそれを読み難い、書き難いとするのでは言葉を使ふといふことの意味がなくなり、ヴァレリイを読んでゐて気が付いたもう一つのことといふのはヴァレリイにあってはこの努力が当然であるのを通り越して極めて自然な形で行はれてゐることだった。(『書架記』「ヴァリエテ」)