marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ガルヴェイアスの犬』ジョゼ・ルイス・ペイショット

ガルヴェイアスの犬 (新潮クレスト・ブックス)
家の外にある便所でローザがビニール袋に自分の大便を落とす。ローザは袋の口を閉じて廊下の冷凍庫にそれをしまう。スカトロジー? いや違う。これには訳がある。ローザの夫は従弟の妻ジョアナと浮気をしているという噂がある。ローザは溜めておいた自分の大便を缶に集めて水で溶き、それを籠に入れるとジョアナが店を広げているところに行き、籠の缶に手を突っこむとその顔にどろどろの大便をぶっかける。驚いている顔にもう一度。その後はつかみ合いの喧嘩。二人とも留置場に入れられる。糞便で汚れたまま、壁の両端に離れて。

こんなすごい復讐劇、初めて読んだ。文字通り「糞喰らえ」ってやつだ。しかし、陰惨さがかけらもない。村の産婆に呪いをかける方法を教えてもらうが、呪いをかけられるのは夫の陽物だ。死人も出ない。二人とも髪は引きちぎられたが、それだけだ。見物客も臭かっただろうが、堪能したに違いない。しかも後日談がある。二人の女はその後、夫が仕事に出たすきを見つけて脚をからめあう仲になったというのだから、畏れ入るではないか。

こんなエピソードが次から次へと繰り出される、不思議な小説である。マジック・リアリズムめいてはいるが、雨は何年も降り続かない。せいぜい一週間だ。人が空を飛ぶが、オートバイ事故だ。一九八四年というから、さほど昔の話ではない。ロス五輪が開催された年である。それなのに、ここポルトガルの寒村では、電気の引かれていない家があり、欲しいものは、と聞かれた娘は「テレビ」と答えている。

ガルヴェイアスに「名のない物」が空から降ってくる。落ちた場所には、直径十二メートルの穴が開き、「名のない物」からは強い硫黄臭がする。それから七日七晩、強い雨が降り続くと、犬たちをのぞいて人々はそのことを忘れてしまう。しかし、その日から、村には硫黄臭が絶えず漂い続け、小麦の味を変え、パンを不味くしてしまう。ガルヴェイアスのあるアレンテージョ地方は穀倉地帯で、ポルトガルでは「パンのバスケット」と呼ばれている。呪いがかかったようなものだ。

主人公という特権的な立場に立つ者はいない。章がかわるたびに、一つの家なり、人なりに照明が当たり、その秘密や隠し事、他の家との確執、兄弟間の裏切り、復讐、喧嘩、和解といった出来事が語られる。面白いのは、あるエピソードにちょっと顔を出すだけの人や物が、別のエピソードの中では重要な役割を果たすという仕掛けを使っていることだ。

たとえば、ウサギ。冒頭で紹介したローザの息子が銃で撃ってきたウサギを五羽持ち帰る。ローザはそれを他所への届け物に使うのだが、亭主は四軒の届け先には納得がいくが、残りの一軒になぜウサギをやるのかが分からない。実はそのアデリナ・タマンコが、亭主の一物に呪いをかけるやり方を伝授してくれたのだ。話が進んだところで、ああ、あれはそういうことだったか、と納得する仕組み。つまりは伏線の回収なのだが、これが実に巧みでうならされる。

ウサギだけではない。オートバイ、銃、金の鎖といった小道具が、人の因果を操る呪物のように重要な役割を要所要所で果たす。それは人と人とをつなぐとともに、災いのたねともなる。たとえばウサギ狩りにも使われているオートバイは、村の若者が町に出かけるための必須アイテムだ。カタリノは路上レースで負けを知らず、ついには彼女をものにする。しかし、そのカタリノが兄とも慕うオートバイ修理工は、新婚の身で事故に遭ってしまう。

小さな村のことで、人々は互いをよく知っている。それでいながら、隠すべきことはしっかり隠している。そしてまた隠していても誰かには見られてもいる。「名のない物」が落ちたのを契機にして、箍が外れたようにそれが露わになる。中でも多いのは性に関わることだ。ブラジルから来たイザベラはパンを焼くのが本業だが、店は風俗店も兼ねている。若い妻を家に置き去りにしてカタリノはイザベラの店に通う。

イザベラがポルトガルに来たのはファティマかあさんの最後の頼みを聞いてやったからだ。ポルトガル生まれの老売春婦は、生まれ故郷に埋葬してほしいとイザベラに頼んで死んだ。棺桶と一緒に船に乗ってイザベラはガルヴェイアスにやってきた。そしてかあさんの家を継ぐことになった。そんなある晩、イザベラは村の医者マタ・フィゲイロの息子ペドロと車で夜のドライブに出た。

セニョール・ジョゼ・コルダトは、親子ほども年の離れた使用人のジュリアに焦がれ、自分の横で眠ってくれと懇願する。ジュリアには二十五にもなって遊び歩いているフネストという息子がいる。ジュリアのためを思ってセニョール・コルダトは懇意にしているマタ・フィゲイロ先生に仕事を紹介してもらう。収穫したコルク樹皮の見張り番だ。フネストは夜中にやってきた車に向かって威嚇射撃を行うが、朝になって警察に捕まる。撃たれたのはイザベラだった。

よかれと思ってしたことが、人を不幸にしもするが、逆に殺そうとまで恨んだ思いが和解を育むこともある。小さな村の錯綜した人間模様が複雑に絡みあい、一九八四年のガルヴェイアスに襲いかかる。「名のない物」の落下に始まる黙示録的な啓示は、どう果たされるのか。詩人で紀行文も書くという作家はシンプルで読みやすい文章で、ガルヴェイアスの住人の素朴な魂を紡ぎ出す。作家の故郷でもあるガルヴェイアスに行ってみたくなった。

『大いなる眠り』註解 第三十章(4)

《「ところで、私に何の落ち度があるというんです? 一切を任されているノリスはガイガーが殺されてこの件は終わった、と考えたらしい。私はそう思わない。ガイガーの接触の仕方には首をひねったし、今でも考えている。私はシャーロック・ホームズでもファイロ・ヴァンスでもない。警察がすっかり調べあげたところへ行って壊れたペン先か何かを拾い上げ、そこから事件を解決できるなんて思わないでほしい。もし、そんなやり方で生計を立てている者が探偵業界にいるとお考えなら、あなたは警官というものを全く分かっていない。もし警官が見落とすとしたら、そんなものではない。警官が本気で仕事をしているとき、そうそう見落としたりはしないものだ。もし警官が見落とすことがあるとしたら、もっと散漫で曖昧な何かだろう。たとえばガイガーのようなタイプの男だ。あなたに負債の証拠を送りつけ紳士らしく支払うことを要求している──ガイガーは後ろ暗い稼業に手を出して脛に傷を持つ身だ、ギャングの保護をうけ、少なくとも警察の一部から控え目な保護も受けている。そんな手合いが何故そんな真似をしたのか?ガイガーはあなたにつけ込む隙がないか知りたかった。隙があればあなたは金を払わなければならない。そんなものがなければ、あなたは無視し、向こうの次の動きを待てばいい。しかし、あなたには一つだけ隙があった。リーガンだ。あなたは見損なっていたのでは、と心配だった。リーガンがあなたの前に姿を現し、家に留まって親切にふるまっていたのは、あなたの銀行口座に手が出せるようになる機会を狙っていたのではないか、と」
 将軍は何か言いかけたが私は遮った。
「だとしても、あなたにとって金のことなどどうでもいい。娘たちのことさえどうでもよくなっていた。多分、とっくに見放している。ただ、相手にカモにされることをあなたの自尊心が許せなかっただけだ──それに、あなたはリーガンのことが心底気に入っていた」
 沈黙がおりた。それから将軍は静かに言った。
「口が過ぎるぞ、マーロウ。君はまだパズルを解こうとしていると理解していいのかな?」
「いや、やめました。警告を受けたので。警察は私のやり方が荒っぽすぎると考えている。お金は返すべきだと考えた理由はそれです──私の基準では仕事はまだ終わっちゃいない」
 将軍は微笑んだ。「やめることはない」彼は言った。「あらためて千ドル払おう。ラスティを探してくれ。戻ってくる必要はない。どこにいるのかを知りたいとも思わない。男には自分自身の人生を生きる権利がある。娘を捨てたことも、抜き打ちだった事も責めていない。おそらくものの弾みだったのだろう。知りたいのは、あれがどこにいようが元気でいることだ。それを直接本人から聞きたい。金の要るようなことが起きたのなら出してもやりたい。これでいいかな?」
 私は言った。「はい、将軍」
 しばらくの間、将軍は気を抜き、ベッドの上で緊張を解いていた。目は暗い目蓋に被われ、固く閉じた口には血の気がなかった。疲れ果てていた。持てる力をほぼ使い果たしていた。再び目を開けると、にやりと笑おうとした。
「私はたぶん感傷的な意地悪爺なんだろう」彼は言った。「そして兵はひとりもいない。あれのことは気に入ってた。清廉な男に見えたんだ。私は自分の人を見る目に自惚れ過ぎていたにちがいない。私のためにあれを見つけてくれ、マーロウ。見つけるだけでいいんだ」
「やってみます」私は言った。「今は休まれた方がいい。しゃべり過ぎてあなたを疲れさせたようだ」
 私はさっと立ち上がり、広いフロアを横切って外に出た。将軍は私が扉を開ける前に再び目を閉じた。両手はシーツの上に力なく横たえていた。たいていの死人よりもずっと死人のように見えた。私は静かに扉を閉め、二階廊下を歩いて、階段を下りた。》 

この章に関しては、双葉氏の訳を翻訳だとは思えない。マーロの長広舌に飽きたのか、「もし、そんなやり方で生計を」から「口が過ぎるぞ、マーロウ」までのこのテクストで十九行もの分量を全部すっ飛ばしている。次の「警告を受けたので。警察は私のやり方が荒っぽすぎると考えている」もカットしている。それ以外にも少しずつ訳さずにすませているところもあるが、これだけカットされていると、小さいことに思えてくる。

「私はたぶん感傷的な意地悪爺なんだろう」は<I guess I’m a sentimental old goat.>。双葉氏は「わしは感傷的な老いぼれ山羊じゃ」と、そのまま訳している。村上氏は「私はセンチメンタルな老いぼれなのだろう」と訳している。<old goat>には「意地悪老人、口うるさい年輩者」と「助平じじい、狒々(ひひ)おやじ」の二種類の意味がある。洋の東西を問わず、ヤギには好色漢のイメージがつきまとうが、まさかこちらの意味ではない。口うるさい老人の意味を採った。

「そして兵はひとりもいない」は<And no soldier at all.>。双葉氏はここもカット。村上氏は「もう兵士とは言えん」と訳している。老いたりとは言え、スターンウッドは将軍だ。将校には下士官がつきもの。リーガンを気に入っていたのは、同じ元軍人として彼を相手にすれば心を開いて話すことができたからだ。有能には違いないが、執事であるノリスにその役は務まらない。主人が使用人に胸襟を開くことはないからだ。リーガンを失ったスターンウッドは将軍の矜持も捨て、自分のことを<a sentimental old goat>と自嘲しているのだ。

それにしても、終わりも近づいてきたというのに、ここに至って、これほど訳し残すというのは、双葉氏に何があったのだろう。締め切り間に合わなかったのだろうか。ここまで、少々のカットはあってもこれほど長文を割愛することはなかった。正直わけが分からない。

『文字渦』円城塔

文字渦
中島敦に『文字禍』という短篇がある。よくもまあ同名の小説を出すものだ、とあきれていたが、よく見てみると偏が違っていた。『文字禍』は紀元前七世紀アッシリアのニネヴェで文字の霊の有無を研究する老博士ナブ・アヘ・エリバの話だ。同じ名の博士が本作にも登場するところから見て、連作短編集『文字渦』は中島の短篇にインスパイアされたものと考えられる。

『文字渦』の舞台は主に日本と唐土。時代は秦の時代から近未来にまで及ぶ。ブッキッシュな作風で、渉猟した資料から得た知識を披瀝する衒学趣味は嫌いではないが、近頃これだけ読めない字の並んだ本に出会ったことがない。康煕字典でも手もとに置いていちいち繙くのが本当だろうが、それも大変だ。とはいえ、文字が主題なので、それがなくては話にならない。一冊の本にするには、関係者の苦労は並大抵のことではなかったと推察される。ただし、外国語にはほとんど翻訳不可能だろう。

始皇帝兵馬俑発掘の際、同時に発見された竹簡に記された文字の謎解きを描いたのが表題作の「文字渦」。粘土で人形を作ることしかできない男が、俑造りのために召しだされる。腕を見込まれて始皇帝その人をモデルに俑を作ることになるが、その印象が日によって変わるのでなかなか捗らない。兵馬俑の成立過程とその狙いを語りつつ、物と直接結びついていた字が、符牒としての働きを持つ実用的な文字へと変化してゆく過程を描き出す。

阿語という稀少言語を探しながら各地を歩いていた「わたし」はあるところで「闘蟋」ならぬ「闘字」というものに出会う。「闘蟋」とは映画『ラスト・エンペラー』で幼い溥儀が籠の中に飼っていたあの蟋蟀を戦わせる遊びである。「闘字」は、それに倣い、向い合った二人が互いに硯に字を書いて、その優劣を競う。ヘブライ文字で書かれたゴーレムの呪文を漢字に書き換える論理のアクロバットが痛快無比の一篇「闘字」。

個人的には、「梅枝」に出てくる自動書記の「みのり」ちゃんがお気に入り。いくつものプーリーやらベルトで出来たガントリー・クレーンを小さくしたような形の機械ながら、『源氏物語』の紫の上の死を書き写す際、のめり込み過ぎて他の書体では書けなくなってしまうほど神経の細やかなオートマタなのだ。ニューラル・ネットワークによって学習する「みのり」は話者である「わたし」の一つ先輩である境部さんの自作。境部さんはアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』を自分で訳し直したものを「みのり」を使って絵巻に仕立てている。本は自分で作るものだというのだ。

この時代、紙は「帋」と呼ばれるフレキシブルディスプレイと化している。境部さんは言う。「表示される文字をいくらリアルタイムに変化させても、レイアウトを動的に生成しても、ここにある文字は死体みたいなものだ。せいぜいゾンビ文字ってところにすぎない。魂なしに動く物。文字のふりをした文字。文字の抜け殻だ」「昔、文字は本当に生きていたのじゃないかと思わないかい」と。

この境部さんのいう文字に魂があった時代、もう一人の境部が遣唐使として、唐の国に渡っている。白村江の戦いに敗れ、唐の侵攻を食い止めるための外交交渉の副使としての任務がある。高宗の封禅の儀式に立ち会い、皇后武則天の威光を知った境部石積は、一計を案じる。外交の窓口となる役人に二つの願いを出す。ひとつは函谷関を越え西域に旅をする許可。もう一つは、武則天の徳を讃えるために新しい文字を作ること、である。前者は日本がカリフの国と手を組んで唐を挟み撃ちにすることを意味している。

そんなことが許されるはずがないので、これは単なる脅しにすぎない。ではもう一つの方にはどんな意味があるのか。「石積は思う。もしもこの十二年、自分の考え続けてきた文字の力が本当に存在するのなら、皇后の名の下に勝手な文字をつけ加えられた既存の漢字たちは、秩序を乱されたことを怒り、反乱を企てるだろう。楷書によって完成に近づいた文字の帝国に小さな穴が空くだろう」と。

中島敦の『文字禍』に登場するナブ・アヘ・エリバの名が出てくるのが、この「新字」。老博士は文字の霊の怒りにふれ、石板に下敷きになって死ぬが、石積はその文字の力を信じ、一大帝国に揺さぶりをかけようとしているのだ。もし西域への旅が許されたら、同盟国を探すつもりだが、その頃日本は唐に攻め滅ぼされているかもしれない。それなら、新しい土地で新しい言葉で日本の歴史を記せばいい。それも「国を永らえる一つの道なのではないか。文字を書くとは、国を建てることである」と石積は考えている。

収められた十二篇の短篇の中には、横溝正史の『犬神家の一族』をパロディ仕立てにした「幻字」もあり、SF、ミステリ、歴史小説、王朝物語とジャンルの枠を軽々と越えて見せる変幻自在ぶりに圧倒されて、ついつい見逃しがちになるのだが、全篇を貫くのは「文字の力」という主題である。公文書の改竄や、首相、副首相の無残な識字力が世界中に知れ渡ってしまった今のこの国において、文字の魂、文字の力を標榜することは大いに意義深いものがあるといえるのではないだろうか。

『大いなる眠り』註解 第三十章(3)

《髭を剃り、服を着替え、ドアに向かった。それから引き返してカーメンの真珠貝の銃把ががついた小さなリヴォルヴァーをつかんでポケットに滑り込ませた。陽光は踊っているみたいに明るかった。二十分でスターンウッド邸に着き、通用門のアーチの下に車をとめた。十一時十五分だった。観賞用の樹木の枝では雨上がりに浮かれた小鳥が鳴き騒ぎ、段になった芝生はアイルランド国旗に負けないほどの緑で、敷地内のすべてがまるで十分前に作られたばかりのようだった。私は呼び鈴を鳴らした。はじめて鳴らしたのは五日前だが、一年も前のように思えた。
 メイドがドアを開け、脇廊下を抜けて玄関ホールに案内し、ミスタ・ノリスがすぐ参ります、と言って消えた。玄関ホールは前と変わりなかった。マントルピース上の肖像画はあの熱く黒い瞳をし、窓のステンドグラスの騎士は囚われの裸の姫君を縛る縄を木から解くのに手を焼いていた。
 しばらくしてノリスがやってきた。やはり何の変りもなかった。青い瞳はよそよそしく、灰色がかったピンク色の肌は健康で休養がとれていた。動くときは本当の年より二十歳は若く見える。歳月の重みを感じているのはこっちの方だ。
 我々はタイル敷きの階段を上がってヴィヴィアンの部屋の反対側に折れた。ひと足ごとに家はより広くより静かになるようだった。教会から抜け出てきたかのように頑丈で古びた大扉の前に来た。ノリスがそっと開けて中を見、それからその脇に立った。私はその前を通って中に入った。四分の一マイルはあろうかという絨毯の向こうに、ヘンリー八世の崩御を思わせる巨大な天蓋付き寝台があった。
 スターンウッド将軍は枕を支えに上半身を起こしていた。血の気のない両手は握られてシーツの上に置かれ、灰色が際立って見えた。黒い両眼はまだ闘争心に溢れていたが、顔の残りの部分はまだ死体の顔のようだった。
「かけなさい、ミスタ・マーロウ」彼の声は弱弱しく、少し堅苦しく聞こえた。
 私は椅子を近くに引き寄せ、腰を下ろした。窓は全部ぴっしり閉められていた。その時間にしては薄暗かった。日除けが空から来る眩しい光を遮っているのかもしれない。空気にはかすかに甘い老人の匂いがした。
 将軍はしばらくの間黙って私を見つめていた。それから片手を動かした。まるでまだ動かすことができることを自分に証明してみせるかのように。そしてもう一方の手の上に折り重ねた。彼は生気のない声で言った。
「義理の息子を探せと頼んだ覚えはない、ミスタ・マーロウ」
「でも、あなたはそうしてほしかったはず」
「頼んだ覚えはない。思い込みが過ぎる。私はして欲しいことを頼むことにしている」
 私は何も言わなかった。
「支払いはすんでいる」彼は冷やかに続けた。「いずれにせよ、金のことはどうでもいい。ただ、おそらく意図してではあるまいが君は信頼を裏切った、と私が感じているだけだ」
 それだけ言うと将軍は目を閉じた。私は言った。「それが言いたくて私を呼んだのですか?」
 将軍は再び目を開けた。ひどくゆっくりと、まるで瞼が鉛でできてでもいるかのように。「今の言葉に腹を立てているようだな」
 私は首を振った。「あなたは私より有利な立場にある、将軍。その有利な立場をあなたから奪おうなどとは兎の毛ほども願ってもいない。あなたが耐えなければならないことを考えれば小さなことだ。言いたいことは何でも言えばいい。私は腹を立てようなどとは思っていない。ただ、金は返した方がよさそうだ。あなたには意味のないことだが、私にとってはなにがしかの意味がある」
「君にはどんな意味があるというんだ?」
「納得がいかない仕事に対する支払いを拒否するという意味。それだけです」
「君は納得がいかない仕事をよくするのか?」
「ほんの少し。誰もがするように」
「どうしてグレゴリー警部に会いに行ったりしたんだ?」
 私は後ろに凭れて片腕を椅子の背にかけた。私は相手の顔をよく見た。その顔は何も語ってはいなかった。質問に対する答えが見つからなかった──納得のいく答えが。
 私は言った。「あのガイガーの借用書の一件は私をテストするのが主な狙いだったと確信しています。あなたはリーガンが強請りの企てに巻き込まれているのではないかと少し心配していた。私はリーガンのことを何も知らなかった。グレゴリー警部と話をしてみて分かったのです。リーガンがおよそそんなことをしそうな男ではないと」
「ほとんど質問に対する答えになっていない」
 私はうなずいた。「その通り、ほとんど質問に対する答えになっていない。どうやら私は直感で動いたことを認めたくないようだ。私がここに来た朝、あなたを残して蘭の部屋を出た後、リーガン夫人に呼ばれた。夫人は私が夫を探すために雇われたものと決めてかかっていて、それが気に入らないようだった。そしてうっかり口を滑らせた。<彼ら>が夫の車を車庫で見つけたらしい、と。<彼ら>というのは警察に決まっている。したがって、警察はこの件について何かつかんでいるに違いない。もしそうなら、その手の事件を担当するのは失踪人課だ。あなたが報告したのかどうかは知らなかった。勿論他の誰かかも知れない。それに、彼らが誰の報告を通じて車庫に乗り捨ててあった車を見つけたのかも。しかし、私は警官をよく知っている。彼らがそれだけのことを見つけたなら、今少しつかんでいると──特にお抱え運転手に前科があるような場合には。警察が何をつかんでいるのかはそれ以上知らなかった。失踪人課のことを考えたのはそれがきっかけだ。私に確信させたのはワイルド検事の態度だ。ガイガーの一件やその他もろもろのことで彼の家で話し合った夜、我々はしばらくの間二人だけになった。そのとき検事は、あなたがリーガンを探していることを話したかと訊かれた。私はあなたが、リーガンがどこにいるのか元気でやっているのかを知りたがっていると言った。ワイルドは唇を引いておかしな顔をした。それは端的に法的機関を通じて『リーガンを探している』と告げているように私には思えた。それでもグレゴリー警部にあたってみることにした。相手がまだ知らないことは何も話さないというやり方でね」
「そして君はグレゴリー警部に私がラスティ探しに君を雇ったと思わせておいたのか?」
「そうしました──警部が事件を担当していると確信した時に」
 将軍はまた目を開けた。目蓋がぴくぴく動いた。眼を閉じたまま彼は話した。「君はそれを倫理的だと考えるわけか?」
「はい」私は言った。「そう思います」
 突き刺すような黒い視線がびっくりするほど突然に死者の顔から外に出てきた。「たぶん私には理解できないだろう」彼は言った。
「あなたには分らないでしょう。失踪人課の課長は口の軽いほうではなかった。口が軽くてはあの部署は務まらない。こいつが実に抜け目のない口の堅い男で、自分を仕事に疲れた中年の木偶の坊だと見せようとしていて、もう少しで騙されるところだった。私がやってるのは山崩しの遊びじゃない。いつでもはったりが大きな要素になる。私が何を言おうが、警官は疑ぐってかかろうとする。ましてや老練な警官は私のいうことなど気にもしない。私のような業種で人を雇うのは、窓ふきを雇うのとは訳がちがう。八枚の窓を見せて「これを全部やったら終わりだ」と言うような訳にはいかない。あなたという人は、私があなたのために仕事をし終えるまで、何に耐え、何をしなければならなかったか、何も分かっていない。私は私のやり方でやる。あなたを守るためになら少々ルールも破るだろうが、それはあなたを思ってのことだ。依頼者の利益を一番に考える。相手が不正な場合を除いてだが、その場合でも私にできるのは仕事を断って口を閉ざしているだけだ。何よりも、あなたは私にグレゴリー警部に会いに行くな、とは言わなかった」
「事を難しくするよりは言わない方がましだ」彼はかすかな笑みを浮かべながら言った。》

真珠貝の銃把」は<pearl-handled>。双葉氏は文字通り「真珠柄」と訳している。村上氏は「真珠の握りのついた」と訳している。弾倉がそこに入るオートマティックとちがって、リヴォルヴァーの銃把はデザインに自由がきく。滑り止めに刻みを入れた象牙やら木やら様々な素材が使用される。ここで使われているのは真珠ではなく、貝の方だろう。

この部分では、双葉氏の訳さなかったところが異様に多い。新訳が出なかったら、マーロウがどう考えてこういう行動をとったか日本の読者は知らなかっただろう。以下に双葉氏がカットした部分を抜き出してみる。

「灰色が際立って見えた」「日除けが空から来る眩しい光を遮っているのかもしれない」「老人の」「それから片手を動かした。まるでまだ動かすことができることを自分に証明してみせるかのように。そしてもう一方の手の上に折り重ねた」「将軍は再び目を開けた。ひどくゆっくりと、まるで瞼が鉛でできてでもいるかのように」

「そしてうっかり口を滑らせた。<彼ら>が夫の車を車庫で見つけたらしい、と。<彼ら>というのは警察に決まっている。したがって、警察はこの件について何かつかんでいるに違いない。もしそうなら、その手の事件を担当するのは失踪人課だ。あなたが報告したのかどうかは知らなかった。勿論他の誰かかも知れない。それに、彼らが誰の報告を通じて車庫に乗り捨ててあった車を見つけたのかも。しかし、私は警官をよく知っている。彼らがそれだけのことを見つけたなら、今少しつかんでいると──特にお抱え運転手に前科があるような場合には。警察が何をつかんでいるのかはそれ以上知らなかった。失踪人課のことを考えたのはそれがきっかけだ。私に確信させたのはワイルド検事の態度だ。ガイガーの一件やその他もろもろのことで彼の家で話し合った夜、我々はしばらくの間二人だけになった。」のところは「お話を総合して」の一言でまとめている。

「それは端的に法的機関を通じて『リーガンを探している』と告げているように私には思えた。それでもグレゴリー警部にあたってみることにした。相手がまだ知らないことは何も話さないというやり方でね」「将軍はまた目を開けた。目蓋がぴくぴく動いた。眼を閉じたまま彼は話した」「突き刺すような黒い視線がびっくりするほど突然に死者の顔から外に出てきた」

「こいつが実に抜け目のない口の堅い男で、自分を仕事に疲れた中年の木偶の坊だと見せようとしていて、もう少しで騙されるところだった。私がやってるのは山崩しの遊びじゃない。いつでもはったりが大きな要素になる。私が何を言おうが、警官は疑ぐってかかろうとする。ましてや老練な警官は私のいうことなど気にもしない。私のような業種で人を雇うのは、窓ふきを雇うのとは訳がちがう。八枚の窓を見せて「これを全部やったら終わりだ」と言うような訳にはいかない。あなたという人は、私があなたのために仕事をし終えるまで、何に耐え、何をしなければならなかったか、何も分かっていない。私は私のやり方でやる。あなたを守るためになら少々ルールも破るだろうが、それはあなたを思ってのことだ。依頼者の利益を一番に考える。相手が不正な場合を除いてだが、その場合でも私にできるのは仕事を断って口を閉ざしているだけだ」

上の部分は「こいつにしゃべらせるんですから、こちらにもいろいろなて(傍点一字)がいります。あなたは窓拭き人夫を雇ったのじゃない。多少の機転もきかせるわけです」と、ずいぶん好き勝手に訳している。こうなると、もう訳とはいえない。「超訳」とでもいうしかない。

双葉氏の訳のいい加減さに驚いて、村上氏の訳について触れる場がなかったので、一例だけ引いておく。「山崩しの遊び」は<spillikins>。村上氏は「単純な積み木抜き取りゲーム」と訳している。<spillikins>は別名<jack straw>。昔は藁でやったのだろうが、今では専用の棒があって、それを適当に積んで、他の棒を動かさずに抜きとれば成功、という遊び。「将棋崩し」に似た遊びだ。「積み木抜き取りゲーム」だと「ジェンガ」と勘違いする人が出るのではないだろうか。

『大いなる眠り』註解 第三十章(2)

《グレゴリー警部はため息をついてねずみ色の髪をくしゃくしゃにした。
「もう一つ言っておきたいことがある」彼はほぼ穏やかと言っていい声で言った。
「君はいい男のようだ。だが、やり方が荒っぽ過ぎる。もし本当にスターンウッド家を助けたいと思っているのなら──放っておくことだ」
「その通りだろうな、警部」
「どんな気分だ?」
「最高だ」私は言った。「ほとんど一晩中、怒鳴られるためにあちこち引き回されていた。その前は濡れ鼠になって叩きのめされたんだ。体調は完璧だ」
「一体全体、何を期待していたんだ、君は?」
「他には何も」私は立ったまま、にやりと笑い、ドアのほうに歩きはじめた。あと一歩というところで、突然咳払いが聞こえ、厳しい声が飛んだ。「聞く耳は持たない、というわけか。君はまだリーガンを見つけられると思っているのか?」
私は振り返ってその目をまっすぐ見据えた。
「いや、リーガンを見つけられるとは思っていない。探すつもりもない。それでいいんだろう?」
 警部はゆっくり頷いた。それから肩をすくめた。「何でそんなことを言ったのかまったくもって分からない。幸運を祈る、マーロウ。いつでも寄ってくれ」
「ありがとう、警部」
 私は市庁舎を出て駐車場から車を出し、ホバート・アームズの自宅に帰った。コートを脱いでベッドに横になり、天井を見つめ、通りを行き交う車の音を聞きながら、太陽がゆっくり天井の隅を横切るのを見つめた。眠ろうとしたが眠れなかった。起きて、そぐわない時間だが一杯飲み、また横になった。それでもまだ眠れなかった。頭が時計のようにチクタク鳴った。ベッドに座り直し、パイプに煙草を詰めながら大声を出した。
「あの爺、何かつかんでるな」
 パイプは灰汁のように苦い味がした。脇に置いてまた横になった。心は偽りの記憶の波の上を漂った。同じことを何度もやり、同じ場所へ行き、同じ人々に会い、同じことを何度も言った。その度に現実のように感じた。何か現実の事件に、初めてぶつかるように。私は激しい雨をついてハイウェイに車を駆り立てていた。車の隅にはシルヴァー・ウィグが乗っていたが、一言も口を利かないので、ロスアンジェルスに着くまでに我々はもとの赤の他人に戻っていた。終夜営業のドラッグ・ストアで車を下り、バーニー・オールズに電話をかけた。リアリトで一人の男を殺した。これからエディ・マーズ夫人を連れてワイルドの家に向かう。夫人は私が殺すところを見ていた、と言った。私は雨に洗われて静まり返った通りをラファイエット・パークまで車を急がせ、ワイルドの大きな木造家屋の屋根のついた車寄せの下にとめた。玄関灯はすでに点っていた。私が来ることをオールズが話しておいたのだ。私はワイルドの書斎にいた。地方検事は花模様のドレッシング・ガウンを着て机に向かい、硬く厳しい顔つきで斑入りの葉巻を指の間で動かし、唇には苦い笑みを浮かべていた。オールズもいた。保安官事務所から来た痩せて白髪交じりの学者風の男は、警官というよりも経済学の教授のように見えたし、そういう話し方をした。私はあったことを話し、男たちは黙って聴いていた。シルバー・ウィグは陰に座って、誰を見るでもなく手を膝の上に置いていた。たくさんの電話が掛けられた。殺人課から来た二人の男は、まるで巡業中のサーカス一座から逃げてきた見慣れない動物か何かのように私を見た。私はもう一度車に乗り、そのうちの一人を隣に乗せてフルワイダー・ビルディングに向かった。我々はその部屋にいた。ハリー・ジョーンズはまだ机の向こうの椅子に腰かけていた。死に顔は歪んだまま硬直し、部屋には甘く饐えた匂いがしていた。検死官はひどく若い頑丈な男で首には赤い剛毛が生えていた。指紋係が徒に騒ぎ立てるので、採光窓の掛け金を忘れるな、と言ってやった(カニーノの親指の指紋がそこに残っていた。私の話を裏付ける、茶色の男が残した唯一の指紋だった)。
 またワイルドの家に戻り、秘書が別室でタイプした陳述書に署名した。それからドアを開けてエディ・マーズが入ってきた。シルバー・ウィグを見つけたときその顔に急に微笑みが閃いた。そして彼は言った。「やあ、シュガー」女は見向きもせず、返事もしなかった。エディ・マーズは生き生きして元気だった。黒いビジネス・スーツを着て、ツィードのコートから縁飾りのついた白いスカーフを覗かせていた。それからみんな出て行った。ワイルドと私だけを部屋に残して。ワイルドが怒りのこもった声で冷やかに言った。「これが最後だ、マーロウ。次にこんな人を出し抜くような真似をしてみろ、ライオンの檻に放り込んでやる。誰かが心を痛めようと知ったことか」
 その繰り返しだった。ベッドに横たわってじっと見続けている裡に、光の斑点が壁の隅を滑り落ちていった。そのとき電話が鳴った。ノリスだった。スターンウッド家の執事のいつも通り非の打ちどころのない声だ。
「マーロウ様? オフィスにお電話したのですが、不首尾に終わりまして、失礼をも省みずご自宅にお電話を差し上げた次第です」
「一晩中外出していたのでね」私は言った。「寝ていないんだ」
「さようでございましたか。もし、お差支えなかったら、将軍が今朝お目にかかりたいとのことです。マーロウ様」
「半時間かそれくらいで行ける」私は言った。「将軍の具合はどうだい?」
「横になっておられます。でも、具合は悪くありません」
「私に会うまではそうだろうね」そう言って電話を切った。》

「ねずみ色の髪をくしゃくしゃにした」は<rumpled his mousy hair.>。双葉氏は「くしゃくしゃな頭をかいた」と訳している。村上氏は「くすんだ色合いの髪をくしゃくしゃにした」だ。<mousy>は「(色、匂いなどが)ねずみのような」という意味。そういえば、最近はあまり「ねずみ色」という言葉を目にしなくなった。村上氏はそれで「くすんだ色合いの」としたのだろう。だが、わざわざ<mousy>と書いているのだから、使えばいい。「ねずみ色」は「灰色」と同様に扱われているが厳密には「やや青みがかった灰色」のこと。

「彼はほぼ穏やかと言っていい声で言った」は<he said almost gently.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「と彼は優しいと言えなくもない声で言った」だ。普通なら<he said>で済ますところを、わざわざ挿入しているのだ。何とか工夫して警部の心理を表そうとするのも訳する者の務め。<almost>は「九部通り、ほとんど」を表す。村上氏の「と言えなくもない」では、優しさの量が足りていないようにも思えるが、どうだろう。

「ほとんど一晩中、怒鳴られるためにあちこち引き回されていた」は<I was standing on various carpet most of the night, being balled out.>。双葉氏は「一晩じゅういろいろなところで、寝たり、起きたり」と意訳している。おそらく<ball out>のいい訳が思いつかなかったので<standing>を使って「寝たり、起きたり」と作文したのだろう。

村上氏は「昨夜はほとんど一晩中、あっちこっち引き回された。へとへとになるまで」と訳している。<ball out>を「ものすごい」という意味の俗語と考えたか、ゴルフでバンカーにボールを出すこと、ととったのか。しかし、その場合<ball>は<balled>と動詞のようには変化しない。<ball out>は「ひどく叱られる」という意味の<bawl out>の言い換えだろう。検事や刑事に譴責されるためにワイルドの家や殺人現場に引き回されたことを言っているのだろう。

「これからエディ・マーズ夫人を連れてワイルドの家に向かう。夫人は私が殺すところを見ていた、と言った」は<and was on my way over to Wilde’s house with Eddie Mars’ wife, who had seen me do it.>。双葉氏はここを「それから、エディ・マーズの妻をつれてワイルドの家へ行った」と訳している。<on my way>は「行く途中」で、これはオールズに電話で話した内容である。村上氏も「エディ・マーズの女房と一緒にこれからワイルド検事の家に行く。彼女は私がその男を殺すところを目撃した、と言った」と訳している。

「頑丈な男で首には赤い剛毛が生えていた」は<husky, with red bristles on his neck.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「頑丈そうな男で、首筋に赤い剛毛がはえていた」だ。

「私の話を裏付ける、茶色の男が残した唯一の指紋だった」は<the only print the brown man had left to back up my story.>。双葉氏は「私の話を裏づけする唯一の指紋だった」と訳し、「茶色の男」に言及していない。村上氏は「茶色ずくめの男が残した唯一の指紋として、私の話を裏付けてくれた」と訳している。

「次にこんな人を出し抜くような真似をしてみろ」は<The next fast one you pull>。双葉氏は「このつぎはでなことをやらかしたら」と訳している。村上氏は「次にこんな小賢しい真似をしたら」と訳している。<pull a fast one>は「人を騙す」という意味なので、双葉氏の訳は説明不足。村上氏の「小賢しい」は原義にかなっている。

<pull a fast one>が何故「人を騙す」の意味になるのか。一説によると、銃を早く抜いた方が卑怯者で、後から抜いた者は正当防衛で罪にならないという西部の掟からきているのだという。つまり、<one>は「銃」のことを指している。マーロウはカニーノに撃てるだけ撃たせてから撃っている。ワイルドが指弾しているのはそのことだ。

「私に会うまではそうだろうね」は<Wait till he see me.>。双葉氏は「会ったとき話そう」と訳している。マーロウはノリスに「(具合が悪くないというのは)将軍が私に会うまで待ってくれ」つまり、「会えば具合が悪くなる(かもしれないから)」という意味を言外に含ませている。村上氏は「私に会ったらどうなることか」と一歩踏み込んで訳している。

『大いなる眠り』註解 第三十章(1)

《次の日はまた太陽が輝いていた。
 失踪人課のグレゴリー警部はオフィスの窓から裁判所の縞になった最上階を物憂げに眺めていた。雨のあとで裁判所は白く清潔だった。それからのっそりと回転椅子を回し、火傷痕のある親指でパイプに煙草を詰めながら浮かぬ顔でこちらを見た。
「それで、また厄介ごとに巻き込まれたとか」
「もうあなたの耳に入ってるのか」
「やれやれ、一日中ここに尻をつけてるだけで、まるで頭に脳があるように見えないのだろうが、私が何を聞いているか知ったら君は驚くだろうよ。カニーノとかいうのを撃ったことに問題はないだろう。とは言え、殺人課の連中は君に勲章はくれないと思うね」
「私の周りで人がたくさん殺されているんだ」私は言った。「自分の取り分がまだだったものでね」
 警部はしたたかな笑みを浮かべた。「そこにいる女がエディ・マーズの女房だと誰に聞いたんだ?」
私は話した。警部は耳を傾け、そして欠伸した。窪めた掌で金歯の入った口を軽く叩いた。
「私が見つけるべきだったと考えているんだろう」
「そう考えるのが当然だ」
「知っていたかもしれない」彼は言った。「考えたかもしれない。エディと女がちょっとしたゲームをしたがってるのなら、上手くやれていると思わせておくのは気が利いてる──私にしては気が利いているとね。それとも、君はこう考えるかもしれない。私が専ら個人的な理由からエディが罪を免れるようにしたのだと」警部は大きな手を突き出し、親指を人差し指と中指にくっつけて回した。
「いや」私は言った。「そんなこと思いもしなかった。この間エディと会った時、我々のここでの話をすべて知っていたように思ったとしてもだ」
 警部は眉を上げようと骨を折っているようだったが、その芸当は練習不足で腕が落ちていた。額一面に皺が寄ったがすぐに消え、白い線のすべてが見る見るうちに赤みを帯びた。
「私は警官だ」彼は言った。「ただの平凡な普通の警官だ。適度に正直だ。流行遅れの世界で人が期待する程度には正直だ。今朝君に来てもらったのはそれが主な理由だ。信じてほしい。警官の身としては法が勝つところを見たい。派手な身なりをしたエディ・マーズのようなごろつきが、フォルサム刑務所の石切り場でマニキュアを台無しにするところが見たい。初めの仕事でドジを踏んで以来休みなしの哀れなスラム育ちの物騒な連中と並んでな。それが私の望みだ。君も私も、そんな望みがかなうと思えなくなるほど長くここに住んでいる。この街では無理だ、ここの半分くらいの街でも無理、この広々として緑萌える美しい合衆国中のどこでも無理だ。我々はこの国をそのように動かしていない」
 私は何も言わなかった。警部は頭を後ろにぐいと引いて煙を吐き、パイプの吸い口を見ながら続けた。
「しかし、それは私がエディ・マーズがリーガンを殺したと考えていることを意味しない。殺す理由が思いつかないし、もし理由があったにせよ殺したとは思えない。もしかしたら何かつかんでいるのでは、と考えている。遅かれ早かれそれは明るみに出る。女房をリアリトに隠すなどというのは子どもっぽい。しかし、それは賢い猿が自分の賢さを見せつける類の子どもっぽさだ。あいつは昨夜ここにいた。地方検事の取り調べの後だ。すべて認めたよ。カニーノは頼りになる用心棒で、それが雇った理由だと言っていた。ただ、カニーノの趣味は知らないし、知りたいとも思っていない。ハリー・ジョーンズも知らないし、ジョー・ブロディも知らない。ガイガーのことは勿論知っていたが、裏の稼業については知らなかったと主張した。みんな聞いたんだろう」
「聞いた」
「リアリトではうまく立ち回ったな。小細工などせずに。近頃、我々は出所不明の銃弾のファイルを残している。いつか再びその銃を使うようなことがあれば、窮地に陥るだろう」
「私はうまく立ち回ったわけだ」私はそう言って流し目をくれた。彼は叩いて中身を捨てたパイプを、物憂げに見つめた。「女はどうなった?」彼は顔を上げずに訊いた。
「よくは知らない。警察は拘留しなかった。我々は三通の陳述書を書いた。ワイルド、郡保安官事務所、殺人課に宛てて。女は放免され、その後は見ていない。会えるとも思えない」
「どちらかといえば、いい女だそうじゃないか。悪事などしそうにない」
「どちらかといえば、いい女だ」私は言った。》

「その芸当は練習不足で腕が落ちていた」は<a trick he was out of practice on.>。双葉氏は「何かをごまかそうとするときのて(傍点一字)だ」と訳している。村上氏は「それは苦労して身につけた芸のようだ」と訳している。<out of practice>は「練習不足で腕がなまる」の意味。それがどうして、このような訳になるのかが分からない。

「君も私も、そんな望みがかなうと思えなくなるほど長くここに住んでいる」は<You and me both lived too long to think I'm likely to see it happen.>。双葉氏は「君も私もずいぶん長生きしている。私がそういう場面を見たがっている気持ちはわかるだろう」と訳しているが、<too long to think>を正しく訳していない。村上氏は「ただし、そんな展開が望めそうにないことは、俺もあんたも長年の経験から承知している」と訳している。

双葉氏はこう訳したことで、それに続く以下の部分を完全に誤解してしまう。<Not in this town, not in any town half this size, in any part of this wide, green and beautiful U.S.A. We just don’t run our country that way.>を「この町でも、もっと小さい半分くらいの町でも、この広い青々とした美しい合衆国のどんな土地でも、奴らにのさばらせてはならん。私たちはそんなふうにこの国をまかなっておらんのだ」と。

村上氏は「この都市においても、またこの広大にして緑なす美しきアメリカ合衆国の、ここの半分くらいのサイズの都市ならどこといわず、そんなことはまず起こらんだろう。俺たちの国はそういう具合には運営されてないんだ」と訳している。意味としては合っているが、<not>を先頭に立てて、畳みかける原文の強い否定の意志が弱められている。それは、最後の文の主語が<we>から<our country>に代わっていることからも分かる。日本人なら国が誰かによって「運営されて」いると思うのかもしれないが、アメリカ人であるグレゴリー警部はちがう。法を守る立場にある人のこの苦々しさを薄めてはいけないと思う。

『大いなる眠り』註解 第二十九章(2)

《しばらく沈黙が下りた。聞こえるのは雨と静かに響くエンジン音だけだった。それから家のドアがゆっくり開き、闇夜の中により深い闇ができた。人影が用心深く現れた。首の周りが白い。服の襟だ。女がポーチに出てきた。体を強張らせて、木彫りの女のようだ。銀色の鬘が青白く光っている。カニーノは念入りに女の後ろから腰をかがめて出て来た。その様子が必死過ぎて吹き出してしまうところだった。
 女は階段を下りてきた。その顔が白くこわばっているのが見えた。車の方に歩きはじめた。私がまだ目に唾を吐けるかもしれないと用心してカニーノが盾にしているのだ。雨音をついて話し声が聞こえてきた。ゆっくりとした話しぶりで、声はまったく調子というものを欠いていた。「何も見えない、ラッシュ、ガラスが曇ってる」
 カニーノが何かぶつぶつ言い、女は体をぴくんとさせた。まるで背中に銃を押しつけられたように。女はまた前に進み、明かりの消えた車に近づいた。その後ろに今はカニーノが見えた。帽子と横顔、広い肩が。女が凍りついたように立ち止まり、叫んだ。美しい薄衣を裂くような悲鳴は私を揺さぶった。まるで左フックを喰らったみたいに。
「見える!」彼女は叫んだ。「ガラス越しに、ハンドルの向こう側、ラッシュ!」
 カニーノはそれに飛びついた。女を荒っぽく脇に突き飛ばし、銃を構えて前に飛び出した。また三発、炎が暗闇を切り裂いた。ガラスの弾痕がまた増えた。銃弾が一発、車を突き抜け、私のそばの木にぶつかった。跳弾が遠くで唸った。それでも、エンジンは変わりなく動き続けていた。
 男は闇を背に、這うように身を低くした。形のない灰色の顔が、銃撃でぎらついた後ゆっくりもとに戻っていくかのようだった。もし手にしているのがリヴォルヴァーなら弾倉は空かもしれず、ちがうかもしれない。六発撃っていた。が、家の中で装填したかもしれない。それなら好都合だ。弾のない銃を手にした相手と撃ち合いたくない。ただ、オートマティックということもある。
 私は言った。「終わったのか?」
 カニーノはさっと振り向いた。たぶん古き良き時代の紳士なら、相手があと一発か二発撃つのを待っただろう。が、銃はまだこちらを狙っていて、長くは待てなかった。古き良き時代の紳士になるには時間が足りなかった。私は四発撃った。コルトは肋骨に食い込んだ。まるで蹴られたかのように男の手から銃が飛び出した。カニーノは両手で腹を押さえていた。私は銃弾が体にまともに当たる音を聞いていた。彼は大きな両手で自分を抱くようにして真っ直ぐ前に倒れた。濡れた砂利の上に顔から落ちた。その後は何も聞こえなかった。
 銀色の鬘の女も何も言わなかった。纏わりつく雨の中、固まったように突っ立っていた。私はカニーノの方に歩いて行き、当てもなく銃を蹴った。それからさらに歩いて横に身をよじって銃を拾い上げた。それが私を女に近づかせることになった。女は憂鬱そうに語りかけた。まるで独り言でも言うように。
「私──私、心配してた。あなたが戻ってくるんじゃないかと」
 私は言った。「デートだよ。言ったはずだ、すべて台本通りだと」私は気が狂ったように笑い出した。
 それから女はカニーノの上に身をかがめ、体に触れた。少しして立ち上がった時、手には細い鎖のついた小さな鍵があった。
 彼女は苦々しく言った。「殺す必要があった?」
 私は始めたのと同じくらい突然に笑うのをやめた。女は私の背中に回って手錠を外した。
「そうね」彼女は優しく言った。「あなたはそうしなければならなかった」》

カニーノは念入りに女の後ろから腰をかがめて出て来た」は<Canino came crouched methodically behind her.>。双葉氏は「キャニノはぴたりと彼女の背後について、彼女が歩くとおりに歩いた」と訳しているが、これでは<crouch>が訳せていない。村上氏は「彼女の背後からカニーノが、いかにも念入りに身を伏せてやってきた」と訳している。

「その様子が必死過ぎて吹き出してしまうところだった」は<It was so deadly it was almost funny.>。簡単な文だが、<deadly>が曲者だ。双葉氏は「あまり不気味なのがかえってこっけいだった」と訳している。村上氏は「その様子があまりにも真剣だったので、見ていて吹き出したくなるほどだった」としている。それまで、マーロウはカニーノに圧倒されていた。しかし、カニーノも人の子、ということがここで分かる。ここから一気に攻勢に転じるのだ。「不気味」と訳してはまずいだろう。

「私がまだ目に唾を吐けるかもしれないと用心して」は<in case I could still spit in his eye.>。双葉氏はここをカットしている。<in case>は「〜の場合の用心に、〜するといけないから」の意味。村上氏は「まだ私が健在で、彼の目に唾を吐きかけるかもしれないので」と訳している。女を盾にとる時点で、カニーノという男の値打ちが下がっている。

「銃弾が一発、車を突き抜け、私のそばの木にぶつかった。跳弾が遠くで唸った」は<One bullet went on through and smacked into a tree on my side. A ricochet whined off into the distance.>。双葉氏は「弾丸の一発は私のそばの立木にぶっつかった」と二つ目の文をカットしている。村上氏は「一発の弾丸は車を突き抜け、私のそばの樹木にめり込んだ。跳弾が遠くで唸りを立てた」と訳している。

三発のうちの一発<one bullet>だけが車の外に飛んできたのだ。村上氏の訳では、その一発は樹木にめり込んでいるはず。それでは遠くで唸りを立てた「跳弾」は誰が撃った弾だろう?問題は、村上氏がおそらく辞書など引かずに<into>を「(外から)〜の中に(入り込んで)」という通常の意味に解釈したことにある。しかし、辞書には衝突を表す「ぶつかる」という意味がちゃんと記されている。そう解釈しないと<ricochet>という、石の「水切り」や、跳ね返った弾を表す「跳弾」が、どこから出てきたのかが分からなくなる。

「私は銃弾が体にまともに当たる音を聞いていた」は<I could hear them smack hard against his body.>。双葉氏はここもカット。村上氏は「銃弾が彼の身体にきつくめり込む音を耳にすることができた」と訳している。「身体にきつくめり込む音」という訳はどうだろうか。<smack>には「強く叩く」という意味はあっても「めり込む」という意味はない。ひとつ前の<smacked into>を「めり込んだ」と訳したのを引きずっているのではないだろうか。

双葉氏がカットした部分を村上氏が復元していることは高く評価しているが、双葉氏の訳していないところで、村上氏の勇み足が目立つような気がする。双葉氏が訳していないのは、これが正解というぴったりくる訳が見つからず、それでいて、カットしても不都合にならない箇所であることが多い。もともと新訳は旧訳に負うところが多いものだ。それだけに、旧訳にない部分はよほど気を引き締めて訳す必要がある。