marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第八章(4)

《男は笑った。かなり子どもっぽい笑いだったが、年端も行かない子の笑いではない。「ああ、正直に言うと、電話帳を開いてたまたま見つけたのが君の名前なんだ。元々、誰も連れていかないつもりだった。それが今日の午後、連れがいるのも悪くないと思いついてね」
 私はぺしゃんこになった煙草に火をつけ、相手の喉の筋肉を見た。「で、段取りは?」
 マリオットは両手を広げた。「単に言われたところに行き、金の包みを渡し、そして翡翠のネックレスを受け取るだけだ」
「ははあ」
「君はその表現がお気に入りのようだね」
「表現というのは?」
「ははあ」
「私はどこにいればいいのかな―車の後部座席ですか?」
「そう考えている。なにしろ大きな車だ。楽に身を隠すことができる」
「いいですか」私はゆっくり言った。「あなたは車に私を隠して今夜これから指定される場所に行こうとしている。あなたは八千ドルの紙幣でもって、十倍か十二倍もする翡翠のネックレスを買い戻そうとしている。おそらくあなたが受け取る包みは、受け取れたとしてですが、その場で開けることは許されないでしょう。相手はただ金だけを取り、どこかで金を数え、ネックレスは後で郵送してくる可能性があります。もし、気前がよければ、ですが。相手が裏切らないという保証はどこにもない。私には絶対にそれを止めることができない。相手は強盗犯だ。ごろつきです。奴らはあなたの頭を殴るかもしれない。そう強くはなく、逃げる時間を確保する程度に」
「ああ、実のところ。私もそのことを少し心配している」彼は静かに言った。眼がぴくっと動いた。「誰かに一緒に来てもらいたいと思ったのはそれが理由だ」
「連中はホールドアップの最中、あなたの顔を懐中電灯で照らしましたか?」
 マリオットは首を振った。ノーだ。
「些細なことです。その後何度でもあなたを目にする機会はあったはずだ。いずれにせよ、連中はおそらくあなたのことを事前に調べあげている。この手の仕事には下見がつきものだ。連中は下見をするんです。歯医者が金の詰め物をする前に歯型をとるようにね。あなたはその女性とよく外出するんですか?」
「まあ、往々にしてというところかな」彼はこわばった調子で言った。
「既婚者ですか?」
「いいか」彼は鋭く言った。「その女性のことはこの件からすっぱり除外しておきたい」
「オーケイ」私は言った。「しかし、生兵法は大怪我のもとです。私は手を引くべきだ、マリオット。本当にそうすべきです。連中がまともに取引するつもりなら私は必要ない。もしその気がなければ、私には何もできない」
「君が一緒にいてくれれば、それだけでいいんだ」彼はあわてて言った。
 私は肩をすくめ、両手を広げた。「オーケイ。でも、車は私が運転する。それから金も私が運ぶ―あなたは後部座席に隠れているんだ。我々はよく似た背の高さだ。何か訊かれたら、本当のことをいうさ。失うものは何もない」
「駄目だ」彼は唇を噛んだ。
「私は何もしないで百ドル貰う。もし誰かが殴られなければならないとしたら、それは私であるべきだ」
 マリオットは眉をひそめ、首を振ったが、時がたつにつれてゆっくりと顔が晴れてゆき、やがて微笑みが浮かんだ。
「けっこうだ」彼はおもむろに言った。「大した違いはないじゃないか。我々は一緒にいるわけだし。ちょっとブランデ-でもどうかな」
「ははあ。それと私の百ドル札も持ってきてくれますか。金の手触りが好きでね」
 マリオットはダンサーのように立ち去った。腰から上はほとんど静止していた。
 部屋を出て行きかけたとき電話が鳴った。電話は居間ではなく、バルコニーに穿たれた小さな壁龕にあった。我々が待っていた電話ではなかった。話し声にあまりにも愛情が籠められていた。
 しばらくして、マリオットが踊るように戻ってきた。五つ星のマーテルのボトルと手の切れそうな五枚の二十ドル札を手にして。それで素晴らしい宵となった―少なくともそこまでは。》 

「ぺしゃんこになった煙草」は<my squashed cigarettes>。清水氏は「タバコ」とだけ。村上氏は「くしゃくしゃになった煙草」だ。<squash>は「押しつぶす、ぺちゃんこにする」の意味。ポケットの中でパッケージが押されて、くしゃくしゃになったのだろう。マリオットのいかにも優美な「黒っぽい煙草」との対比だ。

「相手の喉の筋肉を見た」は<watched his throat muscles>。ここを清水氏は「彼の咽喉の筋肉が動くのを見つめた」と訳している。どう見ても<muscles>は名詞なのだが、村上氏も「彼の喉の筋肉が動くのを眺めた」と訳している。村上訳によくあることだが、旧訳をそのまま、少し訳を変えているだけではないか。

「どこかで金を数え」は<count it over in some other place>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「どこか別の場所でそれを数えて」と、ほぼ直訳している。同じく「もし、気前がよければ、ですが」も清水氏はカット。原文は<if they feel bighearted>。村上氏は「もし気前がよければ」と語順を変えて前につけている。

「眼がぴくっと動いた」は<his eyes twitched>。清水氏はここもカット。村上氏は「目がぴくぴく震えた」と訳している。<twitch>は無意識に体の一部をぴくぴく動かせる様子で、痙攣的な動き。緊張の表出である。ここをカットするのはどうだろう。

「マリオットは首を振った。ノーだ」は<He shook his head, no>。清水氏は「彼は頭を横に振った」と訳している。首を振るだけでは、縦か横かはわからない。日本語の場合、ただ「首を振る」というと、横に振ることをいうことが多い。それでこう訳したのだろう。村上氏は「彼は首を振った。ノーということだ」と訳している。

「まあ、往々にしてというところかな」は<Well-not infrequently>。<infrequently>は「まれに」の意味。それを否定しているのだから「しょっちゅう、頻繁に」の意味だ。ところが、清水氏は「いや—―しじゅうというわけではない」と反対の意味に訳してしまっている。誤訳といっていいだろう。村上氏は「ああ—―たまにしか会わないというと嘘になるだろう」と意味ありげに訳している。

「生兵法は大怪我のもと」と意訳したのは<the more I know the fewer cups I break>。なんとなく格言風の響きがあるのでこう訳してみた。清水訳では「よけい知ってる方がしくじる場合が少ない」。村上訳では「不明な事情が多いほど、手違いは起こりやすいものです」だ。もっと、ぴったりくる諺があると思うのだが、不勉強にして思いつかない。

「駄目だ」は<No>。どう考えても否定だと思うのだが、清水氏の訳では「そうだな」と、不服ながらも同意の意を呈している形になっている。これもおかしい。村上訳では「そいつは困る」だ。自分の代わりに相手が危険な目に遭おうとしているのだ。同意するのはモラルに反する。この時点ではマリオットはそこまで腐っているとも思えない。

「彼はおもむろに言った」は<he said slowly>。よく出てくる表現なので「彼はゆっくり言った」と訳したくなるのだが、それだと機械的すぎる。文脈に沿って考えると、言い方ではなく、言葉が出るまでに時間がかかった、と考えられる。そこで、こう訳したのだが、清水氏は「と、彼は苦笑して、いった」と意訳している。村上氏は「と彼はのんびりした声で言った」と訳している。文脈の捉え方ひとつで、簡単な一文がこうも変わる一例である。

「マリオットが踊るように戻ってきた」は<He danced back>。清水氏は<danced>をカットして「部屋に戻って来た」と訳している。部屋を出て行くときの様子と平仄を合わせているのだから、カットするべきではない。村上氏は相変わらず語をふんだんに使用して「彼は再び踊るような身振りで歩いて戻ってきた」と訳している。少し過剰な表現のように思うのは原文のシンプルさに慣れてしまったからだろうか。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第八章(3)

《「そいう苦情はよく受けます」私は言った。「が、態度を変えてもうまくいくとも思えない。この仕事について少し考えてみましょう。あなたはボディガードがほしい。しかし、銃は携行させたくない。あなたは助けがほしい。しかし、どう助ければいいか教えもしない。あなたは目的も理由も、どんな危険なのかも知らない私に危険を冒すことを求めている。これにいくら払うつもりですか?」
「それについてはまだ考えていなかった」頬骨に黒っぽい赤みが差した。
「どうなんです。それについて考えられそうですか?」
 マリオットは優雅に体を前に傾け、歯の間で微笑んだ。「鼻に素早いパンチというのはいかがかな?」
 私はにやりと笑って立ち上がり、帽子を手にとった。私は絨毯を横切り、玄関の方に歩きはじめた。ただし、急がずに。
 声が背中にかみついた。「百ドル出そう。二、三時間でいい。それで足りなければ、そう言え。危険はない。私の友人がホールドアップにあって宝石を奪われた―それを私が買い戻すんだ。座ってくれ。そんなにピリピリするな」
 私はピンクの椅子に戻って、座り直した。
「いいでしょう」私は言った。「詳しく話してください」
 我々はみっちり十秒間たがいに見つめあった。「翡翠について聞いたことがあるかね?」彼はゆっくり尋ね、黒っぽい煙草に新しく火をつけた。
「いいえ」
「真に価値のある硬玉だ。他の硬玉は材料としてはある程度価値がある。だが、それらは主として細工の出来によるものだ。翡翠はそれ自身が価値を持つ。知られている限り、鉱床は五百年も前に掘りつくされた。私の友人は、精巧に細工された約六カラットのビーズ六十個からなるネックレスを所有している。八万から九万ドルの価値がある。中国政府はそれよりほんのわずか大きいものを持っているが、十二万五万ドルと評価されている。数日前の夜、友人がホールドアップに遭ってネックレスを奪われた。私もそこにいたんだが何もできなかった。私は友人をイヴニング・パーティーに連れて行った帰り、<トロカデロ>に寄り、そこから友人の家に帰る途中だった。一台の車が左のフロント・フェンダーをかすめて停車した。謝罪するためだろうと思ったんだが、何のことはない。それが頗る機転の利いた手際のいいホールドアップだった。三人か四人組だ。私が実際に目にしたのは二人だが、他に車の運転席に待機していたのは確かだ。それとリアウィンドウにちらっと四人目を見た気がする。友人は翡翠のネックレスを身に着けていた。奴らはそれのほかに指輪二つとブレスレットを盗った。リーダーと思しき人物は、慌てることもなく小さな懐中電灯の下で獲物を調べていた。それから指輪の一つを手渡してこう言った。どんな種類の人間と取引しているか分かっただろう。警察や保険会社に報告する前に電話を待て、と。それで指示に従うことにしたんだ。もちろん、そういうことはよくある。口に蓋をして金を払うか、二度と宝石を見ないで済ませるかだ。保険が満額かけてあれば、多分放っておく。しかしそれが貴重なものなら、金を払って買い戻す方を選ぶだろう」
 私は頷いた。「それにこの翡翠のネックレスはどこにでも転がっている品物ではない」
 マリオットは夢見るような表情を浮かべてピアノの艶出しされた表面に指を滑らせた。夢見るような表情を浮かべ、まるで滑らかなものに触れることで癒されるとでもいうように。
「まさしくその通り。かけがえのない品だ。あれを身につけて出るべきではなかった。しかし、向こう見ずな女でね。他のものも悪くはないが、どこにでもあるものだ」
「なるほど。で、いくら払うのですか?」
「八千ドル。安すぎるくらいだ。しかし、友人が代わりのものを手に入れることができないように、奴らもまた簡単に処分することもできない。あれは国中の同業者の間に知れ渡っているんだ」
「そのあなたの友人ですが―名前はお持ちなんでしょうね?」
「今のところそれをいうのは控えたい」
「どういう段取りになってます?」
 マリオットは淡い青い眼越しに私をじっと見た。ちょっと怯えているようだった。しかし、私は相手をよく知っているわけではない。もしかしたら二日酔いなのかも知れない。黒っぽい煙草を持つ手はじっとしていることができなかった。
「我々は数日間私を通して電話で交渉した。すべて手はずは整った。時間と場所を除いて。今夜のいつになるか。私は今、その電話を待っているところだ。そんなに遠くではないと言っていた。いつでも出られるように準備しておかないといけない。罠を仕掛けられないようにするためだろう。いやその、警察にということだ」
「ははあ。金にはしるしがついているんですか? 紙幣だと思うのですが」
「紙幣だ、当然だろう。二十ドル紙幣。しるしはついていない。なぜそんなものがいる?」
「できるんですよ。ブラックライトを当てれば見えるように―特に理由はありません。警察はギャングどもを潰したがっています―当事者の協力が得られれば、ですが。使った金のどれかから運よく前科者が見つかるかもしれない」
 マリオットは考え深げに眉根にしわを寄せた。「あいにく、ブラックライトやらについては不案内だ」
「紫外線です。特定の金属製のインクを暗闇の中で光らせる。やってあげることもできます」
「今となっては時間がないようだ」彼はそっけなく言った。
「それが気になっていることの一つです」
「というと?」
「今日の午後、なぜ私に電話してきたんです? どうして私だったのか。誰が私を紹介したんですか?」》

「が、態度を変えてもうまくいくとも思えない。この仕事について少し考えてみましょう」は<But nothing seems to do any good. Let's look at this job a little>。清水氏は「しかし、いったい、どういう仕事をさせようというんです?」と意訳している。村上氏は「でも変えようがないもので。いいですか、今回の仕事についてちょっと考えてみましょう」と訳している。

翡翠」は<Fei Tsui jade>。清水氏は「翡翠という硬玉」、村上氏は「フェイツイ翡翠」と訳している。村上氏は「フェイツイ」を固有名詞か何かと考えているふしがある。「フェイツイ」はそのまま「翡翠」の中国語の発音で、<jade>は「硬玉」の意味。その後に長々と説明が続くので、ここは「翡翠」と訳せばいいだけのことだ。

「何のことはない。それが頗る機転の利いた手際のいいホールドアップだった」は<Instead of that it was a very quick and very neat holdup>。清水氏は「それがホールドアップだった」と簡単に訳している。村上氏は「ところが何あろう、それは巧妙に計画された手際のいいホールドアップだった」と訳している。

「紙幣だと思うのですが」は<I suppose it is money?>。清水氏は「支払いは紙幣だと思うが……」。村上氏は「それが本物の金だとすればですが」と訳している。どうしてこういう訳になるのだろう。マリオットの答えは<Currency, of course>。<Currency>は「流通通貨」のことで、通常使われている通貨のことである。ここも村上氏は「今の時点ではもちろん本物だ」と、含みのある言い方をしている。後で何かが起きるのだろうか。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第八章(2)

《男の前を通り過ぎると、香水の匂いがした。男はドアを閉めた。エントランスは低いバルコニーに通じていた。大きなワンフロアの居間の三面に金属製の手すりが巡らされ、残る一面に大きな暖炉と二枚のドアがあった。暖炉には薪のはぜる音がしていた。バルコニーには書棚が並び、艶のある金属製の彫刻のようなものがいくつか、各々台座の上に載っていた。
 居間の中心部まで階段を三段下りた。絨毯は踝をくすぐりそうだった。蓋を閉じたコンサート・グランド・ピアノがあった。片隅の、桃色のベルベットの布裂の上に背の高い銀の花瓶があり、黄薔薇が一本挿してあった。趣味のいい落ち着いた家具が揃い、実に多くのフロア・クッションがあった。中には金色の房がついたものや、房のついていないのものがあった。荒っぽいことに縁がない者には、それなりに居心地のいい部屋だ。大きなダマスク織りの寝椅子が、枕営業に使いでもするのか、陰になった一隅に置かれていた。人々が胡坐をかいて座り、砂糖の塊をとかしいれたアブサンを啜りながら、気取った声でしゃべったり、時には金切り声を上げたりしそうな部屋だった。仕事以外なら何でも起こり得る部屋だった。
 リンゼイ・マリオット氏はグランド・ピアノの曲線に身を預け、黄薔薇の香を嗅ごうと身をかがめ、それからフレンチ・エナメルのシガレットケースを開け、金の吸い口のついた長い茶色の煙草に火をつけた。私はピンク色の椅子に腰をおろし、跡が残らねばいいがと願った。私はキャメルに火をつけ、鼻から煙を出し、台の上できらめく金属を見た。豊かで滑らかなカーブを見せ、浅いくぼみとカーブの上に二つの隆起があった。私はそれを見つめ、マリオットは私がそれに目を留めているのを見た。
「ちょっと面白いだろう」彼は無頓着に言った。「この間見つけたんだ。アスタ・ディアルの『暁の精神』だ」
「私は、クロップスタインの『尻の二つの疣』かと」
 リンゼイ・マリオット氏の顔は蜜蜂を飲みこんだようになったが、何とか努力してやり過ごした。
「君は一風変わったユーモアのセンスをお持ちのようだ」
「特に変わってはいません」私は言った。「遠慮がないだけです」
「そのようだね」彼はたいそう冷やかに言った。「ああ、もちろん。言うまでもない…ところで、君に来てもらったのは、実際のところ些細なことなんだ。君の手を煩わせるほどの価値はない。私は今夜何人かの男に会って、多少金を払うのだが、誰かに立ち会ってもらう方がいいのではと思ったんだ。銃は携行しているのかな?」
「時によっては」私は言った。私は肉付きのいい顎にできた広い窪みを見ていた。おはじきがすっぽりとおさまりそうだ。
「それを使ってもらいたくない。そういうことでは全くない。純粋に仕事上の交渉なんだ」
「あまり人を撃ったことはありません。恐喝ですか?」
 マリオットは眉をひそめた。「そうじゃない。普段から、人に恐喝されるような根拠を与えないように気をつけている」
「慎ましい人だってそういう目に遭うことはある。慎ましい人だからこそそういう目に遭うと言えるかもしれない」
 マリオットは煙草をゆらゆらと振った。藍緑色の眼にかすかに物思いが滲み出たが、唇は微笑みを浮かべていた。絹の首吊り縄が似合いそうな微笑だ。
 マリオットはもう少し煙を吹いてから首を後ろにそらせた。それが喉の柔らかいしっかりした線を強調することになった。両眼がゆっくりと下がってきて私を値踏みした。
「おそらくその男たちとはどこか寂しい場所で会うことになるだろう。どこになるかはまだ知らない。詳しいことは電話で知らされるはずだ。いつでも出られるように用意しておかねばならない。そんなに遠いところではないはずだ。分かっているのはそんなところだ」
「いつから始まった話ですか?」
「実際のところ、三日か四日前だ」
「ボディーガードの件にずいぶん時間がかかりましたね」
 マリオットはそのことについて考えこんだ。そして煙草の黒い灰を落とした。「その通りだ。心を決めかねていた。独りで行くのがいいのか、誰かが私と一緒にいてもいいのか、はっきりとは言っていなかった。一方、私はあまり勇敢でもない」
「もちろん向こうは顔を知ってるんですね?」
「どうかな、私は大金を運ばなくてはいけないが、それは私の金ではない。友だちのために動いているんだ。もちろん、自分の金を払うわけじゃないからどうだ、ということはないが」
 私は煙草を消し、ピンク色の椅子に背をもたせて、組んだ両手の親指を弄んだ。
「金額はいくらで―そもそも何のために払うのですか?」
「ああ、それは―」今では曇りのない良い感じの微笑になっていたが、私はまだ気に入らなかった。「中身に立ち入ることは避けた>い」
「私は、あなたの帽子を持ってただついて行けばいいのですね?」
マリオットはまた手を急に動かし、灰が白いカフスに落ちた。そして灰をふるい落とし、灰があった場所をじっと見つめた。
「君の態度がどうも気に入らない」彼は言った。声にとげがあった。》

「艶のある金属製の彫刻のようなものがいくつか、各々台座の上に載っていた」は<there were pieces of glazed metallic looking bits of sculpture on pedestals>。清水氏は「金属製の彫刻がいくつかあった」と<on pedestals>をあっさり省略している。村上氏は「艶やかな金属製の彫刻らしきものがいくつか、それぞれ台座の上に載っていた」と<pedestals>についた<s>を意識して訳している。

「背の高い銀の花瓶」は<a tall silver vase>。清水氏は拙訳と同じ訳だが、村上氏はどうしたことか「ピアノの隅には黄色いバラを一本だけ差した花瓶が置かれていた」と<a tall silver>を訳し忘れている。その後に「花瓶の下にはピーチ・カラーのヴェルヴェットの布が敷かれている」と、一文を二つに分けたことで見逃したのかもしれない。

「大きなダマスク織りの寝椅子が、枕営業に使いでもするのか、陰になった一隅に置かれていた」は<There was a wide damask covered divan in a shadowy corner, like a casting couch>。清水氏は「光線の暗い一隅に、紋緞子(どんす)で覆われた幅の広い寝椅子があった」と<like a casting couch>をカットして訳している。村上氏は「大きなダマスク織りの長椅子が置かれていた。ハリウッドの配役担当重役の部屋に曰くありげに置いてありそうな寝椅子だ」と、長く言葉を補っている。<a casting couch>とは「枕営業」を意味する言葉で、村上氏は単刀直入に訳すことを避け、補足説明を加えることで仄めかす。好みの分かれるところだろう。

「人々が足を組んで座り」は<people sit with their feet in their laps>。清水氏はここをカット。村上氏は「人々があぐらをかいて座り」と訳している。胡坐なのか、伸ばした足を重ねているのかはよく分からないが、とにかくリラックスした姿勢でいるのは確かなことだと思う。

「砂糖の塊をとかしいれたアブサンを啜りながら」は<sip absinthe through lumps of sugar>。清水氏は「角砂糖をふくみながらアブサンをすすり」と訳している。村上氏は「砂糖のかたまりにアブサンを染ませながら飲み」と訳している。清水氏のような飲み方があるのかどうかは知らないが、アブサンの飲み方の一つに特別なスプーンの上に置いた角砂糖をグラスの上に置き、砂糖の上にアブサンを注いでいくカクテルがある。アブサンを吸った砂糖に火をつけるのがボヘミアン・スタイル。火をつけずに水で溶かして後からアブサンを入れて混ぜるのがクラシック・スタイル。どちらにしても溶け残った砂糖を混ぜてから飲むことになる。

「台の上できらめく金属を見た」は<looked at a piece of shiny metal on a stand>。どこにも「黒い」とは書いていないのだが、清水氏はここを「台の上に黒く光っている金属を眺めた」、村上氏は「台座の上に載っている黒いぴかぴかした金属の塊を眺めた」と訳している。村上氏は清水訳に引きずられているのだろう。こういう箇所は他にもある。

「私は肉付きのいい顎にできた広い窪みを見ていた。おはじきがすっぽりとおさまりそうだ」は<I looked at the dimple in his broad, fleshy chin.You could have lost a marble in it>。清水氏はここを「私は彼の肉づきのいい頬の笑(え)くぼを見つめた。おはじき(傍点四字)が隠れてしまうほど、深い笑(え)くぼだった」と訳している。いうまでもなく<chin>は「顎」であって「頬」ではない。村上氏は「彼の肉付きの良い広い顎のくぼみを、私は見ていた。おはじきがそこにすっぽり呑み込まれそうだ」と訳している。

「絹の首吊り縄が似合いそうな微笑だ」は<The kind of smile that goes with a silk noose>。清水氏はここもカットしている。村上氏は「シルクの首吊り縄に似合いそうな微笑だ」と訳している。

「もちろん、自分の金を払うわけじゃないからどうだ、ということはないが」は< I shouldn't feel justified in letting it out of my possession, of course>。この訳はむずかしい。清水氏は「もちろん、ぼくはその金を渡したくないと思っているんだ」とずいぶん突っ込んだ意訳にしている。村上氏は「もちろん自分の懐から出す金であれば、それで気が楽になるというものでもないが」と訳している。要は代理として他人の金を相手に渡すことの葛藤を言いたいのだろうが、ぴったりの訳文が浮かばない。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第八章(1)

 

《モンテマー・ヴィスタに着いた時、光は翳りかけていたが、水面にはまだ輝くような煌きがあり、波は遥か沖合で長い滑らかな曲線を描いて砕けていた。ペリカンの群れが爆撃機のように編隊を組んで泡立つ波頭の真下を飛んでいた。一艘のヨットがベイ・シティのヨット・ハーバーに向かっていた。その先には紫がかった灰色の太平洋の巨大な空虚があった。
 モンテマー・ヴィスタには様々な大きさと形をした数十軒の家が歯や眉毛で山の尾根にぶら下がっていて、大きなくしゃみでもしたら砂浜に広げたランチ・ボックスの間にこぼれ落ちそうだった。
 海岸の上をハイウェイが走り、歩道橋になっている広いコンクリートのアーチの下をくぐっている。アーチの内側の端から片側に厚い亜鉛メッキをした手すりのついたコンクリートの階段が定規で引いたように真っすぐ山に続いていた。アーチの向こうに、依頼人が話していたオープン・カフェがあった。店内は明るく活気があったが、外側は人けがなかった。縞柄の日除けの下にタイル貼りのトップに鉄製の脚をつけたテーブルが置かれ、スラックスを穿いた黒い髪の女がひとり、瓶入りのビールを前に煙草を吸いながら物憂げに海を眺めていた。フォックステリアが一匹、鉄製の椅子を街灯柱代わりに使っていた。カフェの駐車場に車を停めようと通り過ぎた時、女が上の空で犬を叱った。
 私はアーチを通り抜けて引き返し、階段を上り出した。うんざりするのが好きなら、いい散歩だった。キャブリロ・ストリートまで二百八十段あった。階段には風が巻き上げた砂が降り積もり、手すりは蟇蛙の腹のように冷たく湿っていた。
 天辺に着いたとき、煌きは水面から消え、一羽の鴎が折れた片脚を引きずるように海からの風に身をよじっていた。私は湿って冷たい最上段に腰をおろし、靴を振って砂を払い落とし、脈拍が落ち着いて百に近づくのを待った。どうにか再び普通に息ができるようになってから、背中に張りついたシャツを振りはがし、明かりのついた家に足を向けた。階段から大声を上げて届く距離にあるのはその一軒きりだった。
 小さいが洒落た家だった。潮風で変色した螺旋階段が馬車灯を模した灯りの点る玄関に通じていた。玄関下の片側が車庫だった。車庫の扉は跳ね上げられ、玄関灯の光がクロムのトリミングが施された巨大な黒い戦艦を思わせる自動車をぼんやり照らしていた。コヨーテの尾がラジエーター・キャップ上のニケ像に結びつけてあり、エンブレムのあるべきところにイニシャルが刻まれていた。車は右ハンドルで、家よりも高価そうに見えた。
 私は螺旋階段を上って呼び鈴を探し、虎の頭の形をしたノッカーを使った。カタンという音は暮れ方の霧に飲み込まれた。家の中に足音はしなかった。湿ったシャツが背中に氷嚢を背負っているみたいだった。音もなくドアが開き、背の高い金髪の男が現れた。白いフランネルのスーツを着て、首に菫色のサテンのスカーフを巻いていた。
 白い上着のラペルに挿した矢車草のせいで、男の淡い青い眼の色が薄れて見えた。菫色のスカーフはゆったりと巻かれていて、ネクタイをしていない太い柔らかな褐色の首が見えた。逞しい女性のような首だ。顔立ちはやや太り気味ながらハンサムだった。私より一インチほど背が高い、ということは身長は六フィート一インチになる。金髪はわざとなのか天然なのか知らないが、階段を思わせる三つの金髪の棚状に整えられていた。それが私の気に入らなかった。とにかく好きになれそうになかった。それ以外は、いかにも白のフランネルのスーツを着て菫色のスカーフを首に巻き、ラペルに矢車草を挿しそうな男に見えた。
 男は軽く咳払いをして私の肩越しに暗さを増す海を見た。冷やかで横柄な声が言った。「ご用向きは?」
「七時」私は言った。「時間通り」
「そうだった。ええと、君の名前は―」そこで間を置き、思い出そうとするように眉をひそめた。それは中古車の履歴と同じほど見え透いていた。一分ほど勝手にやらせておいてから私は言った。
フィリップ・マーロウ。今日の午後と同じです」
 男は眉をひそめて素早い一瞥を私にくれた。多分、そういう時にはそうするものだというふうに。それから後じさりして冷淡に言った。
「ああ、そうだ。その通り。入ってくれ、マーロウ。今夜は使用人がいないんだ」
 そして、指先でドアを開け放った。まるでドアを開けることが、自分を少し汚すとでもいうように。》

「波は遥か沖合で長い滑らかな曲線を描いて砕けていた」は<the surf was breaking far out in long smooth curves>。清水氏は「カーヴを描いた海岸線に波が砕けていた」と<far out>をトバしている。<far out at sea>は、辞書の例文に「はるか沖合いで」と出ている。村上氏は「波ははるか沖合で、長い滑らかな曲線を描きながら砕けていた」と訳している。

ペリカンの群れが爆撃機のように編隊を組んで泡立つ波頭の真下を飛んでいた」は<A group of pelicans was flying bomber formation just under the creaming lip of the waves>。清水氏はここも「ペリカンの群れが爆撃機のように編隊を組んで、飛んで行った」と<just under the creaming lip of the waves>をトバしている。村上氏は「ペリカンの群れが爆撃機のように編隊を組んで、泡立つ波頭のすぐ下を飛んでいた」と訳している。

「モンテマー・ヴィスタには様々な大きさと形をした数十軒の家が歯や眉毛で山の尾根にぶら下がっていて」は<Montemar Vista was a few dozen houses of various sizes and shapes hanging by their teeth and eyebrows to a spur of mountain >。ここを両氏とも<by their teeth and eyebrows>を訳していない。チャンドラーは尾根に接している家の構造体の一部を歯や眉毛に見立てているのだが、あまり上手いたとえとも思えない。カットしたくなる理由も分かる。

因みに、清水訳は「モンテマー・ヴィスタはさまざまの大きさと形の数十軒の家が斜面に散らばっていて」。村上訳は「モンテマー・ヴィスタには様々な大きさと形をした数十件(ママ)の家が建っている。サイズも形も様々だが、それらはみんな山の張り出しに、実に危くぶら下がっているみたいに見える」だ。

「海岸の上をハイウェイが走り、歩道橋になっている広いコンクリートのアーチの下をくぐっている」は<Above the beach the highway ran under a wide concrete arch which was in fact a pedestrian bridge>。清水氏は「海岸に沿って、コンクリートの陸橋の上をドライブウェイが走っていた。陸橋の下は歩道になっていた」と訳している。これは誤訳。村上氏は「ビーチの上方にはコンクリートの広いアーチがあり、その下をハイウェイが抜けている。そのアーチは歩行者用の橋になっており」と訳している。視点の移動が目まぐるしい。

「アーチの内側の端から片側に厚い亜鉛メッキをした手すりのついたコンクリートの階段が定規で引いたように真っすぐ山に続いていた」は<From the inner end of this a flight of concrete steps with a thick galvanized handrail on one side ran straight as a ruler up the side of the mountain>。清水氏は「陸橋のたもとから、コンクリートの段々がまっすぐにつづいていて(、そこに、私を傭おうという男が話したカフェがあった)」と訳している。これではどんな階段がどこに続いているのか分からないし、カフェの位置もはっきりしない。

村上氏が新訳を試みたのは、旧訳のこうした不備が気になったからだろう。その分、新訳は説明が詳細になっている。村上訳は「橋のいちばん内側のたもとから、まるで定規で引いたみたいにまっすぐに、階段が山の斜面を上がっている。階段の片側には亜鉛メッキされた太い手すりがついている」だ。ただ、一度山の上まで行った視線が、階段の手すりに戻されている。この視点移動が気になる。

「スラックスを穿いた黒い髪の女がひとり」は<a single dark woman in slacks>。清水氏は「ズボンを穿いた浅黒い女が一人」と訳している。時間は夕暮れ時、車に乗ったマーロウが女の顔色まで判断できるだろうか。村上氏は「スラックス姿の黒髪の女が一人」と訳している。

「うんざりするのが好きなら、いい散歩だった」は<It was a nice walk if you liked grunting>。清水氏はここもカットしている。村上氏は「思い切り息を切らせるのが好きなら、それはなかなか楽しい道のりである」と訳している。<grunt>は「ブーブーいう」「不平をいう、不満を漏らす」の意味。「息を切らす」のような意味はない。クライアントのお勧めに従ったら長い階段を上る羽目になったわけだ。「不平・不満」の一つもいいたくなるではないか。

「手すりは蟇蛙の腹のように冷たく湿っていた」は<the handrail was as cold and wet as a toad's belly>。清水氏はここを「両側の手すり(傍点三字)がヒキガエルの腹のように濡れていた」と訳している。階段が出てきた時に適当に読み飛ばすからこういうミスをやらかす。<the handrail >は単数。手すりは片側にしかついていないからだ。村上訳は「手すりはまるでヒキガエルの腹みたいにひんやり湿っていた」。

「背中に張りついたシャツを振りはがし」は<I shook my shirt loose from my back>。何てことのない文だが、清水氏は「頸のまわりのワイシャツをゆるめ」と意訳している。村上氏は「汗でへばりついたシャツを振ってはがし」と言葉を補っている。このシャツは後でまた出てくる。その際には清水氏も「シャツが湿って、背中に氷の袋を背負っているようだった」と書いている。あまり勝手に訳語を変えるものではないということだろう。

「小さいが洒落た家だった」は<It was a nice little house>。清水氏はここもカット。村上氏は「感じの良いこぢんまりとした家だった」と訳している。

「クロムのトリミングが施された巨大な黒い戦艦を思わせる自動車」は<a huge black battleship of a car with chromium trimmings>。ロールス・ロイスの名前を出さずに分からせようという工夫だ。清水氏は<black battleship>をトバして「大きな高級車」と直截に表現しているが、どうだろうか。村上氏は「車は戦艦のように巨大で、黒い車体にクロムのトリミングが施されている」と訳している。

「階段を思わせる三つの金髪の棚状に整えられていた」は<in three precise blond ledges which reminded me of steps>。清水氏は「階段のように三つに分かれていた」と訳している。ここを村上氏は「その金髪はきっちりと三段階の色合いに分かれており、それは私に階段を思い出させた」と訳し、それに続けて原文にはない「色分け髪なんてものが好きになれるわけはない」という意見まで挿入している。

<ledge>は「(建物の)水平の出っ張り、壁に取り付けた棚、胴蛇腹、蛇腹突起」もしくは「岩棚」を意味していて、色に関する意味合いはない。すべてを可視化したいという氏の強い思いは分かるが、村上氏の勇み足ではないだろうか。清水訳はどちらともとれるようにぼかしているが、原文にないものをつけ加えるよりまっとうなやり方である。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第七章(2)

《ナルティは一息ついて私の言葉を待った。私には何も言うことはなかった。しばらくしてナルティはぶつぶつ話し続けた。
「あんたはこれをどう思うね?」
「何とも思わない。もちろんムースがそこへ行くのはありそうなことだ。フロリアン夫人とも顔見知りだったにちがいない。長居しないのは当たり前だ。警察がフロリアン夫人にいつ気づくかとびくついてたんだろう」
「思うに」ナルティは穏やかに言った。「たぶん俺が夫人に会って、どこに行ったか調べるべきなんだろうな」
「名案だ」私は言った。「もしあんたを椅子から持ち上げるやつがいればだが」
「なんと、また名文句ときたか。だが、今となってはそれはどうでもいい。わざわざ出向くには及ばないのさ」
「いいから」私は言った。「何があるのか聞かせろよ」
ナルティはくっくと笑った。「マロイは確保した。今度こそ本当だ。ジラードで見つけた。レンタカーで北に向かったんだ。給油したスタンドの若いのが確認した。そのちょっと前に放送で流した説明と一致していた。マロイがダーク・スーツに着替えてたことを除いてね。郡と州警察に連絡を取った。そのまま北に向かえばヴェンチュラのどこかで捕まる。リッジ・ルートにずらかればキャスティークの検問でひっかかる。突っ切ったりしたら道路封鎖を命じる。できるだけ銃撃戦は避けたいんだ。どうだい?」
「いいね」私は言った。「もしそれが本当にマロイで、あんたの予想通りに動いたらな」
 ナルティは慎重に咳払いをした。「そういうこと。で、念のために訊くが、あんたは何をしているんだ?」
「何もしていない。何かしてなきゃいけないのか?」
「あんたはフロリアン夫人となかなかうまくやったじゃないか。あの女、まだ何か知ってるかもしれない」
「中身の詰まった酒瓶を探せばいいだけのことだ」私は言った。
「あんたはあの女をうまく手なずけた。もうちょっと時間をかけた方がいいかもしれない」
「それは警察の仕事だと思うがね」
「それはそうだが、娘の線にこだわったのはあんたじゃないか」
「その線は切れたようだ──フロリアン夫人が嘘をついていなければ」
「女は何かにつけて嘘をつくものだ」ナルティはむっつりと言った。「あんた、本当に忙しいのか?」
「仕事をもらったところだ。君と別れてからすぐに。金になる話でね、悪いな」
「放り出すってのかい?」
「そんなつもりはない。ただ、食うために稼がねばならないだけさ」
「いいさ。あんたがそのつもりなら」
「つもりもくそもない」私は大声を上げそうになった。「私は君や他の警官の手先をやるつもりはない」
「分かった。勝手にするさ」ナルティはそう言って電話を切った。
 私は切れた受話器を握りしめ、それに怒鳴りつけた。
「この街には千七百五十人の警官がいる。なのに、そいつらは私に聞き込みをさせたがる」
 私は受話器を架台に置いてオフィス用のボトルからもう一杯飲んだ。
 しばらくして、私は夕刊を買いにロビーに降りた。少なくともナルティは一つだけ正しかった。これまでのところ、モンゴメリー殺しは広告ページにさえ載っていなかった。
 私は早めの夕食に間に合うよう、再びオフィスを後にした。》

ナルティがここで言っているのは<“What I figure,” Nulty said calmly, “Maybe I should go over and see her-kind of find out where she went to.”>。清水訳<「俺が女に会ってみよう」ナルティはいった。「どこへ行ったのか、しらべて来るよ」>。清水氏は<calmly>をカットしている。村上訳<「思うに」ナルティは静かに言った。「俺はそこに行ってフロリアン夫人に会うべきなんだろうね。彼女が出かけたさきを調べるために」>。

ナルティに腰を上げる気はない。だから「穏やかに」が使われているのだ。清水氏はナルティが本気でそう言っていると取ってカットしてしまったのだろう。<What I figure><Maybe I should>「思うのだが」「私はそうした方がいいのかもしれない」が読めていたら、ナルティに重い腰を上げる気などないことは分かりそうなものだが。

「なんと、また名文句ときたか。だが、今となってはそれはどうでもいい。わざわざ出向くには及ばないのさ」は<Huh? Oh, another nifty. It don't make a lot of difference any more now though. I guess I won't bother>。清水氏は「えっ? またからかうのかね。勝手にしろ。俺はもう、何とも思わんから……」と以前の会話に結び付けて訳している。

村上氏は「なんだって? ああ、また気の利いた台詞か。でもな、今となってはそんなことはもうどうでもよくなった。わざわざ出向くまでもないのさ」と訳している。<bother>には「わざわざ~する」という使い方がある。前に<I guess>とあるから、一つ前の自分の言ったことを打ち消していると読むべきだろう。

「ナルティは慎重に咳払いをした」は<Nulty cleared his throat carefully>。<clear throat>は「咳払いをする」ことだが、清水氏は「ナルティは声を改めて、いった」と訳している。村上氏は「ナルティは用心深く咳払いをした」だ。いい気分でしゃべっていたところをマーロウに釘を刺されて、体勢を立て直す必要に迫られたのだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第七章(1)

《その年のカレンダーはレンブラントだった。印刷の色合わせの不具合から自画像はぼやけて見えた。汚れた指で絵の具塗れのパレットを持ち、お世辞にもきれいとは言えないタモシャンターをかぶっていた。片方の手は、誰かが前金を払うなら仕事にとりかからないでもないというように絵筆を宙に構えていた。顔は歳のせいで撓み、人生にうんざりし、酒の影響が色濃かったが、頗る上機嫌なところが気に入っていた。眼は朝露のように輝いていた。
 四時半頃、オフィスの机越しに眺めていたら電話が鳴った。わざとらしく冷静で横柄な声だった。返事をすると物憂げに言った。
「私立探偵のフィリップ・マーロウかね?」
「チェック」
「イエスという意味かな。ある人に口が堅いと君を薦められたんだ。午後七時に家に来てもらえないか。ちょっと話がしたい。私はリンゼイ・マリオットという。モンテマー・ヴィスタ、キャブリロ・ストリート四二一二番地に住んでいる。場所はご存知かな?」
「モンテマー・ヴィスタなら知ってます。ミスタ・マリオット」
「それはよかった。キャブリロ・ストリートは少々見つけにくい。ここの通りはすべて面白いが複雑な曲線のパターンでレイアウトされている。歩道沿いのカフェから階段を歩いてくることをお勧めするよ。そうしたら、キャブリロは三番目の通りだ。そのブロックには私の家一軒しか建ってない。七時でいいね?」
「どの種の仕事なんでしょう? ミスタ・マリオット?」
「電話で話すようなことじゃない」
「ヒントだけでもくれませんか? モンテマー・ヴィスタまではちょっと距離がある」
「話がまとまらなくても経費は払わせてもらうつもりだ。君は仕事の種類を選ぶのか?」
「合法的でさえあれば構いません」
 声が冷淡になった。「でなきゃ君に電話をしていない」
 ハーバード出だ。仮定法の使い方が様になっている。足先がむず痒かったが銀行口座はあっぷあっぷしていた。私は声に蜂蜜を塗して言った。「電話を有難うございます。ミスタ・マリオット。お伺いします」
 電話は切れた。レンブラント氏がうっすらと嘲笑を浮かべたようだった。机の抽斗の奥からオフィス用のボトルを出して一杯ひっかけると、レンブラント氏の嘲笑はすぐに消えた。
 楔形の陽光が机の端を滑り降り、音もなくカーペットの上に落ちた。外の大通りで信号機が鳴った。郊外電車が音を立てた。壁越しに法律事務所からタイプライターの立てる単調な音が聞こえてきた。パイプに煙草を詰め、火をつけたところで、また電話が鳴った。
 今度はナルティだった。ベイクド・ポテトを口一杯頬張ったような声だった。「いやあ、見込み違いだった」私だと知ると彼は言った。「当てが外れたよ。マロイはフロリアン夫人に会いに行った」
 私は受話器を壊れそうなくらい握りしめた。上唇が急に冷やりとした。「続けろよ。追いつめたんじゃなかったのか」
「人違いだった。マロイはその辺りにはいなかった。西五十四番街に住む年寄りの覗き屋が電話してきたんだ。男が二人フロリアン夫人に会いに来た。一人目は通りの反対側に駐車して用心深く動いた。辺りの様子を窺ってから家に入った。一時間ぐらい中にいた。身長六フィート、黒髪で中肉。静かに出てきた」
「酒臭い息もしていたろう」私は言った。
「その通り。それはあんただろう? 二人目の男がムースだ。家みたいにでかい服を着ていた。そいつも車でやってきたが、免許を持ってない婆さんはナンバーを読み取れなかった。遠すぎたんだな。あんたの一時間くらい後だそうだ。急いで入って五分しかいなかった。車に戻る前に大きな銃を取り出しレンコンを回した。婆さんは男がそうするのを見たんだな。それで電話したんだ。にもかかわらず銃声は聞いていない。家の中では」
「それは大いに残念なことだ」私は言った。
「ああ、気が利いてる。非番の日に思い出して笑うよ。婆さんもがっかりだ。パトロール警官が駆けつけた時、ドアの向こうから返事がなかった。それで中に入った。玄関ドアは施錠してなかった。床に誰の死体もなかった。もぬけの殻だ。フロリアン夫人は留守だ。隣に行ってそう言ったら、婆さん頭から湯気を立てた。フロリアン夫人が外に出るところを見ていないと。それで警官は報告しに戻り、通常勤務についた。それから一時間か一時間半したら婆さんがまた電話してきた。フロリアン夫人が家にいるので電話したと言うから、それがどうかしたかって訊いたんだ。。そしたらがちゃんと電話を切りやがった」》

マーロウがレンブラント好きとは知らなかった。「タモシャンター」は<tam-o'-shanter>。スコットランドの詩人ロバート・バーンズの詩に由来する、大きめのベレーの天辺にボンボンがついた帽子のことだ。清水氏は「大黒頭巾」、村上氏は「房付きのベレー帽」と訳している。「大黒頭巾」というのは言い得て妙で、これが最もしっくりくる訳と思えるが、大黒様を思い浮かべることができる人にしか通じない。それよりも自画像を多く残しているレンブラントの方がイメージしやすいのではなかろうか。

「イエスという意味かな」は<Oh-you mean, yes.>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「ああ、つまり──イエスということだね」と訳している。その前のマーロウの返事は<check>で、清水氏は「たしかに……」、村上氏は「あたり」として「チェック」とルビを振っている。米口語で「その通り、よろしい」などの意味で使う。

「足先がむず痒かったが銀行口座はあっぷあっぷしていた」は<The end of my foot itched, but my bank account was still trying to crawl under a duck>。清水氏は「納得できない点もあったが、銀行の口座も寂しくなっていたし」と意訳している。村上氏はというと「足の先っぽがむずむずした。しかし、私の預金残高は、水面下で必死にあひるの水かきのようなことをしている」と訳している。<crawl under a duck>を村上氏のように訳すのは無理があると思う。

「郊外電車が音を立てた」は<interurban cars pounded by>。清水氏は「電車の走る音がしていた」。村上氏は「都市の間を往き来するバスがタイヤ音を響かせ」だ。<interurban car>は「都市間鉄道」のことで、通勤電車と長距離を走る鉄道の中間に位置する、都市と都市の間をつなぐ交通機関。村上氏はバスとしているが、タイヤの音がそんなに響くものだろうか?

「ベイクド・ポテトを口一杯頬張ったような声だった」は<His voice sounded full of baked potato.>。清水氏は「焼きじゃがいも(傍点五字)のような声だった」。村上氏は「口の中が焼きポテトでいっぱいになったようなしゃべり方だった」だ。「ベイクド・ポテト」くらいはそのままで通じるのではないだろうか。

「西五十四番街に住む年寄りの覗き屋が電話してきたんだ」は<We get a call from some old window-peeker on West Fifty-four.>。清水氏は「西五十四丁目におせっかい(傍点五字)な女がいて、ここへ電話をかけて来た」と訳している。村上氏は「西五十二番プレイスに住む、近所の様子をうかがうのが趣味の、未亡人のばあさんから俺たちは電話を受けた」だ。<some old window-peeker>を「近所の様子をうかがうのが趣味の、未亡人のばあさん」と訳すのは、親切が過ぎるというものだ。それでいて番地がちがっている。

「家みたいにでかい服を着ていた」は<Guy in loud clothes as big as a house>。清水氏は「はで(傍点二字)な服の大男で」と意訳している。村上氏は「派手な服を着た、家屋のように大きな男だ」と訳している。<loud>にh「派手な」という意味があるので、こう訳したのだろうが、<as big as>は人ではなく<clothes>にかかっている。だとすれば「家のように大きな服」ではないだろうか。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第六章

 

《ナルティはまるで動いてないように見えた。仏頂面のまま辛抱強く椅子に腰かけていた。しかし、灰皿には葉巻の吸殻が二本増え、床にはマッチの燃え殻が僅かに嵩を増していた。
 私は空き机に腰かけ、ナルティは机の上に伏せてあった写真を裏返して私に手渡した。警察の顔写真で正面と横顔、下に指紋分類が記されていた。まちがいなくマロイだった。強い光線を受けているせいで眉毛が消えてフランスパンみたいだった。
「こいつだ」私は写真を返した。
オレゴン州立刑務所から電信があった」ナルティが言った。「おつとめは終えたようだ。未決勾留日数は差し引いて。調子は上向きだ。我々はあいつを追い詰めた。パトカーの警官が七番線の終点で車掌に事情聴取していた。車掌の話じゃ、男は丁度そのサイズだった。そいつは三番街とアレクサンドリアの角で下りた。空き家になってる大きな家に潜むつもりだろう。あの辺にはそんな家がたくさんある。古い住宅街でダウンタウンに遠すぎて借り手がない。どこかに潜り込んだなら、もう捕まえたも同じだ。あんたは何してた?」
「そいつは派手な帽子をかぶって白いゴルフボールのついた服を着ていたのか?」
ナルティは眉をひそめ、膝頭の上に置いた両手を捻った。「いや、青いスーツだった。もしかしたら茶色かも」
「腰布でないのは確かなんだな?」
「はあ? そいつは愉快だ。非番の日に思い出して笑うことにするよ」
 私は言った。「そいつはムースじゃない。あいつが電車に乗るはずがない。金を持ってるんだ。あいつの着てた服を見ろよ。あいつに吊るしは着られない。ずっと注文服だよ」
「言われてみれば、その通りだ」ナルティは嫌な顔をした。「あんたは何をしてたんだ?」
「あんたのするべきことをしてた。<フロリアンズ>という店は白人専用のナイトクラブだった時も同じ名前でやっていた。近所に住んでる事情通の黒人のホテルマンと話してきた。ネオン・サインは金がかかる。黒人は店名を引き継いだのさ。前の持ち主がマイク・フロリアン。何年か前に死んだが夫人はご存命だ。西54番街1644番地に住んでいる、名前はジェシー・フロリアン。電話帳には載っていないが、市民名簿に載っている」
「そうか、私はどうすればいい。デートでもするのか?」ナルティが訊いた。
「それも私が君の代わりにすませてきた。バーボンの一パイント瓶を手土産にね。チャーミングな中年のご婦人だったよ。泥のバケツのような顔をしていた。もし、あの髪がクーリッジ大統領の二期目以来一度でも洗われたことがあるなら、スペア・タイアを食べて見せる。リム付きで丸ごと」
「気のきいたセリフは抜きだ」ナルティは言った。
「私はフロリアン夫人にヴェルマのことを訊いた。覚えてるか?ミスタ・ナルティ、ムース・マロイが探している赤毛はヴェルマっていうんだ。退屈かね、ミスタ・ナルティ?」
「何に腹を立ててるんだ?」
「言っても分かるまい。フロリアン夫人はヴェルマを覚えていないと言った。夫人の家はかなりのぼろ屋だった。七十から八十ドルくらいしそうな新品のラジオを除いて」
「それがどうしたというんだ。叫び声でも挙げろってのか」
「フロリアン夫人は──ジェシーというんだが──亭主は何も残さず死んだと言った。古着と店で働いていた芸人たちのスティル写真のほかは。私は酒を勧めた。酒瓶を手にするためなら人を殴りかねない女なんだ。三杯か四杯飲んだ後、寝室らしき部屋に行って、古いトランクの底からスティル写真の束を掘り出してきた。だが、私はこっそり見てたんだ。束の中から何か抜き出して隠すところを。で、後からそこに忍び込んでひっつかんできた」
 私はポケットから取り出したピエロ姿の娘を机の上に置いた。ナルティは写真を取り上げて眺めると口角をゆがめた。
「キュートだ」彼は言った。「キュートすぎる。使えるかもしれん。ほほう、ヴェルマ・ヴァレントね、この美人に何があったんだ?」
「フロリアン夫人は死んだと言ったが、写真を隠した理由の説明にはならない」
「そりゃそうだが、なぜ隠したりしたんだろう?」
「それを言おうとしなかった。最後に、ムース・マロイが出獄したことを話したら、私のことを嫌いになったようだった。不可能だろう、そんなことができるか?」
「続けろよ」ナルティは言った。
「それがすべてだ。事実はみんな話したし、証拠物件は渡した。この一式を使ってどこにもたどり着けないようなら、私には何もしてやれることはない」
「どこへ行けと言うんだ? ただの黒人殺しだろう。ムースを見つけるまで待ってくれ。その娘を最後に目にしてから八年だ。刑務所に面会に来てない限り」
「いいだろう」私は言った。「だが、忘れるなよ。あいつは娘を探してる。へこたれない奴だ。ところで、あいつは銀行強盗で捕まった。なら賞金が出たはずだ。誰が手にした?」
「聞いてないな」ナルティは言った。「調べたら分かるかもな。何故だ?」
「誰かがたれこんだのさ。誰の仕業か気づいてるのかもしれない。そっちにも時間を割いているのだろう」私は立ち上がった。「じゃあな、幸運を祈るよ」
「置いてけぼりにする気か?」
 私はドアのところまで行った。「家に帰って風呂に入り、うがいをして、爪にマニキュアをしなきゃならない」
「どこか具合が悪いのか?」
「汚れただけだ」私は言った。「大層、ひどく汚れている」
「そうか、急いでないんだろう? 一分だけ座らないか」
 ナルティは胸をそらしてベストに両の親指をひっかけた。その姿は警官らしさを増したが、威厳が増したとはいえなかった。
「ああ、急いではいない」私は言った。「全く急いでいない。やれることがないんだ。どうやらヴェルマって娘は死んだらしい。フロリアン夫人の言うことが本当だったらの話だが、今のところ、夫人が嘘をつく理由が見当たらない。私が気になったのはそれだけだ」
「そうか」ナルティは疑わし気に言った。癖のようなものだ。
「それにあんたはとにもかくにもムース・マロイの件をうまくやってる。一件落着だ。私は家に帰って生活費を稼ぎにかかるよ」
「我々はムースを捕り逃すかもしれない」ナルティは言った。「たまに逃げ切るやつがいる。図体がでかくてもな」特別な感情は含まれてないようでいて、やはり疑惑だけはあった。「いくら貰ったんだ?」
「何だ?」
「君に手を引かせるのにその婆さんはいくら払ったんだ?」
「何から手を引くんだ?」
「何であれ、今つかんでいることからさ」ナルティは袖口から親指をはなし、ベストの前で両の指を合わせて微笑んだ。
「一体全体何のことやら」私はそう言うと口をあいたナルティを残してオフィスを出た。
 ドアから一ヤードほど来たところで、私は引き返しそっとドアを開け、中をのぞいた。ナルティは同じ格好をして座って親指を突き合わせていた。しかし、もう微笑んではいなかった。何か気になることがあるみたいだった。口はまだ開いていた。
 ナルティは動かず、顔を上げようともしなかった。ドアを開ける音を聞いたかどうかも分からなかった。私はもう一度ドアを閉め、外に出た。>

「未決勾留日数は刑期に算入されている」は<All time served except his copper>。清水氏は「刑期をつとめてる」。、村上氏は「おつとめはちゃんと果たしたようだ。減刑つきだがね」。<time served>は「未決勾留日数」のこと。逮捕から判決に至るまでの「未決勾留日数」が八年という刑期から差し引かれているということだ。

 

第六章には他に大きな異同はない。「スペア・タイアを食べて見せる。リム付きで丸ごと」、「私が気になったのはそれだけだ」の二か所を清水氏がカットしているくらいだ。