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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第20章

―帽子のリボンと汗どめバンドの取り違えが命取り―

【訳文】

《インディアンは臭った。ブザーが鳴ったとき、小さな待合室の向こう側にはっきりと臭いがしていた。私は誰だろうと思ってドアを開けた。廊下のドアを入ったところに、まるで青銅で鋳造されたみたいに男が立っていた。腰から上の大きな男で、胸が分厚かった。浮浪者のように見えた。
 茶色のスーツを着ていたが、その上着は男の肩幅には小さすぎ、ズボンはおそらく腰回りが少々きつかったろう。帽子は少なくとも二サイズは小さく、サイズに合った誰かがかいた大量の汗の痕があった。家に風向計を取り付けたみたいなかぶり方だった。襟は馬の首輪のようにぴったりしていて、首輪とほぼ同じ色合いの汚れた茶色だった。黒いネクタイがボタンをはめた上着の外にぶら下がっていた。プライヤでも使って締め上げたのか結び目が豆粒大になっていた。汚れた襟の上の、むき出しになった立派な喉のまわりには、老いを隠そうとする老嬢のように、幅広の黒いリボンを巻いていた。
 大きくて扁平な顔つきで、肉づきのよい高い鼻は巡洋艦の船首のように頑丈そうだ。瞼のない眼、垂れ下がった顎、鍛冶屋のような肩、そして短くてチンパンジーのように不様な脚をしていた。後になってわかったが、ただ短いだけだった。
 もう少し小奇麗にして白いナイトガウンでも着せたら、ひどく性悪なローマの元老院議員のように見えただろう。
 彼の匂いは未開人の土臭さだった。都会のいやらしい汚泥のそれではなかった。
「ふん」彼は言った。「早く来い。すぐ来い」
 私はオフィスに戻り、彼に向かって指をくいっと動かした。彼は壁の上を蠅が這うような音を立てて私に従った。私は自分の机を前にして座り、専門家らしく回転椅子を軌らせ、反対側にある客用の椅子を指さした。彼は座らなかった。小さな黒い眼には敵意が見えた。
「どこへ行くんだ?」私は言った。
「ふん、わたし、セカンド・プランティング。わたし、ハリウッド・インディアン」
「座ったらどうだ、ミスタ・プランティング」
 男は鼻を鳴らし、穴が大きく開いた。最初から鼠穴くらいはあったが。
「名前、セカンド・プランティング。ミスタ・プランティング、ちがう」
「それで、ご用件は?」
 彼は声を張り上げ、厚い胸を響かせ朗々たる音吐で詠唱し始めた。「彼は言う、すぐ来い。偉大な白人の父は言う、すぐ来い。彼は言う、炎の戦車に乗せて連れて来い。彼は言う―」
「わかったから、ラテン語遊びはよしてくれ」私は言った。「私はスネークダンスを見に来た女教師じゃないんだ」
「くそくらえ」インディアンは言った。
 我々は机をはさんで暫く互いをあざ笑った。あざ笑いは相手の方がうまかった。それからさも嫌気が差したという風に帽子を脱いでひっくり返した。汗どめバンドの下に指を入れてぐるりと回した。それで汗どめバンドが視野に入ったが、その名に恥じない仕事ぶりだった。彼は端からペーパークリップを外し、折り畳んだティッシュペーパーを机の上に投げると、噛み痕のある指の爪で腹立たし気に指さした。きつすぎる帽子のせいで真っ直ぐな髪の高いところに段がついていた。
 ティッシュペーパーを広げると、中にカードが入っていた。目新しいものではない。三本のロシア風煙草の吸い口からそれと全く同じものが三つ見つかっている。
 パイプを弄びながらインディアンを睨みつけ、揺さぶりをかけようとしたのだが、相手の神経は煉瓦塀並みだった。
「オーケイ。彼の望みは何だ?」
「彼の望み、あなたすぐ来る。今来る。炎の戦車に乗って―」
「くそくらえ」私は言った。
インディアンはそれが気に入った。彼は口をゆっくり閉じ、片目で厳かにウィンクした。それから薄笑いを浮かべさえした。
「それには依頼金として百ドル用意してもらわないと」私はつけ加えた。それが五セント玉でもあるかのように。
「ふん?」疑り深そうな顔に帰って、基礎英語を守った。
「百ドル」私は言った。「一ドル銀貨。一ドル紙幣。ドルの数が百だ。金ない、私行かない、分かる?」私は両手で百まで数え始めた。
「ふん、大物ぶって」インディアンはあざ笑った。
 彼は脂ぎった帽子のリボンの下を探り、もう一つのティッシュペーパーを机の上に放った。開いてみると、手が切れるような百ドル札だった。
 インディアンはリボンを元の位置に戻そうともせず帽子をかぶった。その方がほんの少しだけ滑稽に見えた。私は座ったままぽかんと口を開け、百ドル札に見入った。
「まさに霊能力だ」私はやっと言った。「おそろしいほどの賢さだ」
「日が暮れちまう」インディアンがくだけた調子で言った。私は机の抽斗からコルト三八口径オートマチックを取り出した。スーパー・マッチの呼び名で知られているタイプだ。ミセス・ルーウィン・ロックリッジ・グレイルを訪ねたときには身に帯びることはしなかった。私は上着を脱ぎ、革製のハーネスを身につけ、中にオートマチックを落とし込み、下のストラップを締め、上着を羽織った。
 インディアンにとって、それは私が首を掻いたくらいの意味しかなかった。
「車ある」彼は言った。「大きな車」
「大きな車はもう二度と御免だ」私は言った。「私、自分の車ある」
「あなた、わたしの車、来る」インディアンが脅すように言った。
「わたし、あなたの車、行く」私は言った。
 私は机とオフィスに鍵をかけ、ブザーのスイッチを切って外に出た。出て行くとき、いつもどおり待合室の鍵は掛けなかった。
 我々は廊下を歩いてエレベーターで下りた。インディアンは臭った。エレベーター係でさえそれに気づいた。》

【解説】

「浮浪者のように見えた」は<He looked like a bum>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「なり(傍点二字)は浮浪者みたいだった」。

「襟は馬の首輪のようにぴったりしていて」は<His collar had the snug fit of a horse-collar>。清水氏は「カラーは馬の首輪のようにゆるく」と訳している。村上訳は「シャツの襟もとは、馬の首輪並みに心地よさそうで」だ。<snug>は「(衣類などが)体にぴったりの、ぴっちりした」という意味だが、「(場所などが)くつろげる、心がなごむ」の意味もある。村上訳はそちらを採ったのだろう。しかし、後にも出てくるように立派な咽喉の持ち主である。上着が窮屈なのに、シャツだけ心地よさそうなのは変だろう。

「黒いネクタイがボタンをはめた上着の外にぶら下がっていた」は<A tie dangled outside his buttoned jacket>。清水氏は「黒いネクタイがボタンをはめられたチョッキの上にぶらさがっていた」と訳している。<jacket>はライフ・ジャケットの場合のように「胴着」の意味もあるが、普通は背広の上着を意味する。村上訳は「ネクタイはボタンがかかった上着の外に、だらんとはみ出ていた」だ。

「プライヤでも使って締め上げたのか結び目が豆粒大になっていた」は<a black tie which had been tied with a pair of pliers in a knot the size of a pea>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「黒いネクタイはペンチでも使って締め上げられたのか、結び目が豆くらいの大きさになっている」だ。英米では、ペンチを含む挟み工具全般をプライヤと呼ぶらしいので、村上氏はペンチとしたのだろう。

「汚れた襟の上の、むき出しになった立派な喉のまわりには」は<Around his bare and magnificent throat, above the dirty collar>。清水氏は「汚いネクタイのたくましいのど(傍点二字)のまわりに」と訳している。これは誤り。ネクタイは黒で、汚れているのは襟だ。村上訳は「汚れた襟の上の、むき出しになった見事なばかりののど元には」。

「早く来い。すぐ来い」と訳したところは<Come quick. Come now>。清水氏は「すぐ来るある。今来るある」と、まるで、中国人をまねた手品師のような言葉遣いだ。村上訳は「早く来い。すぐに来い」だ。

ラテン語遊び」と訳したところは<pig Latin>。清水訳は「まずいラテン語」、村上訳は「おちゃらか語」だ。<pig Latin>というのは、子どもがふざけて使う言葉づかいで、語の最初の子音を最後に移し、さらにei(音)を付加したもの。例えば<dictionary>なら<ictionaryday>になる。

「「ふん、大物ぶって」インディアンはあざ笑った」は<“Huh. Big shot,” the Indian sneered>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「「ハア、大物だな」とインディアンはあざ笑った」だ。

「彼は脂ぎった帽子のリボンの下を探り」は<He worked under his greasy hatband>。清水氏は「彼は帽子の汗バンドから」と訳している。そう思っても仕方がないところだ。村上氏は、少し気になるのか「彼は脂ぎった帽子のバンドの下を探り」と<hatband>を少し前に出てきた「スエットバンド」とは訳し分けている。もちろん<hatband>は、帽子の上についている飾りのリボンのことだ。

「インディアンはリボンを元の位置に戻そうともせず帽子をかぶった」は<The Indian put his hat back on his head without bothering to tuck the hatband back in place>。清水氏は「インディアンは帽子をかぶった。ハットバンドをもとに直そうともしないでかぶった」と、今度は「ハットバンド」と訳している。

村上訳を見てみよう。「インディアンはバンドを内側に折り込みもせずに、帽子を頭の上に戻した」となっている。これは単なる推量だが、村上氏は清水氏が「ハットバンド」と訳したものを自身が訳した「スエットバンド」だと思い込んでいたのではないだろうか。清水氏は、最初は「汗バンド」と訳しておきながら、二度目は「ハットバンド」と正しく訳している。だから<without bothering to tuck>を「もとに直そうともしないで」と訳すことで、誤訳を回避することができた。

ところが、村上氏は二度目の<hatband>を単に「バンド」と訳してしまったことで<sweatband>と同一視し、<without bothering to tuck>を「内側に折り込みもせずに」と訳してしまったのだろう。まず、ひっかかったのは、インディアンは汗どめバンドからティッシュペーパーを取り出す際、指でぐるっと一回しして探っている。同じ汗どめバンドに二つ入っていたら、どちらが名刺でどちらが紙幣か判断がつかないはずだ。

だから、はじめから二つの包みは帽子の内側と外側のバンドに分けて入れたのだと想像することができる。チャンドラーは<sweatband>と<hatband>を正しく使い分けている。訳者たるもの、作者がそこまで配慮した言葉を安易に読み飛ばすことなどあってはならないと思う。第一、辞書にもその違いは記載されている。あまりに簡単な言葉であることと、同じ場面に続いて使われたことがまちがいを生んだと思われる。他山の石としたい。

次の「その方がほんの少しだけ滑稽に見えた」は<It looked only slightly more comic that way>。清水氏はここもカットしている。村上氏はここを「しかし、それによってみかけのおかしさがことさら増加したというわけでもなかった」と訳している。確かにもともと滑稽に見えていたのだから、殊更におかしさが増したわけではなかろう。しかし、ほんのわずか<more comic>に見えたのだ。ストレートに訳してはいけないものだろうか。

「ブザーのスイッチを切って」は<switched the buzzer off>。清水氏はここをカットしている。これくらいどうでもいい、と思うのだろうか。映画の字幕なら映像で分かるが、本の場合には書かなければわからない。逆に書いてあるなら訳してもらいたいと思う。村上訳は「ブザーを切り」だ。たいした手間もとらない。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第19章

―口紅は落ちているのか、いないのか―

 

【訳文】

《曲がりくねった私道を歩き、高く刈り込まれた生垣の陰で迷子になりながら門に出た。新顔の門番は私服を着た大男で、どこから見てもボディガードだ。うなずいて私を通した。
 ホーンが鳴った。ミス・リオーダンのクーペが私の車の後ろにとまっていた。私はそこまで行き、中をのぞき込んだ。冷やかで皮肉っぽい顔が待っていた。
 手袋をした細い手をハンドルに添えて座っていた。彼女は微笑んだ。
「待ってたの。私の知った事じゃないけど、あなたは彼女のこと、どう思った?」
「ガーターを外すのに手間取ってるだろう」
「どうしていつもそんな言い方しかできないの?」彼女はひどく顔を赤らめた。「ときどき男の人が嫌いになる。年寄り、若者、フットボール選手、オペラのテナー歌手、賢い億万長者、ジゴロの色男、私立探偵をやるようなろくでなし」
 私は悲しそうに笑ってみせた。「口が過ぎるのは知っている。近頃じゃ噂になっているからね。ジゴロだと誰に聞いた?」
「誰のこと?」
「しらばっくれるなよ。マリオットのことさ」
「ああ、それくらい誰にでも想像がつく。ごめんなさい。意地悪で言ったわけじゃない。あなたならいつでも好きな時に彼女のガーターを苦もなく外せるでしょう。でもひとつだけ確かなのは、あなたはショーに遅れたってこと」
 曲がりくねった広い通りは陽を浴びて安らかに微睡んでいた。きれいに塗装されたパネル・トラックが通りの反対側の家の前に音もなく滑りこんできて、止まった。それから少しバックして通用口に続く私道を上がっていった。パネル・トラックの側面には「ベイ・シティ・インファント・サービス」と記されていた。
 アン・リオーダンが私の方に身を乗り出した。灰色がかった青い瞳に傷ついたような翳りが見えた。わずかに長すぎる上唇を尖らせ、それから歯に押しつけた。息をのむような鋭い小さな音を立てた。
「余計な口出しをするなと言いたいんでしょうね。自分が思いつかないことを私に指摘されたくないのよ。これでも少しは役に立ってきたつもりなんだけど」
「私に手助けは要らない。警察も私に応援を求めちゃいない。ミセス・グレイルのために私ができることは何もない。彼女はビアホールから車がつけてきた作り話をしていたが、それに何の意味がある。サンタモニカのいかがわしい酒場じゃないか。これはハイクラスの犯罪集団だ。その中には翡翠を一目で言い当てることのできる者がいたんだ」
「もし前もって聞いてなかったらね」
「それもありだ」私は言った。そして、箱の中から煙草を一本探り出した。「いずれにせよ私にできることは何もない」
「霊能力者についても?」
 私は幾分無表情に見つめた。「霊能力者?」
「おやまあ」彼女は優しく言った。「あなたは探偵じゃなかったかしら」
「口を噤んでるふしがある」私は言った。「用心してかかる必要があるんだ。グレイルのズボンには現ナマがうなるほど詰まってる。そして、法律が金で買えるのがこの街だ。警察の動きが妙だと思わないか。広告もなし、新聞発表もなしときては、無辜の市民がもちこんだ小さな手がかりが事件解決の糸口となる機会もない。あるのは沈黙と手を引けという私への警告だけだ。すべてが気に入らない」
「口紅はほとんど落ちてる」アン・リオーダンは言った。「霊能力者のことは伝えた。それでは、さようなら。会えてよかった―ある意味で」
 彼女はスターター・ボタンを押してギアを突っ込み、舞い上がる土煙の中に消えた。
 私は彼女を見送った。彼女がいなくなり、通りの向こうを見た。ベイ・シティ・インファント・サービスと書かれたパネル・トラックの男が、邸の通用口のドアから出てきた。輝くばかりに真っ白で糊が効いた制服を着ていたので、見ているだけですっきりした気分になった。男は何かの段ボール箱を抱えていた。そしてパネル・トラックに乗って走り去った。
 おしめを取り替えたんだ、と思った。
 自分の車に乗り、エンジンをかける前に時計を見た。五時になろうとしていた。
 さすがに上物のスコッチだけのことはある、ハリウッドに帰る道中ずっと一緒にいてくれた。赤信号のたびに停まらざるを得なかった。
「可愛い娘がいる」私は車の中で独り言を言った。「可愛い娘が好きな男向きだ」誰も何も言わなかった。「でも私はちがう」私は言った。それにも誰も何も言わなかった。「十時にベルヴェディア・クラブで」私は言った。誰かが言った。「ふーん」
 私の声のようだった。
 六時十五分前、オフィスに戻ってきた。ビルディングは静まりかえっていた。仕切り壁の向こうのタイプライターは止まっていた。私はパイプに火をつけ、腰を下ろして待った。》

【解説】

「ミス・リオーダンのクーペが私の車の後ろにとまっていた」は<Miss Riordan's coupe was drawn up behind my car>。清水氏は「ミス・リオーダンのクーペが私の自動車のすぐうしろに駐(とま)っていた」と訳している。ところが、村上訳は「ミス・リオーダンのクーペが私の車の背後にやってきた」となっている。<draw up>は「(車などが)止まる」という意味だ。第一、車が動いてきたら音もするし目にも止まる。ホーンを鳴らす必要はない。

「手袋をした細い手をハンドルに添えて座っていた。彼女は微笑んだ」は<She sat there with her hands on the wheel, gloved and slim. She smiled>。めずらしいことに村上氏はここをまるまる抜かしている。わざとではないだろう。読み落としたにちがいない。柴田元幸氏の翻訳チェックが入らないチャンドラーの翻訳ならでは、である。清水訳は「彼女は手袋をはめた細い手をハンドルにおいて、坐っていた。彼女は微笑した」。

「ガーターを外すのに手間取ってるだろう」は<I bet she snaps a mean garter>。清水氏は「すぐスカートを脱ぐ女だな」と、思い切った訳にしているが、マーロウは夫に見られたときに露出していた夫人の脚を思い出している。村上訳は「あのガーターを外すのは一苦労だ」。<a mean>には「意地悪な」という意味がある。この場合のガーターは、リング状のものではなく、ガーター・ベルトを指すのだろう。ストッキングが落ちるのを防ぐためにクリップで留めるタイプの下着の一種だ。

「口が過ぎるのは知っている。近頃じゃ噂になっているからね」は<I know I talk too smart. It's in the air nowadays>。清水氏は「ぼくが口がわるいことはわかっているが」と、後半はトバしている。村上氏は「もう少し当たり前のしゃべり方ができるといいんだが、きっと時代がそうさせてくれないのさ」と訳している。<in the air>は「(ニュースや噂などが)広まっている」という意味だ。主語の<it>は<I talk too smart>を受けている。つまり、自分の話し方が生意気なことは、近頃じゃ噂になっているから、知っている、ということだ。

「それから少しバックして通用口に続く私道を上がっていった」は<then backed a little and went up the driveway to a side entrance>。清水氏はここをカットしているため、トラックは停まったままのように読めてしまう。村上氏は「それから少しバックして、サイド・エントランスへのドライブウェイに入っていった」と訳している。少し片仮名が目立ちすぎはしないだろうか。

「自分が思いつかないことを私に指摘されたくないのよ」は<And not have ideas you don't have first>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「自分に思いつかなかったことを、私に思いついてほしくないと考えている」だ。

「口を噤んでるふしがある」は<There's a hush on part of this>。清水氏はここをカットして「うっかり手が出せないんだ」と、訳している。村上訳は「どうしてこんなにひっそりしているんだろう」となっている。

「広告もなし、新聞発表もなしときては、無辜の市民がもちこんだ小さな手がかりが事件解決の糸口となる機会もない」は<No build-up, no newspaper handout, no chance for the innocent stranger to step in with the trifling clue that turns out to be all important>。清水訳は<No build-up>を端折って「新聞にも記事を出させない。重要な手がかりを持っているかもしれないものも、協力する道がない」。

村上訳は「担当者が名前を売り込もうという気配もないし、プレス・リリースもない。従ってささやかな情報を持っている罪のない市民が名乗り出て、それが大きな手がかりにつながるという道も閉ざされている」だ。<build-up>を事件を担当する刑事一個人の「売り込み」ととるのは、ずいぶん突っ込んだ読みである。

「口紅はほとんど落ちてる」は<You got most of the lipstick off>。清水訳では「口紅はもう落ちているわ」だ。本当に落ちているなら、そんなことをわざわざ指摘する必要はないし、指摘できるはずがない。<most of>とあるから「その大半は」ということだろう。上手い訳だと思うが、村上訳では「口紅はすっかり落ちてはいない」になっている。アン・リオーダンという女性の性格設定の差だろう。清水訳だと揶揄う調子になるし、村上訳だときまじめさが強く出る。

「ベイ・シティ・インファント・サービスと書かれたパネル・トラックの男が、邸の通用口のドアから出てきた」は<The man from the panel truck that said Bay City Infant Service came out of the side door of the house>。清水氏は「ベイ・シティ幼児サービス会社としるされたトラックの男が純白の制服を光らせながら、邸の脇のドアから出てきて」と訳している。村上氏は「「ベイ・シティ幼児サービス」と横に書かれたパネルトラックから降りてきた男は」と訳している。男は「家の側部扉から出てきた」<came out of the side door of the house>のであって、「トラックから降りてきた」のではない。氏にしては珍しいミス。

「赤信号のたびに停まらざるを得なかった」は<I took the red lights as they came>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「赤信号があればそのたびにしっかり停まった」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(6)

―フィネガンの足のような寒気、というのは―

【訳文】

《女は私の膝の上にしなだれかかった。私は顔の上に屈み込んで眼で舐めまわした。彼女は私の頬に蝶がキスするように睫を震わせた。唇を合わせたとき、彼女の唇は半開きで燃えていた。歯の間から舌が蛇のように飛び出してきた。
 ドアが開いて、ミスタ・グレイルが静かに部屋に入ってきた。私は彼女を抱いており、身を振りほどく暇はなかった。私は顔を上げて彼を見た。私は寒気がした。フィネガンの足のようだった、埋められたその日の。
 私の腕の中でブロンドはじっとしていた。唇を閉じようとさえしなかった。半ば夢見るような、半ば嘲るような表情を浮かべて。
 ミスタ・グレイルは、軽く咳払いをして言った。「これは失礼した」それから、静かに部屋を出て行った。彼の目にはかりしれないほどの悲しみが浮かんでいた。
 私は彼女を押しのけて立ち上がり、ハンカチを取り出して顔を拭った。
 彼女はそのままダヴェンポートに半ば横向きに横たわっていたが、片脚のストッキングの上の肌が気前よくむき出しになっていた。
「誰だったの?」彼女は嗄れ声で訊いた。
「ミスタ・グレイル」
「だったら気にしないで」
 私は彼女から離れ、この部屋に初めて入ったとき座った椅子に腰を下ろした。
 しばらくして、彼女は居ずまいを正し、しっかりと私を見た。
「大丈夫。彼は理解してる。あの人に口出しなんかできゃしない」
「彼は気づいてるよ」
「だから、平気だって言ったじゃない。それで充分でしょう。彼は病人なの。どうしたっていうのよ―」
「金切り声を上げるんじゃない。金切り声を上げる女は嫌いだ」
 彼女は傍に置いてあったバッグを開けて小さなハンカチを取り出し唇を拭いた。それから鏡で自分の顔を見た。「あなたの言うとおりね」彼女は言った。「スコッチが過ぎたわ。今夜ベルヴェデア・クラブで、十時に」彼女は私を見ていなかった。息遣いが速かった。
「いいところなのかい?」
「レアード・ブルネットの店。彼とは親しい仲なの」
「分かった」私は言った。私はまだ寒気を感じていた。自分が汚らしく思えた。まるで貧乏人から財布を掏ったみたいな気がした。
 彼女は口紅を取り出し、唇にそっと当てた。そして私の方を見た。鏡を放ってよこした。私は鏡をつかんで顔を映した。私はハンカチに一仕事させて立ち上がり、鏡を返した。
 彼女は後ろに仰け反り、喉をあらわにして、物憂げに私を見下ろした。
「まだ、何か?」
「何も。十時にベルヴェデア・クラブ。派手な格好は願い下げだ。こっちはディナー・スーツしか持ち合わせがない。バーでいいか?」
 彼女はうなずいた。眼は物憂げなままだった。
 私は部屋の中を通って外に出た。一度も振り返らなかった。フットマンが廊下で待っていて、私の帽子を手渡した。「大いなる岩の顔」に似ていた。》

【解説】

「彼女は私の頬に蝶がキスするように睫を震わせた」は<She worked her eyelashes and made butterfly kisses on my cheeks>。「バタフライ・キス」というのは、睫を動かしてかすかに相手に触れることをいう。まるで蝶の羽が触れたようなタッチであることからその名がついた。清水氏は「彼女はまつ毛をふるわせて、私の頬に接吻した」と訳しているが、これだと本当にキスしたようにも読める。村上訳は「彼女はまつげを微妙に動かし、私の頬をくすぐった」だ。事実上の動きはその通りだが、バタフライ・キスという言葉が響いてこない憾みが残る。

「私は寒気がした。フィネガンの足のようだった、埋められたその日の」は<I felt as cold as Finnegan's feet, the day they buried him>。清水氏は「全身が冷たくなったようだった」と訳している。これでいいと思うのだが、唐突にフィネガンという固有名詞が出てくるのがひっかかる。ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』が出版されたのが一九三九年。『さらば愛しき女よ』の出版がその翌年であることから見て、チャンドラーがそれを意識していたことは明らかだ。村上氏は「通夜の翌日のフィネガンの脚に負けないくらい背筋がひやり(傍点三字)とした」と「通夜(ウェイク)」を訳の中に盛り込んでいる。

「彼女は嗄れ声で訊いた」は<she asked thickly>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「と濃密な声で彼女は尋ねた」と訳している。「濃密な声」とは、どんな声なのだろう。たしかに<thickly>には「濃密な」の意味があるが声に使われる場合は「かすれ声、だみ声」という意味になる。

「私はまだ寒気を感じていた」は<I was still cold>。さっき感じた寒気だ。清水氏はここもカットしている。村上訳は「まだ身体に冷気が残っていた」だ。

「『大いなる岩の顔』に似ていた」は<looking like the Great Stone Face>。清水氏はカットしているが<the Great Stone Face>はナサニエル・ホーソーンの短篇のタイトルで、ニュー・ハンプシャーにある人間の顔のように見える巨大な岩山のことでもある。村上氏は「彼はニューハンプシャーの巨大人面岩みたいに見えた」と訳している。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第18章(5)

―ドレスが首のあたりまでめくれ上がったのには理由があった―

【訳文】

《「男はリンの座っている側に近づくとすぐに、スカーフを鼻の上まで引っ張り上げ、銃をこちらに向け『手を挙げろ』と言った。『おとなしくしてればすぐに済む』。それからもう一人の男が反対側にやってきた」
「ベヴァリ・ヒルズは」私は言った。「カリフォルニアで最も治安が行き届いた四平方マイルですよ」
 彼女は肩をすくめた。「言った通りのことが起きたの。宝石とバッグを寄こせとスカーフの男が言った。もう一人、私の側にいた男は一言もしゃべらなかった。リンの前に手を伸ばして渡すと、男がバッグと指輪をひとつ返してくれた。男は、警察や保険屋への連絡は少し待つように言った。その方がことがうまく運ぶだろう。物ではなく歩合で支払ってもらう方が手間が省けると言った。まったく焦った様子を見せなかった。是非にと言うなら、保険屋を通すこともできるが、弁護士が取り分を減らすから、乗り気ではないとも。教養のある人のように思えた」
「まるでドレスアップ・エディのようだ」私は言った。「シカゴで消されていなかったなら、ということですが」
 彼女は肩をすくめた。我々は飲んだ。彼女は続けた。
「連中は去り、私たちは帰った。私はこのことをリンに口止めした。次の日、電話があった。電話は二つあって、ひとつは内線つき、もうひとつは私の寝室にある内線なしのもの。電話はそちらにかかってきた。もちろん電話帳には載ってない」
 私はうなずいた。「二、三ドル出せば番号は買える。よくあることだ。映画俳優の中には毎月番号を変える者もいる」
 我々は飲んだ。
「私は電話してきた男に、私の代理のリンと話をするように、適切な価格だったら取引に応じるかもしれない、と言った。彼は了解した。それ以降進展はなかった。こちらの様子を見てたんだと思う。結果的に、知っての通り、八千ドルで手を打った」
「どっちかの顔を覚えていませんか?」
「そんなの、無理」
「ランドールはこのことを知っていますか?」
「もちろん。もっと話す必要があるかしら? うんざりなの」彼女は素敵に微笑んだ。
「彼は何か言ってましたか?」
 彼女は欠伸した。「多分ね。でも忘れた」
 私は空のグラスを手に腰を下ろして考えた。彼女はグラスを取り上げ、また注ぎ始めた。
 私は彼女の手からお代わりのグラスをとり、それを私の左に移し、自分の右手で彼女の左手をつかんだ。滑らかで柔らかな手だった。温さが心地よかった。彼女は強く握り返した。手の筋肉が強かった。しっかりした体つきで、ペーパー・フラワーではなかった。
「彼には何か考えがあるみたい」彼女は言った。「でも、それが何かは言わなかった」
「話を最後まで聴けば、誰だってひとつの考えが思い浮かぶ」私は言った。
 彼女はゆっくり振り返ってこちらを向いた。そうして、うなずいた。「すぐ分かることよね?」
「いつからマリオットのことを知ってるんです?」
「何年になるかしら。彼は夫が持ってた放送局でアナウンサーをしていた。KFDK。そこで出会った。夫ともそこで出会った」
「知っていました。しかし、マリオットは贅沢な暮らしをしてた。金持ちでなくても、金に不自由はしてなかった」
「お金が入ったので、ラジオ局をやめたの」
「金が入ったことを事実として知っていましたか、それとも彼がそう言っただけですか?」
 彼女は肩をすくめた。私の手を握りしめた。
「あるいは、それほどの金額ではなかったかもしれないし、すぐに使い切ったのかもしれない」私は彼女の手を握り返した。「彼はあなたから金を借りてましたか?」
「あなたって、けっこう昔気質なのね?」彼女は私が握ったままの手を見下ろした。
「まだ仕事中です。それにあなたのスコッチは酔っぱらうには惜しいほどの上物です。別に酔っ払わなくても―」
「そうね」彼女は自分の手を引き抜き、擦った。「最大のヤマ場を迎えてるはず―空き時間だったら。リン・マリオットは、もちろんハイクラスの強請り屋だった。それは確か。彼は女にすがって生きていた」
「あなたも強請られていたのですか?」
「教えてあげましょうか?」
「それは賢明ではないでしょう」
 彼女は笑った。「どうせそうなるのよね。一度、彼の家でひどく酔っぱらって気を失ったことがある。めったにないことだけど。彼は写真を何枚か撮った―服を首までめくって」
「卑劣なやつだ」私は言った。「それは今手もとにありますか?」
 彼女は私の手首をぴしゃりと叩いて、そっと言った。
「お名前は?」
「フィル。あなたの名は?」
「ヘレン。キスして」》

【解説】

前半部分に大したちがいは見つからない。

「話を最後まで聴けば、誰だってひとつの考えが思い浮かぶ」は<Anybody would have an idea out of all that>。清水氏は「おそらく、ぼくが考えていることと同じだろう」と訳している。意訳だろう。村上氏は「その話を聞けば、誰だっていくらかの考えは浮かぶはずだ」と訳している。

その後の夫人の「すぐ分かることよね?」だが、原文は<You can't miss it, can you?>。清水氏はここを「私、あなたを信頼していいわね」とこれもまたかなり大胆な意訳だ。村上氏は「わかりきった話だというわけね」と訳している。<miss>は「見逃す」という意味だから、マーロウならランドールの考えに気づかないはずはない、というくらいの意味だ。清水氏はそれを理解したうえで夫人の気持ちとして訳したということだろうか。

「最大のヤマ場を迎えてるはず―空き時間だったら」は<You must have quite a clutch-in your spare time>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「あなたは一筋縄ではいかない男らしいー余暇には(傍点四字)、ということだけど」。<clutch>は「手などをしっかり握る」ことだが、くだけた言い方として「最大のヤマ場、ピンチ」のような意味で使われる。この場合、二人の手を握りあう行為に掛けているのだろう。

「彼は写真を何枚か撮った―服を首までめくって」は<He took some photos of me-with my clothes up to my neck>。清水氏は「そのときに、裸の写真を撮られたわ」とあっさり訳している。映画の字幕ならこれでいいと思う。村上訳は「そのとき彼は写真を何枚か撮った。衣服が首のあたりまでめくれ上がったやつを」となっている。

前回の夫人の「ほんとにこれって、放っておくと首のあたりまでずり上がっちゃうんだから」という村上訳の意味がこれで分かった。このことを匂わせていた、と村上氏は考えたにちがいない。

「卑劣なやつだ」は<The dirty dog>。清水氏は「ひどい奴だ」とマリオットのこととして訳しているが、村上氏は「ポルノっぽいやつだ」と写真のことと解している。スラング等を調べても「人をだますやつ」のような意味はあるが卑猥な物を表す使用例は見つからなかった。村上氏は次にくる言葉に引きずられて、そう訳したのだろうか。それよりも、マリオットを「卑劣なやつ」と蔑みながら、写真を見たがるマーロウを夫人がいなしたと考える方が気が利いてるのではないか。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(4)

―どんなドレスを着たら、裾が首のあたりまでまくれ上がるものだろう―

【訳文】

《「ニュートンはいいでしょう」私は言った。「ギャングとつるむようなタイプじゃない。当て推量に過ぎませんが。フットマンについてはどうですか?」
 彼女は考え、記憶を探った。それから、首を振った。「彼は私を見ていない」
翡翠を身につけてほしい、と誰か言いませんでしたか?」
 彼女の眼は瞬く間に用心深くなった。「そんな手に引っかかると思う」彼女は言った。
 彼女はおかわりを注ごうと私のグラスに手を伸ばした。まだ残っていたが、したいようにさせておいて、その美しい頸の線を研究した。
 彼女が二つのグラスを満たし、二人がまた手にしたとき、私は言った。「記録をはっきりさせてから、あなたに話したいことがある。あの晩のことを詳しく聞かせてください」
 彼女は腕時計を見ようとして長い袖を手繰り寄せた。「そろそろ、行かないと―」
「彼なら、待たせておけばいい」
 彼女の眼が光った。私はその眼が気に入った。
「あけすけに言えないこともあるものよ」彼女は言った。
「この稼業でそれは通用しません。あの晩のことを話すか、私を叩き出すか、どっちか決めるんですね」
「私の隣に来て座ったら」
「長い間考えてたんです」私は言った。「正確には、あなたが脚を組みだしてからずっと」
 彼女はドレスの裾を引っ張り下ろした。「つまらないことを気にするのね」
 私は黄色い革張りのチェスターフィールドに行き、彼女の隣に腰を下ろした。「あなた、手が早いんじゃないの?」彼女はそっと訊いた。
 私は答えなかった。
「こういうことをよくするの?」彼女は横目で訊いた。
「ほとんどありません。暇な時の私はチベットの僧です」
「暇な時がないだけよね」
「本題に入りましょう」私は言った。「我々の―或いは私の―心にひっかかっている問題について。いくら払うつもりです?」
「ああ、それは問題ね。あなたは私のネックレスを取り戻すだろうと思ってたんだけど。少なくともやってはみる、と」
「仕事は自分の流儀でやることに決めてます。このように」私は一息で酒を飲み干し、倒れそうになった。空気も少し飲み込んだ。
「そして、殺人犯を挙げる」私は言った。
「そんなの関係ない。警察の仕事でしょう?」
「その通り。ただ哀れな男が百ドル出して護衛を頼んだのに、護ってやれなかった。気が咎める。泣きたいくらいだ。泣きましょうか?」
「飲みましょう」彼女は二人のグラスにまたスコッチを注いだ。酒は彼女に少しも影響を与えないようだった。ボールダー・ダムに水を注ぐようなものだ
「さてと、どこまでだったかな?」グラスのウィスキーをこぼさないように気遣いながら私は言った。「メイド抜き、運転手抜き、執事抜き、フットマンも抜き。次は洗濯も自分たちですることになりそうだ。ホールドアップはどのようにして起きたか? あなたのヴァージョンにはマリオットが与えてくれなかった細部があるかもしれない」
 彼女は前屈みになり、頬杖をついた。真面目くさって見えたが、見かけほどの真剣さはなかった。
「私たちはブレントウッド・ハイツのパーティーに行った。その後でリンが、<トロカデロ>で少し飲んでダンスでもどうか、と言った。それでそうした。帰りのサンセット・ブルヴァードは工事中でひどい埃だった。それで、リンはサンタモニカ・ブルヴァードへ引き返した。うらぶれたホテルの前を通り過ぎた。つまらないことを覚えているようだけど、ホテル・インディオという名。通りの反対側にビアホールがあって、前に車が一台停まってた」
「たった一台、ビアホールの前に?」
「そうよ、たった一台。薄汚れた店。その車が動き出して私たちの後をついてきた。もちろん、私は何も気にしなかった。気にする理由もないし。その後、サンタモニカ・ブルヴァードからアルゲロ・ブルヴァードに入ろうというところで、リンが、他の道から行こう 、と言って、道が曲がりくねった住宅街に入った。すると突然、後ろの車が突進してきて追い抜きざまにフェンダーをかすめ、路肩に寄せて停車した。コート姿にスカーフ、帽子を目深にかぶった男が謝罪のために引き返してきた。白いスカーフが盛り上がっているのが私の目を引いた。それがあの男に関する印象のすべて。背が高くて痩せてたことの他には。男は近づくとすぐに―今思えば、こっちの車のヘッドライトを避けて歩いていた―」
「当然だ。ライトを浴びたいやつがいるわけがない。一杯やろう、今度は私がつくる」
 彼女は前屈みになって、細い眉をひそめて考えていた。眉は描かれたものではなかった。私は飲み物をふたつつくった。彼女は続けた。》

【解説】

「彼は私を見ていない」は<He didn't see me>。そのままだが、清水氏は「きっと、頸飾りを見ていないわ」と訳している。清水氏は「下男」、村上氏は「召使い」と訳しているが、フットマンというのは、ただの下男や召使いとは異なり、仕事が決まっている。制服を着て食事や酒の給仕などをする職種だ。当然、その仕事以外で主人に会うことはない。外出用の服に着替えた夫人を見る機会はない。村上訳は「彼は私の姿を見なかった」だ。

「あけすけに言えないこともあるものよ」は<There's such a thing as being just a little too frank>。清水訳では「ずいぶん遠慮がないのね」とマーロウの物言いに対する非難のように訳されている。村上訳は「率直には話せない種類のものごともあるわ」と自分自身の態度についての言い訳になっている。この解釈をとることで、次のマーロウの<Not in my business>という決め科白が引き出される仕掛けだ。清水氏は「ぼくの稼業(しょうばい)は、遠慮をしていてはできない」と訳すことで話を繋げている。

「つまらないことを気にするのね」は<These damn things are always up around your neck>。清水氏の訳は「すぐ、まくれてしまうので……」。村上氏の訳は「ほんとにこれって、放っておくと首のあたりまでずり上がっちゃうんだから」だ。いったい、どんなドレスを着たら、ドレスの裾が首のあたりまでまくれ上がるものだろうか。ここに限らず、村上氏は清水氏の訳を土台にして自分流に訳文を作っている。それがまちがいのもとだ。

<around one's neck>には、「重荷(足手まとい)になる」という意味がある。マーロウは二度、夫人の脚の組み方に言及している。しどけなく投げ出された脚が気になって近くに座ることをためらっていた。夫人は、そんなつまらないことを気にして、そばに来ることを躊躇していたなんて、という意味でドレスの裾を引っ張ったのだ。

「我々の―或いは私の―心にひっかかっている問題について」は<Let's get what's left of our minds- or mine-on the problem>。清水氏は「われわれの……とにかく、ぼくの心を問題からそらさないで」と訳している。その前の<Let’s focus>を「話をそらさないで」と訳したことからくる流れだろう。村上訳は「お互い残っている正気をかきあつめて、その問題について考えてみましょう。少なくとも私はがんばってかきあつめる必要がありそうだ」。村上氏ならではの解きほぐす訳なのだろう。でも、シンプル極まる原文を、こんなに持って回った訳文にする必要があるのだろうか。

「私は一息で酒を飲み干し、倒れそうになった」は<I took a long drink and it nearly stood me on my head>。清水氏は「私はグラスを一気に飲みほした」と、後半部分をカットして、あっさり訳している。<stand on my head>は「逆立ちをする」という意味。村上訳は「私は息も継がずに一口でぐいと酒を飲んだ。頭にずん(傍点二字)とこたえるきつい一杯だった」と「頭」を使って訳している。

「彼女は前屈みになり、頬杖をついた」は<She leaned forward and cupped her chin in her hand>。清水氏は「彼女は両手を顎にあてて、からだを前にかがめた」と訳しているが、手は<hands>ではない。村上氏は「彼女は前屈みになり、顎に片手をやった」と訳している。前屈みになったのは肘をつく必要があるからだ。<cup one's chin in one's hand>は「頬杖をつく」という意味。ここは頬杖をついたと考えるべきだ。

「真面目くさって見えたが、見かけほどの真剣さはなかった」は<She looked serious without looking silly-serious>。清水氏は後半をカットして「真剣な顔つきだった」と訳している。これだと微妙なニュアンスを欠いている。村上訳は「真剣な顔に見えたが、それはほどほど(傍点四字)という程度の真剣さだった」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(3)

18-3

【訳文】

《「何だろう、このお上品な飲み方」彼女はいきなり言った。「さっさと話に入りましょう。にしてもあなた、あなたみたいな稼業にしちゃ、ずいぶん様子がいいのね」
「悪臭芬々たる仕事です」私は言った。
「そんな意味で言ったんじゃない。お金にはなるの、それとも大きなお世話かしら?」
「大して金にはなりません。悲嘆にくれることも多いが、愉快なことも少なくない。それに、いつだって大事件に出くわすチャンスが待ってる」
「人はいかにして私立探偵になるのか? 私が下す評価なんか気にしないわよね? それから、そのテーブルこっちに押してくれない? 飲み物に手が届くように」
 私は立ち上がり、大きな銀のトレイを載せた小卓を、艶やかな床を横切って彼女の側に押した。彼女は飲み物をもう二つ作った。私は二杯目を半分まで飲んだところだった。
「探偵の大半は警官あがりです」私は言った。「私はしばらく地方検事の下で働いていたんです。解雇されましたが」
 彼女は感じよく微笑んだ。「無能だったってわけではないでしょうね」
「いいえ、口ごたえのせいです。ところで、あれから電話はかかってきましたか?」 
「そうね―」彼女はアン・リオーダンの方を見て、待った。その顔つきがものを言った。
 アン・リオーダンは立ち上がった。彼女はまだいっぱい入っているグラスをトレイまで運び、そこに置いた。「人手は足りてるようですね」彼女は言った。「でも、その気になったら―お時間を頂き有難うございました、ミセス・グレイル。記事にはしないのでご安心を」
「まさか、もう帰るっていうんじゃないでしょうね」ミセス・グレイルは微笑みを浮かべて言った。
 アン・リオーダンは下唇を歯の間に挟んだまま、いっそ噛んで吐き出すか、それとももう少しそのままにしておくか、しばらく決めかねているようだった。
「申し訳ありませんが、お暇しなければなりません。私はミスタ・マーロウのために働いていません。ただの友人です。さようなら、ミセス・グレイル」
 ブロンド女はきらりと彼女に目を光らせた。「また立ち寄ってね、好きな時に」彼女はベルを二回押した。執事がやってきた。彼はドアを開けて待った。
 ミス・リオーダンは足早に出て行き、ドアが閉まった。ミセス・グレイルはしばらくの間、気のない笑みを浮かべてドアを見つめていた。「この方がいいわ、そうは思わない?」沈黙の幕間が終わると、彼女は言った。
 私は頷いた。「ただの友達のはずの彼女がどうしてそんなに知っているのか不思議に思うでしょう」私は言った。「好奇心旺盛な娘なんです。いくつかは彼女自身が掘り出してきたものです。たとえば、あなたが誰で、翡翠のネックレスの所有者が誰なのかといったことの。いくつかは偶然そこに居合わせたからです。彼女は昨夜マリオットが殺されたあの谷にやってきた。ドライブの途中、たまたま明かりを見つけそこまで下りてきたんです」
 「まあ」ミセス・グレイルは素早くグラスを傾け顔をしかめた。「考えてみれば怖ろしい。かわいそうなリン。どちらかといえばろくでなしだった。あの人の友達のほとんどはそうよ。でもあの死に方はひどすぎる」彼女は震えた。瞳は大きく暗くなった。
「そういうわけで、ミス・リオーダンについては心配ご無用。何もしゃべりません。父親が長い間ここの警察署長をやっていたんです」私は言った。
「ええ、そのことも話してくれた。あなたは飲んでないわ」
「私はこれを飲酒と呼んでいます」
「あなたと私、うまくやっていけそうね。リン・マリオットはあなたに話したの、どうやってホールドアップが起きたか?」
「ここと<トロカデロ>の間のどこか。詳しいことは話さなかった。三人か、四人組だと」
 彼女の金色に輝く頭がこくりと肯いた。「そう、変なホールドアップだった。指輪のひとつを返してくれたの。かなり高価なものを」
「それは聞きました」
「それに、私はあの翡翠は滅多にしない。世界に類を俟たない極めて珍しい翡翠だけど、はっきり言って時代遅れ。なのに、連中はそれに飛びついた。あれの値打ちが分かる輩とは思えないのだけど、そう思わない?」
「あなたが値打ちのないものを身につけないことを連中は知ってる。値打ちを知っていたのは誰です?」
 彼女は考えた。彼女が考えている姿は見ものだった。脚はまだ組んでいた。しどけなさもそのままだった。
「いろんな人がいると思う」
「でも、その晩あなたが身に着けていることは知らないはずです。それを知る者は?」
 彼女は薄青い肩をすくめてみせた。私は両眼をあるべきところにとどめておこうと努めた。
「私のメイド。でもその気なら機会は山ほどあった。それに私は彼女のことを信じてる」
「なぜ?」
「分からない。私は人を信じるだけ。あなたのことも」
「マリオットのことも信じてましたか?」
 彼女の顔が少し険しくなり、眼に警戒の色が浮かんだ。「ある面ではノー。でも別の面ではイエス。程度によるわね」感じのいい話し方だった。クールで、半ばシニカル、それでいてドライ過ぎもしない。言葉の使い方を熟知していた。
「メイドのことは良しとしましょう。運転手はどうです?」
 彼女は首を振って否定した。「あの晩はリンが自分の車を運転してた。ジョージは見当たらなかった。木曜日じゃなかった?」
「私はそこにいなかった。マリオットが言うには四、五日前のことだと。木曜日は昨夜から数えて一週間前になります」
「そう、木曜日だった」彼女はグラスに手を伸ばし、私の指に少し触れた。柔らかな触り心地だった。「ジョージは木曜の夜は休みをとる。公休日だから」彼女は芳醇なスコッチをたっぷり一杯分私のグラスに注ぎ、炭酸水を噴出させた。いつまでも飲んでいたいと思わせる種類の酒で、そのうち、どうとでもなれと思えてくる。彼女は自分にも同じようにした。
「リンは私の名前を言った?」彼女は優しく訊いたが、眼は警戒を解いていなかった。
「慎重に避けていました」
「おそらく、それで日にちについてごまかしたのね。手札を見てみましょう。メイドと運転手は抜き。共犯者としては考えられないという意味よ」
「私ならその二枚は置いておきます」
「そうなの、でもやるだけやってみる」彼女は笑った。「それからニュートンがいる。執事。あの晩私の襟元を見ることができたかもしれない。でも翡翠は低く垂れ下がっていたし、上からホワイト・フォックスのイブニングラップを羽織っていた。無理ね、彼に見えたとは思えない」
「夢のよう眺めだったでしょうね」私は言った。
「酔いが回ったんじゃないでしょうね?」
「人より醒めてることで名が通ってるんです」
 彼女は頭を仰け反らせ、どっと笑いこけた。そんな真似をしても美しい女は、生涯で四人しか知らない。彼女はその中の一人だった。

【解説】

マーロウとミセス・グレイルのやり取りはたがいの腹の探り合い。訳す方も息を抜けないのだろう。清水氏も、いつものようにトバすことなく訳している。

「はっきり言って時代遅れ」は<After all, it's a museum piece>。清水訳は「博物館にあるようなもので」。村上訳は「だいたいが美術館向きのものなのよ」。文字通り訳せばそういうことだが、これでは、その前の「私はあの翡翠は滅多にしない」ことの理由になっていない。<museum piece>には「時代遅れ」という意味もある。いくら貴重な品でも装身具としての価値はまた別。他者が欲望するようなものでなければ身に着ける価値がない訳だ。

「あなたが値打ちのないものを身につけないことを連中は知ってる。値打ちを知っていたのは誰です?」は<They'd know you wouldn't wear it otherwise.Who knew about its value?>。清水氏は「頸飾りをつけていたことを知っていたのは、誰ですか?」と訳しているが、これはでは次の会話を先取りしてしまう。村上訳は「価値のあるものしかあなたは身につけないと知っていたんですよ。その値うちを知っていたのは誰ですか?」。

「彼女が考えている姿は見ものだった」は<It was nice to watch her thinking>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「彼女が考えるのを目にしているのは素敵だった」と、優等生的な訳だ。

「私は両眼をあるべきところにとどめておこうと努めた」は<I tried to keep my eyes where they belonged>。清水氏は「私は彼女の脚を見つめていた」と作文している。村上氏は「私は目が飛び出さないように自制しなくてはならなかった」と一歩踏み込んで訳している。アメリカのカートゥーンでも、目が飛び出る表現は見たことがあるから、おそらくその意味なのだろう。

「彼女は自分にも同じようにした」は<She gave herself the same treatment>。村上氏は「彼女が求めているのもまさにそういう状態だった」と訳している。村上訳によれば「そういう状態」とは「飲んでいるうちになんでもあり(傍点六字)という気分になってくる」ことだ。少々考え過ぎではないだろうか。<same treatment>は「同列」という意味だ。客につくった物と同じ物をつくった、ということだろう。清水訳では「彼女は同じ飲物を自分のグラスにもつくった」だ。

「そうなの、でもやるだけやってみる」<Well, at least I'm trying>。清水訳は「私は、ただお手伝いをしているだけよ」だ。たしかに、ここでミセス・グレイルがやっているのは探偵のまねごとだ。お手伝いにはちがいない。村上訳を見てみると「かもしれないけど、少なくとも私はそう考えたいの」となっている.。村上氏は、この<try>を、自分の意見に固執することと考えているようだ。

オープン・ガーデン

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南伊勢町に無料開放している庭があって、今ササユリが見頃だ、という話を妻が聞きつけてきた。ボランティア仲間との作業に忙しいのは大変だが、こういう情報交換のお土産がある。なんでも、土日月だけの公開で、今日を逃すと来週はもう見られないという。

それでは、というのでお昼は五ケ所の<ファイブ>でとることにして、妻の車に乗って出発した。サニーロードの入り口にはジェットコースター級の急坂があるので、トゥインゴでそこを走ってみたいと前々から思っていた。

晴れ時々曇りの空模様ながら、新緑が眩しく絶好のドライブ日和。ランチを食べた<ファイブ>のマスターに地図までいただいて、目的地に向かう。たぶん同じ場所目当ての車がゆっくりと走っているので、それについてゆくとまもなく到着した。

汐見ガーデンというところで、あと数か所の家が<オープン・ガーデン>として、お庭を無料開放してくれている。今日伺ったI邸はロック・ガーデン仕立て。もとの持ち主が荒れ放題にしていた千坪ほどの土地を購入後、移住し、廃棄物の山を取り除いてここまでにするのに七年かけたそうだ。

藪を切り拓き、岩に沿って掘って行ったところ、岩肌が露出し、池が現れた。もとからあった石垣を生かして今のようなロック・ガーデンに仕立てたという。たくさんの花が植えられているが、ササユリは自生である。この季節はササユリ目当ての客が引きも切らない。

妻のいちばんのお気に入りはオダマキだった。私としては、アカンサスの花を見ることができたのが収穫だった。ギリシア建築の装飾に用いられているので、葉の方はよく知っていたが、花については知らなかった。

小高い丘の上に造られた庭を一巡りすると、木の間隠れに海が見えた。景色の眺めのいいところや木陰にベンチが配され、一息つける場所には事欠かない。これだけの庭を維持するのは大変だが、見せてもらう方はありがたい。

来年は今種から育てているオダマキがたくさん花をつけそうだという。再訪を約束して庭を後にした。車なら我が家から往復一時間ほどの距離である。いいところを教えてもらった。