marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第30章(2)

<throw ~over someone’s head>は「頭に~をかぶせる」

【訳文】

《玄関ドアの郵便受けに何かが押し込まれる音だった。チラシだったかもしれない。だが、そうではなかった。足音は玄関から歩道に戻り、それから通り沿いに歩いていった。ランドールはまた窓に行った。郵便配達人はミセス・フロリアンの家には止まらなかった。そのまま歩き続けた。重い革鞄を提げた青灰色の背中は穏やかで安定していた。
 ランドールは振り返り、おそろしく丁寧に質問した。「このあたりでは、郵便配達は朝に何回あるのですか、ミセス・モリスン?」
 彼女はその質問に果敢に立ち向かおうとした。「一回きりさ」彼女はそっけなく言った。「午前中に一回、午後に一回」
 彼女の目があちこちに飛び、兎の顎は進退窮まって震えていた。両手は青と白のエプロンの縁を飾るゴムのフリルをしっかり握っていた。
「朝の配達は今来たところです」ランドールはうっとりするように言った。「書留はいつもの配達人が持ってくるのですか?」
「あの女はいつも速達を受け取っていたよ」婆さんの声はしゃがれていた。
「なるほど。しかし、土曜日には彼女は家から走り出て、その配達人を呼び止めている。配達人が彼女の家に寄らなかったからです。あなたは速達のことは何も言わなかった」
 仕事中の彼を見ているのは楽しかった。私ではなく、他の誰かを相手にしていればだが。
 彼女の口は大きく開き、歯が見事な輝きを見せていた。溶液のグラスに一晩中浸けてあったせいだ。それから突然わめき立て、エプロンで顔を覆って部屋から駆け出して行った。
 彼は彼女が出て行ったドアを見ていた。それはアーチの向こうにあった。彼は微笑んだ。かなり疲れた笑顔だった。
「いい腕だ。大仰なところが微塵もない」私は言った。「次はそっちが憎まれ役をやってくれ。小母さん相手に憎まれ口を叩くのは気が重い―たとえ相手が食わせ者の事情通でもね」
 彼は微笑み続けていた。「よくある話だ」彼は肩をすくめた。「犯罪捜査なんて糞くらえだ。彼女は事実から始めた。知っていたからだ。しかし、そういつも都合良く事実は出て来ないし、刺戟も足りなさそうに見えたので、少し話に尾ひれをつけようとしたんだ」
 彼は振り向き、我々は玄関に出た。家の奥から微かに啜り泣くような音が聞こえてきた。たぶん疾うに死んでいるどこかの辛抱強い男を降参させる、それは最後の武器だったのだろう。私にとってはただの老婆の啜り泣きだった。そこには何の喜びもなかった。
 我々はそっと家を出た。網戸を鳴らさないようにそっとドアを閉めた。ランドールは帽子をかぶり、ため息をついた。それから肩をすくめ、よく手入れされた両手を体の脇に大きく広げた。家の奥からはまだ啜り泣きの微かな音が聞こえた。
 通りの二軒ほど先に郵便配達人の背中が見えた。
「犯罪捜査か」ランドールは小声でそっと呟いた。そして唇をねじ曲げた。
 我々は隣の家に向かって歩いた。ミセス・フロリアンは洗濯物を取り込んでいなかった。ごわごわの黄ばんだ衣類はまだ、横手の庭に張った針金の上で列を作って震えていた。我々は玄関のステップを上がって呼び鈴を鳴らした。返事はない。ノックをした。返事はない。
「この前は鍵はかかっていなかった」私は言った。
 彼は注意深く体で隠すようにして、ドアを試した。今回は鍵が掛かっていた。我々は玄関ポーチを降りて詮索好きな婆さんの家を避け、こっそりその周りを歩いた。裏のポーチには鉤の掛かった網戸がついていた。ランドールがノックした。何も起きなかった。彼はほとんどペンキの剥げた木の階段を二段下りて、使われなくなって草に埋もれた私道をたどって、木製のガレージを開けた。扉が軋んだ。ガレージはがらくただらけだった。使い古された流行遅れのトランクは壊して薪にする値打ちもない。錆びついた庭仕事の道具、古い空き罐、そんな物が箱にぎっしり詰まっていた。扉の両側の壁の隅に、丸々と太った黒後家蜘蛛が間に合わせのだらしない巣を張っていた。ランドールは木切れを拾って、上の空で蜘蛛を殺した。彼は再びガレージの扉を閉じ、雑草の生い茂る私道を歩いて玄関まで戻った。そして詮索好きな婆さんとは反対にあたる隣家のステップを上がった。呼び鈴にもノックにも返事は帰ってこなかった。
 彼はゆっくり戻ってきて肩越しに通りを見わたした。
「裏口のドアが一番簡単だ」彼は言った。「今なら隣の婆さんは何もしないだろう。嘘をつきすぎた」》

【解説】

「チラシだったかもしれない。だが、そうではなかった」は<It might have been a handbill, but it wasn't>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「業者の配るちらしの類かもしれない。しかしそうではなかった」と言葉を補っている。

「兎の顎は進退窮まって震えていた」は<The rabbit chin was trembling on the edge of something>。清水氏は「兎のような顎が、慄えているようだ」と訳している。<on the edge of>は「~の寸前(瀬戸際)で」という意味だ。ランドールの攻勢に必死に抵抗してきたが、もう無理というところ。村上訳は「そのウサギのような顎は、危機を迎えて細かく震えていた」。

「歯が見事な輝きを見せていた。溶液のグラスに一晩中浸けてあったせいだ」は<her teeth had the nice shiny look that comes from standing all night in a glass of solution>。清水氏は「歯が光っていた」と訳している。村上訳は「歯はきれいに輝いていた。一晩中グラスの中の溶液に漬けられていたのだろう」だ。

「エプロンで顔を覆って部屋から駆け出して行った」は<threw the apron over her head and ran out of the room>。清水氏は「前かけで顔を覆い、部屋から駆け出して行った」と訳している。村上訳は「頭からエプロンを脱ぎ捨て、部屋から走り出て行った」だ。この場合、別にあわててエプロンを脱ぐ必要はない。<throw ~over someone’s head>は「(人)の頭に~をかぶせる」という意味。老婆はこの後で泣き出している。「顔を覆った」と考える方が適切だろう。

「彼は彼女が出て行ったドアを見ていた。それはアーチの向こうにあった。彼は微笑んだ。かなり疲れた笑顔だった」は<He watched the door through which she had gone. It was beyond the arch. He smiled. It was a rather tired smile>。清水氏は「ランドールはその後を見送って苦笑した」と大幅にカットしている。村上訳は「ランドールは彼女が出て行ったドアを見ていた。アーチの向こう側にあるドアだ。彼は微笑んだ。疲れのにじみ出た微笑みだった」。ランドールの人柄がよく出ているところだ。「疲れた笑顔」と「苦笑」は別物だろう。

「いい腕だ。大仰なところが微塵もない」は<Neat, and not a bit gaudy>。清水訳では「見事だよ」。村上訳では「手際がいい。これ見よがしなところもない」。<gaudy>は「(俗っぽく)派手、けばけばしい」という意味。「これ見よがし」というのは、「得意そうに見せびらかす」という意味なので、村上訳のマーロウは、ランドールが人の目を意識して訊問していると見ているようだ。ここは、普通の刑事なら、権力をかさに着て、居丈高になるところなのに、ちっとも偉ぶらないランドールに対する誉め言葉ではないのだろうか。

「次はそっちが憎まれ役をやってくれ。小母さん相手に憎まれ口を叩くのは気が重い―たとえそれが食わせ者の事情通でもね」は<Next time you play the tough part. I don't like being rough with old ladies-even if they are lying gossips>。清水氏は「だが、愉快じゃなかった。相手が婆さんではね」と、ここも原文を無視した抄訳になっている。

村上訳は「次はあんたが憎まれ役をやるといい。高齢のご婦人にぞんざいな口を利くのは気が進まない。たとえ相手がろくでもない金棒引きの婆さんであってもね」。<old lady>には「(自分の)女房、かみさん、おふくろ」が第一義だが、「こうるさい人」という意味もある。「高齢のご婦人」という訳語には皮肉が込められていると見た方がいいだろう。

「彼は振り向き、我々は玄関に出た。家の奥から微かに啜り泣くような音が聞こえてきた。たぶん疾うに死んでいるどこかの辛抱強い男を降参させる、それは最後の武器だったのだろう。私にとってはただの老婆の啜り泣きだった。そこには何の喜びもなかった」は<He turned and we went out into the hall. A faint noise of sobbing came from the back of the house. For some patient man, long dead, that had been the weapon of final defeat, probably. To me it was just an old woman sobbing, but nothing to be pleased about>。

清水氏はこの一段落をまるまるトバしている。見落としたのだろうか。村上訳は「彼は振り向き、我々は玄関に向かった。家の奥からすすり泣きが微かに聞こえた。それはおそらく、ずっと前に死んだどこかの我慢強い男にとっては、白旗をあげざるを得ない最終的な兵器だったのだろう。しかし私にとっては、ただの年寄りの泣き声に過ぎなかった。そこには、心温まるものは何ひとつなかった」。

「裏のポーチには鉤の掛かった網戸がついていた」は<The back porch had a hooked screen>。清水氏はここを「裏口はよろい(傍点三字)扉だった」としている。鍵がかかっていることに触れていないのは探偵小説的には致命的なミスだ。村上訳は「裏のポーチの網戸には掛けがねがかかっていた」だ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第30章(1)

<just to give you an idea>は「ご参考までに申し上げると」

【訳文】

《詮索好きな婆さんは玄関ドアから一インチほど鼻を突き出し、早咲きの菫の匂いでも嗅ぐようにくんくんさせ、通りをくまなく見渡してから、白髪頭で肯いた。ランドールと私は帽子を取って挨拶した。この辺りでは、客はヴァレンティノと肩を並べられるらしい。彼女は私を覚えていたようだ。
「お早うございます、ミセス・モリスン」私は言った。「少し中に入れてもらえませんか? こちらは警察本部のランドール警部補です」
「後にしてくれないか。取り込み中でね、アイロンがけが山ほど溜まってるんだ」
「お手間はとらせません」
 彼女がドアから後ろに下がったので、私たちは彼女をすり抜けて、メイソン・シティやらどこやらから来たサイドボードのある廊下に入り、そこから窓にレースのカーテンがかかった小ぎれいな居間に入った。家の奥からアイロンの匂いが漂ってきた。彼女は間仕切りのドアをまるで練りパイ生地でできているかのようにそっと閉じた。
 今朝は青と白のエプロンを身に着けていた。両眼は相変わらず抜け目なさそうで、顎は何も伸びていなかった。
 私から一フィートのところに立って顔を前に突き出し、私の目をのぞき込んだ。
「届かなかったよ」
 私は心得顔をした。肯いて、ランドールの方を見た。ランドールも肯いた。彼は窓際に行き、横手にあるミセス・フロリアンの家を見た。それからポークパイを脇の下に挟み、学生演劇に登場するフランスの伯爵のように丁寧な物腰で戻ってきた。
「届かなかったんだ」私は言った。
「ああ、届かなかった。土曜日は朔日だった。エイプリル・フールだ。ひっ!ひ!」彼女は話を止め、エプロンで目を拭こうとしたとき、ゴム製だったことを思い出した。それがいささか気に障った。口にしわが寄った。
「郵便配達がやってきて、家の前を通り過ぎたとき、あの女は家から飛び出して呼びかけた。郵便屋は首を振ってそのまま行ってしまった。女は家に戻った。思いっきり戸を閉めたもんだから窓が壊れるんじゃないかと思ったよ。気でもふれたのかね」
「誓ってもいい」私は言った。
 詮索好きな婆さんはランドールに刺々しく言った。「バッジを見せるんだ。若いの。こっちの若いのはこの間ウィスキーの匂いをさせていた。私は前から本当に信じちゃいない」
 ランドールは青と金のエナメルのバッジをポケットから取り出して見せた。
「どうやら本物のようだね」彼女は認めた。「日曜日には何も起こらなかった。あの女は酒を買いに出て、角瓶を二本ぶらさげて帰ってきた」
「ジンだ」私は言った。「ご参考までに申し上げると、真っ当な人間はジンを飲まない」
「真っ当な人間はそもそも酒なんか飲まないよ」詮索好きな婆さんはあてつけがましく言った。
「ごもっとも」私は言った。「月曜日がやって来た、つまり今日のことだ。郵便配達はまた通り過ぎた。今度こそ彼女は本当に怒った」
「随分鼻が利くじゃないか、若いの。どうにかして人様が口を開くまで待てないものかね」
「申し訳ありません、ミセス・モリスン。これは我々にはとても大事なことなので―」
「こちらの若いのは、何の支障もなく口を噤んでいられるようだ」
「彼は女房持ちでね」私は言った。「練習を積んでる」
 彼女の顔は青みを帯びた紫色に変わった。気味の悪い、チアノーゼを思い出す色だ。「とっとと出てお行き、私の家から。さもないと警察を呼ぶよ」彼女は叫んだ。
「あなたの眼の前に立っているのがその警官ですよ、マダム」ランドールが簡潔に言った。「あなたの身に危険が及ぶことはありません」
「それはそうだが」彼女は認めた。紫の色合いが消え始めた。「この男は気に入らない」
「あなたには私がついています、マダム。ミセス・フロリアンに今日も書留は届かなかった。そういうことですね?」
「そうさ」彼女の声は刺々しく素っ気なかった。隠し事をしている目だった。そして早口でしゃべり出した。あまりにも早口過ぎた。「昨夜あそこに誰か来てた。姿は見ていない。知り合いに映画に誘われて帰ってきたとき―いや、知り合いの車が走り去った後だ―隣から車が出て行った。ライトを点ける暇もないくらい急いで。ナンバーは見えなかった」
 彼女は私を横目でちらっと盗み見た。どうしてそこまでこそこそするのか気になった。私は窓のところへ行って、レースのカーテンを上げた。青灰色の官服が近づいていた。男は重そうな革鞄を肩にかけ、つば付きの帽子をかぶっていた。
 私はにやにやしながら窓から顔を背けた。
「腕が鈍ったな」私はあけすけに言った。「来年はCクラスのマイナー・リーグでショートを守ることになりそうだ」
「気が利いてるとはいえないな」ランドールは冷やかに言った。
「なら、窓から外をのぞいてみろ」
 彼は外を見た。顔が険しくなった。彼はそこにじっと立ってミセス・モリスンを見ていた。彼は何かを待っていた、この世に二つとない音だ。それはすぐやってきた。》

【解説】

「この辺りでは、客はヴァレンティノと肩を並べられるらしい」は<In that neighborhood that probably ranked you with Valentino>。清水訳は「この辺へ来れば、私もヴァレンティノ(美男で一世を風靡した映画俳優)と肩をならべられるらしい」。ルドルフ・ヴァレンティノはサイレント時代の俳優だ。近頃ではめったに見られない美男子だった。清水氏の当時でも注をつけないと分からないと思われたのだろう。

村上訳だとこうなる。「その近隣の水準からすれば、それはおそらくヴァレンチノ顔負けの気障な真似であったはずだ」。文脈という観点でいえば、村上氏は二人が帽子をとったのが気障な真似だと取ったわけだ。挨拶で帽子をとるくらいのことがそんなに気障なことだろうか。むしろ、二人の来客を見て、一人の方を覚えていたから肯いたことに対するコメントではないのだろうか。めったに来客などないので、一度見たら忘れないのだろう。

「私たちは彼女をすり抜けて、メイソン・シティやらどこやらから来たサイドボードのある廊下に入り」は<we slipped past her into her hallway with the side piece from Mason City or wherever it was and from that into>。清水氏はここをカットしている。前回の訪問のときに交わされた会話についての言及である。村上訳は「我々は彼女の身体をすり抜けるようにして、メイソン・シティーだかどこだかから運ばれてきたサイドボードが置かれている玄関に足を踏み入れた」だ。

「まるで練りパイ生地でできているかのように」は<as if it was made of short pie crust
>。清水氏はここもカット。<short pie crust>というのは「練りパイ」のことで、手順のかかる「折りパイ」に比べ、手軽なパイ生地のことである。村上訳は「まるでパイの皮でできたものみたいに」。あまり過程でパイを焼く習慣のない日本では、こちらの方が分かりやすいかもしれない。

「顎は何も伸びていなかった」は<her chin hadn't grown any>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「顎には成長のあとはうかがえなかった」。英米では「あご」は自己主張や意志力の宿る場所とみなされる、という解説が辞書にあった。「ぺらぺらしゃべる」という意味の俗語もあるので、マーロウはミセス・モリスンに対して思うところがあってわざわざ書き添えているのだろうか。

「ご参考までに申し上げると」は<just to give you an idea>。<just to give you an idea>は、何かを相手に教えようとするときに文頭に置く決まり文句である。清水氏は「わかったかね?」とミセス・モリスンに向けて話しかけるように訳している。これならどんな場合でも通用する。村上氏は「お里が知れるというやつだな」と訳しているが、「お里が知れる」というのは、ミセス・フロリアンの人物評になっていて、使い回しがきかない。決まり文句については、汎用性の高い日本語に訳すべきではないか。

「そして早口でしゃべり出した。あまりにも早口過ぎた」は<She began to talk rapidly, too rapidly>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「そして早口でしゃべり始めた。いささか早すぎるくらいに」。なぜ急ぐ必要があるのか、という疑問がマーロウの頭に浮かんでいるのだろう。だことを仄めかしている部分だ。こういうところは大事にしたい。

「青灰色の官服が近づいていた」は<An official blue-gray uniform was nearing the house>。清水訳は「灰色がかった青い制服の男が近づいてきた」。村上訳は「青灰色の制服を着た男がこちらに近づいていた」。両氏とも、原文にはない「男」をわざわざ入れているのに、原文にある<An official>にはふれていない。近づいて来ているのは、「男」ではない。見慣れた「公務員」の制服である。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第29章(4)

<try to pull something>は「何か(悪いことを)企む」。

【訳文】

《「言わなければいけないことがある」私は言った。「昨夜はあんまり頭に来たんで、正気のさたとも思えないが、一人でそこを急襲してやろうと考えたんだ。ベイ・シティの二十三番とデスカンソが交わる辺りにある病院だ。ソンダーボーグという医師を名乗る男がやっている。副業として犯罪者に隠れ家を提供している。昨夜そこでムース・マロイを見た。部屋にいたんだ」
 ランドールは腰を落ち着けたままこちらを見ていた。「本当か?」
「見まちがえようがない。あいつのでかさは異様だ。あんな男は今まで見たことがない」
 彼は座って私を見ていた。身じろぎもせずに。それからひどくゆっくりとテーブルの下から脚を抜いて、立ち上がった。
「そのフロリアンの女に会いに行こう」
「マロイはどうする?」
 彼は椅子に座り直した。「詳しく教えてくれ。細大漏らさず」
 私は話した。彼は私の顔から眼を離すことなく聞いた。瞬きもしなかったと思う。彼は唇を少し開けて息をした。上体は動かなかった。指でテーブルの端を軽く叩いていた。私が話し終えると彼は言った。
「そのドクター・ソンダーボーグとやらは、どんな男だった?」
麻薬中毒者のようだ。たぶん売人だろう」私は男の人相風体をできる限り詳しくランドールに伝えた。
 彼は静かに隣の部屋に行き、電話の前に坐った。ダイヤルを回し、しばらくの間声を落として話していた。彼が戻ってきたとき、私は新しいコーヒーを淹れ、卵を二個ゆで、二枚のトーストにバターを塗っているところだった。私は座って食べた。
 ランドールは私の向かいに腰を下ろし、前かがみになり頬杖をついた。「州の麻薬捜査官に適当な理由をでっち上げて調べてもらうことにした。何か見つけるかもしれない。マロイは捕まらないだろう。昨夜君が去った十分後にはそこを後にしている。賭けてもいい」
「どうしてベイ・シティの警官じゃないんだ?」私は卵に塩を振った。ランドールは無言だった。私が見上げたとき、彼は顔を赤らめ、居心地が悪そうだった。
「警官の中で」私は言った。「君は今まで私が会った一番感じやすい男だよ」
「急いで食べろよ。我々は出かけなきゃならないんだ」
「この後、シャワーを浴びて髭を剃り、服を着なきゃいけない」
「パジャマのままで行けないのか?」彼はとげとげしく言った。
「あの街はそんなに腐りきっているのか?」
「レアード・ブルネット・タウンだ。今の市長を当選させるのに三万ドル使ったそうだ」
「ベルヴェディア・クラブのオーナーか?」
「それに賭博船が二隻」
「しかし、それは我々の郡の中にある」私は言った。
 彼は手入れの行き届いた艶のある爪を見下ろした。
「君のオフィスに寄って二本のマリファナ煙草をもらって行こう」彼は言った。「もしまだそこにあるならな」彼は指を鳴らした。「鍵を貸してくれたら、君が髭を剃って服を着ている間に私が行ってくる」
「一緒に行くよ」私は言った。「郵便が来てるはずだ」
 彼は肯いて、それから座り直し、新しい煙草に火をつけた。私は髭を剃り、服を着て、ランドールの車に乗った。
 手紙が何通か来ていたが、読む価値のないものだった。二本の細切れの煙草は机の抽斗にそのまま残っていた。誰かが触れた形跡はなかった。オフィスは捜索されていなかった。
 ランドールは二本のロシア煙草を手にとって匂いを嗅ぎ、ポケットにしまった。
「彼は君からカードを一枚取り返した」彼は物思いにふけった。「その裏に何も書いてなかったので、残りは気にも留めなかった。アムサーはあまり恐れていない―君が何か良からぬことを企んでると思っただけだ。出かけよう」》

【解説】

「昨夜はあんまり頭に来たんで、正気のさたとも思えないが、一人でそこを急襲してやろうと考えたんだ」は<Last night I was so damn mad I had crazy ideas about going down there and trying to bust it alone>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「昨日の夜、私はよほど頭がどうかしていたようだ。その場所をひとつ徹底的に、一人で捜索してやろうという、とんでもない考えを抱いた」だ。<bust>には俗語で警察が容疑のある場所を「急襲する、手入れする」の意味がある。

「ベイ・シティの二十三番とデスカンソが交わる辺りにある病院だ」は<This hospital is at Twenty-third and Descanso in Bay City>。清水訳では「ぼくがひどい目にあった病院はベイ・シティのデスカンソ街二十三丁目にある」。村上訳は「ベイ・シティーの二十三番通りの、デスカンソ通りの近くにある病院のことだよ」だ。二つの地名を<and>でつなぐときは、道路の直交する位置を示す。因みに「デスカンソ」とはスペイン語で「労働からの休息」を意味する言葉。南カリフォルニアにそういう名のコミュニティがある。

「どうしてベイ・シティの警官じゃないんだ?」は<Why not the Bay City cops?>。清水氏は「ベイ・シティの警官はこのままにしておくのか」と訳している。清水氏は<the Bay City cops>をマーロウを襲った二人組の警官と考えているようだが、ここはランドールが病院を調べるのに、ベイ・シティの警官ではなく<a state narcotics man>に電話したことを言っている。村上訳は「どうしてベイ・シティ―の警官に行ってもらわないんだ?」と、その辺りを補足している。

「君が何か良からぬことを企んでると思っただけだ」は<just thought you were trying to pull something>。清水訳は「君が何かやりはしないかと思っただけなんだ」。村上訳は「君がはったりをかましたと思っただけだ」。<pull>の口語には「(犯罪、詐欺などの)悪いことをする」という意味で使われることがあり、<trying to pull something>という例文もある。清水訳はそういう意味に取ることが可能だが、村上訳ではそうはならない。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第29章(3)

<here's how it works>は「仕組みはこうだ」。

【訳文】

《ランドールは無表情に私を見つめた。彼のスプーンは空っぽのカップの中の空気をかき混ぜていた。私が手を伸ばすと、彼はポットを手で制した。「その先を聞かせてくれ」彼は言った。
「連中は彼を使い切った。利用価値がなくなったんだ。君が言ったように、彼のことが少し噂になっていた。だからといって、この稼業で辞職する奴はいないし、休職というのもあり得ない。それでこのホールドアップで仕事納めということにした。事実、値打ち物の翡翠の割に、売り値は驚くほど安かった。そして、マリオットが橋渡し役を務めた。とはいうものの、マリオットは怯えていた。土壇場になって一人で行かない方がいいと考えたんだ。彼はちょっとしたトリックを思いついた。もし、彼の身に何かあれば、身につけた何かが一人の男を指し示す。この手のギャングのブレーンが務まるほど冷酷で怜悧な男、金持ち女についての情報を変わった形で得ている男だ。ずいぶん子どもじみたトリックだが、それなりに功を奏したってわけだ」
 ランドールは頭を振った。「ギャングなら身ぐるみ剥がすか、死体を海に捨てるだろう」
「いや、素人の仕業に見せたかったんだ。連中は仕事を続ける気でいた。おそらく彼の後釜が見つかっていたんだろう」私は言った。
 ランドールはそれでも頭を振った。「煙草が指し示していた人物はそういうタイプじゃない。自分の稼業で稼いでいた。調査済みだ。彼のことをどう思う?」
 彼の眼には感情がまるでなかった。あまりにも無さすぎた。私は言った。「私の目には致命的なまで危険に見えた。それに、金はいくらあっても邪魔にはならない。結局のところ、彼の心霊商売はどこでやろうが長くは続かない。今は評判になってみんなが押しかけているが、そのうち流行が廃れたら商売にならない。彼が霊能者以外の何ものでもないとしたら、ということだ。映画スターのようなものさ。よくいって五年くらいだろう。しかし、ご婦人たちから引き出した情報を活用する方法をいくつか持ってれば、大儲けできるだろう」
「もっと徹底的に調べてみよう」ランドールは漠然と言った。「しかし、今はマリオットの方に興味がある。もっと前まで戻ろう。君がどうして彼と知り合ったのかというあたりに」
「電話がかかってきたんだ。電話帳から私の名前を選んだ。少なくとも彼はそう言った」
「君の名刺を持っていた」
 私は泡を食った。「そうだった。忘れてたよ」
「なぜ彼が君の名前を選んだのか不思議に思ったことはあるのか? この際、君の物忘れについては目をつぶっておこう」
 私はコーヒーカップの縁越しに彼を見つめた。彼のことを好きになりかけていた。彼はヴェストの下にシャツ以外のものをたくさん持っていた。
「それがここに来た本当の理由か?」私は言った。
 彼は肯いた。「残りは、そうさな、ただのおしゃべりだ」彼はおざなりに微笑み、私が話し出すのを待った。
 私はコーヒーをもう少し注いだ。
 ランドールは上体を横に傾け、テーブルのクリーム色の表面に目をやった。「ほこりが少し」彼は上の空で言った。それから姿勢を正して私の眼を見た。
「ことによると、俺は少しやり方を変えて事件に取り掛かるべきなのかもな」彼は言った。「例えば、マリオットに関する君の直感はたぶん正しい。彼の貸金庫には二万三千ドルという大金が入っていた。それを見つけるのにずいぶん手間がかかった。また、かなりの額の債券と西五十四番街の土地の信託証書も持っている」
 彼はスプーンをつまみあげ、コーヒー皿の端を軽く叩いて微笑んだ。「面白いと思わないか?」彼はおだやかに訊いた。「番地は西五十四番街一六四四だ」
「ああ」私はだみ声で言った。
「そうそう、マリオットの貸金庫には宝石も少し入っていた。かなりの品らしいが、盗品とは思えない。誰かに貰った可能性が非常に高い。それも君の説に当てはまる。彼はそれを売るのが怖かった―心の中にある観念連合のせいだ」
 私はうなずいた。「彼はそれを盗んだように感じていたんだ」
「そうだな。ところで、俺は最初のうちその信託証書に全然関心がなかった。その理由を説明しよう。犯罪捜査で警官が直面していることだ。我々は遠く離れた地域で起きたすべての殺人事件と不審死の報告を受ける。それはその日のうちに読むことになっている。そういう規則なんだ。令状なしに家宅捜索したり、正当な理由なくして銃を持っていないか身体検査したりしてはいけないというのと同じことさ。だが、俺たちは規則を破る。どうしようもないからだ。俺は今朝まで、いくつかの報告書に目を通す暇がなかった。そして、今朝そいつを読んだ。黒人殺しの件だ。先週木曜日にセントラル・アヴェニューで起きた。犯人はムース・マロイという前科者のごろつきだ。それには目撃証人がいた。もし、その証人が君じゃなかったら、この話はそれまでだ」
 彼は優しく微笑んだ。三度目の微笑だ。「気に入ったか?」
「聴いてるよ」
「それが分かったのが今朝のことだ。それで報告書を書いた男の名前を見た。ナルティだ。俺はそいつを知ってる。もう、この事件はお蔵入りだと思った。ナルティはそういうやつだ―ところで、クレストラインに行ったことがあるか?」
「ああ」
「クレストラインの近くにたくさんの古い有蓋貨車がキャビンになっているところがある。俺もそこにキャビンを持っている。貨車じゃないが。ああした貨車はトラックで運ばれてくる。信じようと信じまいと、車輪もついていない。さて、ナルティというのは、あの貨車のブレーキ係にうってつけの男さ」
「そいつはあんまりだ」私は言った。「警官仲間だろう」
「それでナルティに電話したら、要領を得ないことばかり言って、何度か悪態までついた。その後、ようやく言った。マロイが昔つきあっていたヴェルマという娘のことを君が知っていると。殺人が起きた元店主の未亡人に会いに行ったこともな。そこは黒人のたまり場になっているが、マロイと娘が働いていた当時は白人専用の酒場だった。住所は西五十四番街一六四四番地、マリオットが信託証書を持っていたところだ」
「それで」
「それで、俺は思ったのさ。ひと朝の出来事にしては偶然の一致が過ぎるとね」ランドールは言った。「それで私はここにいる。これまでのところ、この件について私なりに配慮してきたつもりだ」
「骨折り損の」私は言った。「くたびれ儲けさ。フロリアン夫人によると、このヴェルマという娘は死んでいる。彼女の写真がある」
 私は居間に行き、スーツの上着に手を突っ込んだ。手が空を掻いたとき、妙な胸騒ぎがした。しかし彼らは写真を手にとりさえしなかった。私はそれを取り出し、台所まで持って行って、ぽいと投げた。ランドールの目の前にピエロ姿の娘が落ちた。彼は慎重に見た。
「見覚えがないな」彼は言った。「もう一枚の方は?」
「いや、こっちはミセス・グレイルの新聞用のスチール写真だ。アン・リオーダンが手に入れた」
 彼はそれを見て肯いた。「二千万ドルあったら、俺がこの女と結婚するよ」》

【解説】

<ランドールは上体を横に傾け、テーブルのクリーム色の表面に目をやった。「ほこりが少し」彼は上の空で言った>は<Randall leaned over sideways and looked along the cream-colored surface of the table. “A little dust,” he said absently>。清水氏は「ランドールは」の部分を除いて後をカットしている。村上訳は<ランドールは身体を横に傾け、テーブルのクリーム色の表面を眺めた。「少しほこりがたまっているな」と彼はどうでもよさそうに言った>だ。

「ことによると、俺は少しやり方を変えて事件に取り掛かるべきなのかもな」は<Perhaps I ought to go at this in a little different way>。清水氏は「こんなふうに切り出さないでもよかったんだがね」と訳しているが、これはちがうのではないだろうか。<go at>は「(仕事に)熱心に取り掛かる」という意味だ。村上訳は「俺はこの事件を少し違った方向から見直すべきなのかもしれん」だ。

「その理由を説明しよう。犯罪捜査で警官が直面していることだ」は<but here's how it works. It's what you fellows are up against in police work>。清水氏は「こいつが気になったのは、こういういきさつ(傍点四字)なんだ」と訳している。<here's how it works>は「仕組みはこうだ」というときの成句。<up against>は「直面する」という意味。村上訳は「しかし意外な成り行きがあった。警察を出し抜くのは思っているほど簡単なことじゃないんだよ」だ。

村上氏は<police work>(犯罪捜査)を「警察の仕事」と文字通り解釈し、<up against>を(マーロウのような探偵が)それに「対決して」その上を行くことの難しさを言ったものだと考えられる。しかし、ランドールの話は、村上氏のいうように警察機構の優れた点を言ってはいない。むしろ逆に、融通が利かず、硬直化していることを批判している、と考えた方が話が通る。ランドールの口調は決して誇らしげではない。むしろ苦々しい。

「もし、その証人が君じゃなかったら、この話はそれまでだ」は<And sink my putt, if you weren't the witness>。清水氏は「そして、証人として、君の名前が出てるじゃないか」と訳している。村上訳は「おたくがその証人だとわかったときには、そりゃたまげたぜ」だ。いずれにせよ<if you weren't the witness>という条件節が無視されている。<sink a putt>は「パットを沈める」の意味だが、ゴルフでパットが決まれば、そのホールでのプレイは終わる。おそらく「それまで続いていた何かを終える」ことを意味する慣用句だろう。

「それでナルティに電話したら、要領を得ないことばかり言って、何度か悪態までついた」は<So I called Nulty up and he hemmed and hawed around and spit a few times>。清水訳は「とにかく、俺はナルティを呼んで、捜査の模様を訊いてみたんだ」になっている。<call up>は「電話をかける」、<hem and haw>は「口ごもる」の意味だ。村上訳は「俺はナルティーに電話をかけてみた。やつはなんだかわけのわからんことをもごもご口走っていた。何度か悪態もついた」。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第29章(2)

<smooth shiny girls>は「練れた、派手な女」でいいのだろうか?

【訳文】

《「いいスーツを着ているな」
 彼の顔がまた赤くなった。「このスーツの値段は二十七ドル五十セントだ」彼は噛みつくように言った。
「なんとも感じやすい警官だな」私は言って、レンジに戻った。
「いい香りだ。どうやって淹れるんだ?」
 私はコーヒーを注いだ。「フレンチ・ドリップというんだ。豆は粗挽き、フィルター・ペーパーは使わない」私は戸棚から砂糖、冷蔵庫からクリームを出した。我々は部屋の隅に向かい合って座った。
「病気で入院してたというのは、冗談なんだろう?」
「冗談じゃない。ベイ・シティでちょっとしたトラブルに巻き込まれて放り込まれたんだ。刑務所じゃない。麻薬とアルコール中毒を治療する私立施設だ」
 彼は遠くを見るような目をした。「ベイ・シティだって? 痛い目に遭うのが好きなんだな、マーロウ?」
「好き好んでやってるわけじゃない。成り行きさ。しかし、ここまでひどい目に遭うのは初めてだ。頭を二回も殴られた。二回目は警官か、警官を名乗るそれらしく見える男にやられた。自分の銃で殴られ、凶暴なインディアンに首を絞められた。気絶してる間にその麻薬病院に放り込まれ、監禁された。しばらくの間ベッドに縛りつけられていたらしい。そしてそれを証明することは不可能だ。実のところ、からだ中があざだらけで、左腕には注射針の痕がごまんとある以外は」
 彼はテーブルの端をじっと見つめた。「ベイ・シティでね」彼はゆっくり言った。
「歌のような名前だ。汚いバスタブで歌う歌」
「何をしにそこまで行ったんだ?」
「私が行ったんじゃない。警官たちが連れてったんだ。私は人に会いにスティルウッド・ハイツまで行った。そこはL.Aだ」
「男の名は、ジュールズ・アムサー」彼は静かに言った。
「どうしてその煙草をくすねたりしたんだ?」
 私はカップの底をのぞき込んだ。まったく、余計なことを。
「妙だと思ったんだ。マリオットはケースを余分に持っていた。マリファナ煙草が入っていた。そいつはベイ・シティあたりで作られてるそうだ。空洞の吸い口、ロマノフ家の紋章など何もかもロシア煙草に似せて」
 彼は空になったカップを私の方に押し出した。私はお代わりを注いだ。彼の目は私の顔の皺の一本一本、微粒子一つ一つを入念に調べた。拡大鏡を手にしたシャーロック・ホームズ、或いはポケット・レンズを持ったソーンダイク博士のように。
「君は私に言うべきだった」彼は苦々しげに言った。彼はコーヒーを啜り、アパートによく置いてある、縁取りのあるナプキンの代用品で唇を拭った。「だが、君はそれをくすねちゃいない。あの娘が打ち明けてくれた」
「やれやれ」私は言った。「もうこの国では男には出番がない。いつも女だ」
「彼女は君が好きなんだ」ランドールは言った。映画に出てくる思いやりのあるFBIの男のように、少し悲しげに、しかしとても男らしく。「彼女の親父さんは真っ正直な警官だった。それで職を失う羽目になった。あの娘もまちがったことをする子じゃない。君のことが好きなんだよ」
「彼女はいい娘さ。私のタイプじゃないが」
「いい娘が好きじゃないのか?」彼は新しい煙草に手をつけ、顔の前の煙を手で払いのけていた。
「すべすべしてて艶やかな娘がいい。固ゆで卵のように、中にしっかり罪が詰まった」
「身ぐるみ剥がされに、洗濯屋に行くようなものだ」ランドールは興味なさそうに言った。
「その通りだが、他に私の行くところがあるか? 君は何の話をしにここに来たんだ?」
 彼はその日初めての微笑みを微笑んだ。微笑むのは日に四度と決めているのだろう。
「君は肝心なことを話していない」彼は言った。
「話して聞かせてもいいが、君の方が先を越しているだろう。マリオットという男は女専門の強請り屋だった。ミセス・グレイルもそう言っていた。しかし、彼には別の顔があった。宝石強盗団の情報提供者だ。スパイとして社交界に潜入し、被害者と親しくなり、企みの手筈を整える。彼は女と親しい仲になり、外へ連れ出せるようになる。先週木曜日のあのホールドアップがいい例だ。かなり臭い。もしマリオットが運転していなかったら、或いはミセス・グレイルを<トロカデロ>に連れて行かなかったら、或いは別の道筋で家に帰っていたら、ビアホールを通り過ぎてホールドアップは起こらなかっただろう」
「運転手が運転していたかもしれない」ランドールは尤もらしく言った。「しかし、それによって状況が大きく変わることはなかった。運転手なら、ホールドアップされても顔に鉛玉を喰らうような真似はしない―月に九十ドルではね。しかし、マリオット一人を使って何度も強盗するのは難しい。噂が立つに決まっている」
「この手の商売で肝心なことは人に知られないことだ」私は言った。「それもあって、買い戻し値は安い」
 ランドールは仰け反って、頭を振った。「俺の興味を引くにはもっとましなことを言わなくちゃな。女は何でもしゃべる。マリオットと出かけるのは危ないという噂が立っていただろう」
「おそらくな。それが消された理由だ」》

【解説】

「そいつはベイ・シティあたりで作られてるそうだ。空洞の吸い口、ロマノフ家の紋章など何もかもロシア煙草に似せて」は<they make them up like Russian cigarettes down in Bay City with hollow mouthpieces and the Romanoff arms and everything>。清水氏はここを「ベイ・シティで作ったものらしい」と訳している。村上訳は「ベイ・シティ―あたりでロシア煙草に見せかけたものを作っているらしい。吸い口を空洞にして、ロマノフ王朝の紋章なんぞを刷り込んでね」だ。

「彼はコーヒーを啜り、アパートによく置いてある、縁取りのあるナプキンの代用品で唇を拭った」は<He sipped and wiped his lips with one of those fringed things they give you in apartment houses for napkins>。清水訳は「コーヒーを一口啜(すす)って、ハンケチで口を拭った」。村上氏は「アパートメント・ハウスにナプキンがわりによく備え付けてある、房のついた布切れで口元を拭った」だ。

清水氏の「ハンケチ」は論外だが、実際の品についてははっきりとは分からない書き方になっている。村上訳では「布切れ」となっているが、原文は<one of those fringed things>。どこにも布とは書いていない。わざわざ房飾りのついた布を用意するくらいなら、もうそれは立派なナプキンだろう。「ナプキンの代用品」としたのは<one of those things>というフレーズに含まれる否定的なニュアンスを生かしたかったからだ。

「すべすべしてて艶やかな娘がいい。固ゆで卵のように、中にしっかり罪が詰まった」は<I like smooth shiny girls, hardboiled and loaded with sin>。清水訳は<「もっとあくの強い女の方がいいね」と私はいった。「すれっからしで、少々グレているほうがいい」>。村上訳は「私はもっと練れた、派手な女が好きだ。卵でいえば固茹で、たっぷりと罪の詰まったタイプが」。

<smooth shiny>は、シャンプーの宣伝文句みたいだが、マーロウはミセス・グレイルの脚を思い出しているのではないだろうか。「滑らかで光沢のある」という言葉から、ゆで卵が連想される。その中に<loded>(装填された、詰まった)されているのは、少々のことでは揺れ動くことのない、しっかり固まった<sin>「罪」だ。表面は取り繕ってきれいなものだが、中身は罪深い女のイメージだ。両氏の訳では初めから悪女めいて見える。

「身ぐるみ剥がされに、洗濯屋に行くようなものだ」は<They take you to the cleaners>。清水氏は「そんな女とつきあっても、碌なことはないぜ」と訳している。それに対するマーロウの返事は「わかってるよ。どうせ、堅気の暮らしはしてはいないんだ」。村上氏は「そういう女には尻の毛までむしられるぜ」。「承知の上さ。だからいつだってからっけつ(傍点五字)なんじゃないか」と応答している。

<take someone to the cleaners>は直訳すれば「~をクリーニング屋に連れていく」だが、そこから「身ぐるみはがされる」の意味になる。それに対するマーロウの返事は<Sure. Where else have I ever been? >。<where>で受けているのは<the cleaners>に対する返答だからだ。このやりとりを村上氏は「尻の毛をむしられる」「からっけつ」という語呂合わせで対欧させているのだろう。面白いが、あまり品がいいとは思えない。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第29章(1)

ドア越しに相手に投げるのは、キスだけじゃない。

【訳文】

《パジャマ姿でベッドの脇に座りながら、起きようかと考えていたが、まだその気になれなかった。気分爽快とまではいえないが、思っていたよりましだ。サラリーマンだったら、と思うほど気分は悪くなかった。頭は痛むし、腫れて熱があり、舌は渇き、砂利でも乗せているような気がした。喉はこわばり、顎はタフとはいえなかった。しかし、もっとひどい朝を迎えたことはある。
 霧の濃い薄暗い朝で、まだ暖かくはないが、暖かくなりそうだ。ベッドから体を持ち上げ、嘔吐のせいで痛む腹のくぼみをさすった。左脚は良くなっていた。痛みは残っていなかった。それで、ついベッドの角を蹴らずにいられなかった。
 ドアを強く叩く音がしたのは、悪態をついていたときだ。威張りくさったノック。二インチばかりドアを開け、汁気たっぷりのブーイングを浴びせてから、バタンと閉じたくなりそうな種類のやつだ。
 私はドアを二インチよりは少し広めに開けた。ランドール警部補がそこに立っていた。茶色のギャバジンのスーツに軽いフェルト生地のポークパイをかぶり、たいそう小奇麗で清潔、真面目くさっていたが、目にはたちの悪い色が浮かんでいた。
 彼がドアを少し押したので、私は後ろに下がった。彼は入ってドアを閉め、あたりを見回した。「この二日というもの、君を探していたんだ」彼は言った。彼は私を見なかった。目は部屋の中をじろじろ見ていた。
「病気だったんだ」
 彼は軽く弾むような足どりで歩きまわった。艶やかな銀髪は輝き、帽子を脇の下にはさみ、両手はポケットの中にいれていた。警察官としては大柄なほうではない。片手をポケットから出して、帽子を雑誌の上に注意深く置いた。
「ここにいなかったな」彼は言った。
「入院していた」
「どこの病院だ?」
「ペット・クリニックさ」
 彼はひっぱたかれでもしたかのように体をぐいと引いた。鈍い色が皮膚の奥に現れた。
「少しばかり早過ぎないか、その手の話には」
 私は黙って、煙草に火をつけた。煙を吸い込み、また素早くベッドに腰を下ろした。
「君のような男にはつける薬がない」彼は言った。「監獄に放り込むしかない」
「私は病人だった。まだ朝のコーヒーも飲んでいない。高級な機知を期待する方が無理だ」
「この事件には関わるなと言ったはずだ」
「あんたは神じゃない。イエス・キリストでさえない」
 私は煙草をもう一本吸った。内心どこか生硬な感じがしたが、そこが少し好きだった。
「俺がどれだけ君をひどい目に遭わせられるかを知れば、驚くだろうよ」
「だろうな」
「どうして今までやらなかったか、分かってるか?」
「ああ」
「なぜだ?」彼は敏捷なテリアのように少し前屈みになり、無慈悲な眼をした。遅かれ早かれ、警官はみんな同じ目つきをする。
「私が見つからなかったから」
 彼は上体を反らせて身を揺すった。顔が少し輝いた。「何か別のことを言うと思っていた」彼は言った。「それを言ったら、一発食らわす気だった」
「二千万ドルくらいでは怯まないってことか。しかし、上に命令されるかもしれない」
 彼は口を少し開いて、荒い息をした。ポケットからそろりそろりと煙草の箱を取り出して包装紙を引きちぎった。指が少し震えていた。唇に煙草を咥え、マガジン・テーブルにマッチ・ホルダーを探しに行った。慎重に煙草に火をつけ、マッチを床ではなく灰皿に捨て、煙を深く吸い込んだ。
「このあいだ、電話で忠告しておいたな」彼は言った。「木曜日だった」
「金曜日だ」
「そう、金曜日だ。聞き入れられなかった。理由は分かってる。しかし、その時は君が証拠を握っていることを知らなかった。この事件に関して良かれと思ったことを勧めただけだ」
「どんな証拠だ?」
 彼は黙って私を見つめた。
「コーヒーでもどうだ?」私は訊いた。「少しは人間らしくなれるかもしれない」
「いらん」
「私は飲む」私は立ち上がり、キチネットに向かった。
「座れよ」ランドールは厳しい口調で言った。「話はまだ終わっていない」
 私はかまわずキチネットに行き、薬缶に水を入れて火にかけた。蛇口から直接水を飲み、もう一口飲んだ。私は三杯目のグラスを手に、戻ってきて入り口に立って彼の方を見た。彼は動いていなかった。煙の帷が中身があるもののように片身に寄り添っていた。彼は床を見ていた。
「ミセス・グレイルの招きに応じたことの一体どこがいけないんだ?」私は訊いた。
「そのことを言ってるんじゃない」
「ああ、でもさっきはそれを言いたかったんだろう?」
「彼女は君を招いていない」彼は視線を上げたが、眼はまだ無慈悲さがうかがえた。赤らみが尖った頬骨に残っていた。「押しかけたんだ。そして、スキャンダルをちらつかせて仕事にありついた。事実上、脅迫だ」
「おもしろい。私の記憶によれば、我々は仕事の話さえしなかった。彼女の話に何かあるとは思いもしなかった。真剣に取り組もうにも、手の付けようがない、ということだ。もちろん君はすべて彼女から聞いたと思うが」
「聞いた。あのサンタモニカのビアホールは盗っ人どもの隠れ家だ。だからといって、それに何の意味もない。そこでは何も手に入らなかった。向かいのホテルも胡散臭いが、狙う相手じゃない。ちんぴらばかりだ」
「私が押しかけた、と彼女が言ったのか?」
 彼は少し視線を落とした。「いや」
 私はにやりとした。「コーヒーでもどうだ?」
「いらん」
 私はキチネットまで行き、コーヒーを淹れ、ドリップがすむまで待った。ランドールは今度は私についてきて入り口に立った。
「この宝石強盗団は私の知る限り、ここ十年ほどハリウッドを荒らしまわっている」彼は言った。「今度ばかりはやり過ぎた。人ひとり殺したんだ。私には理由がわかっている」
「いいぞ、もしこれがギャングの仕業で、君がそれを解決したら、私がこの街に住んでから初のギャング殺人事件の解決になる。少なくても一ダースは未解決事件の名を書き出せる」
「よく言うよ、マーロウ」
「まちがってたら、訂正してくれ」
「くそっ」彼はいらついて言った。「まちがってなどいない。記録の上は二件が解決済みになっているが、容疑者に過ぎない。チンピラがボスの罪をかぶらされたのさ」
「ああ、コーヒーは?」
「もし、飲んだら、真面目に話してくれるか、男対男として、気の利いた警句抜きで?」
「やってみよう。頭の中身をあらいざらいぶちまけるわけにはいかないが」
「知恵を借りに来たわけじゃない」彼は気難しげに言った。》

【解説】

「サラリーマンだったら、と思うほど気分は悪くなかった」は<not as sick as I would feel if I had a salaried job>。清水氏は「サラリーマンだったら、会社勤めに出かけるのも、さして苦痛ではない」と訳しているが、ちがうのではないだろうか。村上氏は「会社勤めをするのに比べたら数段ましな気分だ」と訳している。ニュアンスはこちらの方が近いが「数段まし」というほどの差はない気がする。かなり状態は悪いが、月給取りをしていたらこんな目に遭わなかったのになあ、と後悔するほどでもない、というくらいの意味だ。

「汁気たっぷりのブーイングを浴びせて」は<emit the succulent raspberry>。清水訳は「アカンべーをして」。村上訳は「べたべたするラズベリーを投げつけ」。村上氏は「キイチゴ」と解釈したようだが、清水氏の方がよくご存じのようだ。「アカンべー」とはうまい訳語を見つけたもので、この場合の「ラズベリー」はスラング。「ブロンクス・チア」ともいう。審判が誤審したときなどにアメリカ人がよくやる「軽蔑や不賛成の意を示す目的で、舌を唇の間にはさんで出す振動音」のことだ。

<succulent>は「水分が多い」を意味する形容詞。そのまま読めば「ジューシーな木苺」ということになる。村上氏がそう訳したくなるのも無理はないが、<emit>に「投げる」の意味はない。「(音、声などを)口に出す」という意味だ。映画で見たことがあるが、結構長く音を出すようだ。舌をふるわせて音を出すのだから、当然つばも飛ぶことだろう。

「内心どこか生硬な感じがしたが、そこが少し好きだった」は<Somewhere down inside me felt raw, but I liked it a little better>。清水氏は「からだはまだ、ほんとうに恢復してはいないようだった」と訳している。村上氏はそれを踏まえて「身体の内側で何かがちくちくしたが、それでも前よりは少しましになっていた」と訳している。疑問なのは、<inside>をどうして「体」の内側ととるのか、ということだ。

<(deep) down inside>は「心の奥底で」という意味。何を<raw>と感じたのかは不明だが<raw>とは「未加工の、精製していない」という意味だ。推測だが、マーロウは一服しながら<You're not God. You're not even Jesus Christ>という文句のことを考えていたのではないだろうか。確かにマーロウの台詞にしては「ひねり」がなさすぎる。しかし、その直截なところが逆に気に入ったのだろう。

「彼は敏捷なテリアのように少し前屈みになり、無慈悲な眼をした。遅かれ早かれ、警官はみんな同じ目つきをする」は<He was leaning over a little, sharp as a terrier, with that stony look in his eyes they all get sooner or later>。清水訳は「彼はテリヤのような眼でじっと私を見つめた」だ。テリアは地中の小動物を狩りだすための猟犬として開発された犬だ。キツネ穴に飛び込もうとするときの前傾姿勢を指すのであって、眼ではない。村上訳は「彼はテリアみたいに鋭く、いくらか前屈みになった。その目には無慈悲な冷酷さが浮かんでいた。いつかはそいつが顔を出すことになる」だ。<sharp>といえば何でも「鋭い」と訳すのは少し芸がないと思う。<they>はどこへ行ったのだろう。

「マガジン・テーブルにマッチ・ホルダーを探しに行った」は<went over to my magazine table for a match folder>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「マッチをとりにマガジン・テーブルまで行った」と訳している。<match folder>というのは、マッチを入れておくちょっとした小物入れのこと。材質も形状もさまざまで、灰皿がついている物もある。

「コーヒーを淹れ、ドリップがすむまで待った」は<made the coffee and waited for it to drip>。清水訳は「コーヒーの仕度をした」。村上訳は「コーヒーを作った」だ。まあ、薬缶を火にかけたことはわかっているので、サイホンやパーコレーターでないことは明らかだが、ドリップであることを知らせておくのも悪くはないだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第28章(2)

階と階とをつなぐ階段は<stairs>。戸口から地面に通じる階段は<steps>。

【訳文】

 《彼女はグラスを持って帰ってきた。冷たいグラスを持ったせいで私の指に触る彼女の指まで冷たくなっていた。私はしばらくその指を握り、それからゆっくり放した。顔に陽を受けて目覚め、魔法にかけられた谷にいる夢を手放すときのように。
 彼女はさっと顔を赤らめ、自分の椅子に戻り、居ずまいを正して腰を下ろした。
 彼女は私が酒を飲むところを見やりながら、煙草に火をつけた。
「アムサーにはけっこう冷酷なところがある」私は言った。「しかし、どういうわけか私には宝石ギャングのブレーンのようには思えない。思い違いかもしれないが。仮に彼が参謀役で、私が何かつかんでいると知っていたら、あの麻薬病院から生きて出られたとは思えない。しかし、後ろ暗いところのある男だ。見えないインクで書かれた文字について口を滑らすまでは手荒な真似をしなかった」
 彼女は動じる様子もなく私を見た。「何と書いてあったの?」
 私はにやりとした。「あったとしても、私は読んでいない」
「問題発言を隠すにしては変わった方法だとは思わない? 煙草の吸い口の中というのは。見つからないかも知れないのに」
「そのことだが、マリオットは何かを怖れていて、もし自分に何かあったときにその名刺が発見されるようにしたのではないか、と思うんだ。警察は彼のポケットにあるものなら何でも徹底的に調べるはず。そこが悩みの種さ。もし、アムサーが強盗の一味だったら何も見つからなかっただろう」
「アムサーが彼を殺した―それとも殺させた、とすればね。でも、マリオットがアムサーについて知っていたことは、殺人と直接の関係はなかったかもしれない」
 私は椅子の背にもたれ、酒を飲み終え、それについて熟考しているふりをした。私はうなずいた。
「しかし、宝石泥棒は殺人と関係している。そして、アムサーが宝石泥棒と関係していると我々は考えている」
 彼女の眼に少し意味ありげな色が浮かんだ。「ひどい気分なんでしょう」彼女は言った。「ひと眠りした方がいいんじゃない?」
「ここでかい?」
 彼女は髪の根元まで赤くなった。顎を突き出した。「そういうこと。私は子どもじゃない。誰が気にするというの? 私がいつどこで何をどうしようと」
 私はグラスを脇に置いて立ち上がった。「めったにないことだが気後れしている」私は言った。「あまり疲れてなければタクシー乗り場まで送ってもらえないだろうか?」
「ばかじゃないの」彼女は怒って言った。「死ぬほど殴られて訳の分からない麻薬をたっぷり打たれたのよ。あなたに必要なのは一晩ぐっすり眠ることだけ、朝早くすっきり目覚めて、また探偵業にとりかかるために」
「少しばかり朝寝坊しようと思っていた」
「入院してなきゃいけないはずなのに。ばかなひと」
 私は身震いした。「いいかい」私は言った。「今夜は特別冴えているわけじゃないが、ここに長居しない方がいいと思う。連中について立証できることは何もないが、私は好かれていないようだ。何を言うにせよ警察を相手にしなければならないが、この街の警察はかなり腐敗しているようだ」
「ここはいい街です」彼女は少し息を切らせて言い放った。「勝手に決めつけないで―」
「オーケイ、いい街だよ、シカゴだってそうだ。トミーガンなど目にすることなく長生きすることもできる。もちろん、いい街さ。確かにロサンジェルスより腐っちゃいない。しかし、大都市で買えるのはそのうちの一部だ。これくらいの小さな街なら丸ごと買えるんだ。特製の箱に入れて包装紙で包んでもらえる。それが違いなのさ。それで外に出たくなる」
 彼女は立ち上がり、顎を私の方に突き出した。「あなたは今すぐここで寝るの。私には別の寝室があるから、あなたはちゃんと寝られる―」
「君の寝室のドアに鍵をかけると約束してくれるかい?」
 彼女は真っ赤になって唇を噛んだ。「時々、あなたを最高の探偵だと思う」彼女は言った。「そして、時々、こんな最低の下司野郎、見たことないと思う」
「どちらでも構わないから、タクシーを拾えるところまで連れて行ってくれないか?」
「ここにいるの」彼女はぴしゃりと言った。「あなたは体調がよくない。病人なの」
「人に指図されなきゃいけないほど病んではいない」私は意地悪く言った。
 彼女はあわてて部屋を飛び出したので、居間から廊下までの二段の段差で危うくつまずくところだった。彼女はすぐに戻ってきた。スラックスーツの上に長いフランネルのコートを羽織り、帽子はかぶっていなかった。赤みを帯びた髪は顔と同じくらい怒っているように見えた。
 彼女は通用口のドアを叩きつけるように開け、飛び跳ねるように通り抜けた。騒々しい足音がドライブウェイに響いた。ガレージの扉が上がる音が微かに聞こえた。車のドアが開いたかと思うと、バタンと閉まった。スターターが軋り、エンジンがかかった。ヘッドライトの閃光が居間の開いたフレンチ・ドアを通り過ぎた。
 椅子から帽子を取り、スタンドの灯りをいくつか消してみると、フレンチ・ドアにはエール錠がかかっていることが分かった。ドアを閉じる前に一瞬振り返った。快適な部屋だった。スリッパを履いて過ごすにうってつけの部屋だろう。
 ドアを閉じると同時に小さな車が傍に滑り込んだ。その後ろを回って車に乗り込んだ。
 彼女は家まで送ってくれた。唇を固く閉じ、怒って。嵐のような運転だった。私がアパートの前に降り立つと、彼女は冷やかな声でおやすみなさいと言い、通りの真ん中で小さな車を回して、私がポケットから鍵を取り出す前に行ってしまった。
 ロビーのドアは午後十一時で鍵が閉まる。鍵をあけ、いつも黴臭いロビーを抜け、階段とエレベーターのところまで行って、自分の階に上がった。わびしい光があたりを照らしていた。配達用ドアの前に牛乳瓶が置かれていた。その後ろに赤い防火扉が控えていた。換気用網戸がついているが、物憂げに流れ入る外気には調理場の匂いを消し去ることはできなかった。私は動きを止めた世界に帰ってきた。世界は眠りこける猫のように害がなかった。
 アパートのドアの鍵を開けて中に入り、明りのスイッチを入れるまでの束の間、ドアに凭れて佇み、匂いを嗅いだ。素朴な匂い、埃と煙草の煙の匂い、男たちが暮らし、生き続ける世界の匂いだ。
 服を脱いでベッドに入った。悪夢を見て汗をかいて目を覚ました。しかし、朝には健康な体に戻っていた。》

【解説】

「少しばかり朝寝坊しようと思っていた」は<I thought I'd sleep a little late>。清水氏は「ぼくはむしろ寝すぎたと思っているんだが……」と訳している。村上氏も「むしろ長く眠りすぎたような気がしていたんだがな」と訳している。<late>には「遅れる」の意味はあるが「~過ぎる」の意味はない。これはその前のアンの言った<to get up bright and early>を受けて、むしろ早起きしないでゆっくり寝ていたい、と言っているのだ。

「勝手に決めつけないで―」は<You can't judge->。清水氏は「一度そんなことがあったからって……」と、口にしていないところを推測して訳に使っている。村上訳も「たしかに一部では……」と、同じやり方だ。

「トミーガン」は<Tommygun>。正式には「トンプソン・サブマシンガン」という、短機関銃の愛称だ。清水氏は「機関銃」、村上氏は「マシンガン」と訳している。しかし、シカゴ・ギャングといえば「トミーガン」はつきもの。それに、一人で手に持って連射できる「サブマシンガン」は二脚架や三脚架のいる機関銃とは別物だ。あえて、別称を使う必要はない。

「特製の箱に入れて包装紙で包んでもらえる」は<with the original box and tissue paper>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「オリジナルの箱に入れて、きれいな詰め物までしてね」と訳している。<tissue paper>はティッシュペーパー。「薄葉紙(うすようし)」ともいう。緩衝材としても使うし、ラッピングにも用いる。村上氏は詰め物と考えたようだが、日本語なら「熨斗をかけて」というところだ。包装紙と考える方が、より効果的ではないか。

「彼女はあわてて部屋を飛び出したので、居間から廊下までの二段の段差で危うくつまずくところだった」は<She ran out of the room so fast she almost tripped over the two steps from the living room up to the hall>。清水訳では「彼女は足早に入口のホールへ走って行って」となっている。村上訳は「彼女は憤然として勢いよく部屋を出て行ったので、居間から二歩廊下へ出たところで危うくひっくり返りそうになった」だ。

<trip over>は「つまずく、よろける」で、「ひっくり返り」はオーバーだと思うが、気になるのはそこではない。<the two steps from the living room up to the hall>を「居間から二歩廊下へ出たところで」と訳しているところだ。ここはスキップフロアになっているのではないだろうか。階と階とをつなぐ階段には<stairs>を使うが、戸口などから地面に通じる階段は<step>を複数扱いにして用いる。第八章のマリオットの部屋でも<three steps>が使われている。何もないところでひっくり返りそうになるより、居間から廊下に至る段差でつまずきそうになった、と考える方が自然だ。

「ヘッドライトの閃光が居間の開いたフレンチ・ドアを通り過ぎた」は<the lights flared past the open French door of the living room>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「ライトが灯り、その強い光が居間のフレンチ・ドア越しに見えた」と<open>をトバしている。これは後でエール錠がかかっているのを目にしているので、整合しないと見てわざと訳さなかったのだろう。清水氏は「フレンチ・ドアにはエール錠がかかっていることが分かった」という部分もカットしている。「フレンチ・ドア」はテラスに面して床まで開け放つ形式の観音開きのガラス窓だ。ガラス越しに強い光を目にしたマーロウが、ドアが開いていると勘違いしても無理はない。だからわざわざ施錠してあることを確認したのだ。

「階段とエレベーターのところまで行って」は<along to the stairs and the elevator>。清水氏は<the stairs>をトバして「エレヴェーターに乗った」と訳している。村上訳は「ステップを上がってエレベーターのところまで行き」だ。こだわるようだが、この時点でマーロウは玄関を入ってロビーに来ている。つまり、もう戸口と地面を仕切る「ステップ」はない。はっきり<the stairs>と書かれている。だいたい、エレベーターのある建物には階段が併設されているものだ。