marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す。第一章(2)

<rear back>は「後退り」ではなく「後ろ脚で立つ」ことだ。 【訳文】 半時間がたち、煙草を三、四本吸い終わった頃、ミス・フロムセットの背後のドアが開き、二人の男が笑いながら後ろ向きに出てきた。三人目の男がドアを抑え、二人に調子を合わせていた。…

チャンドラー『湖中の女』を訳す 第一章(1)

【はじめに】 ずぶの素人がまるまる一冊、長篇小説を訳してみようと無謀な試みを思い立ったには訳がある。村上春樹氏がチャンドラーの長篇の新訳を出したことで、新訳について様々な意見が巻き起こった。旧訳でなじんできた読者に新訳が違和感を持って迎えら…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第41章(最終話)

<She turned>は「彼女は振り返った」 【訳文】 ヴェルマを見つけるのに三か月以上かかった。グレイルが彼女の行方を知らず、逃亡を助けてもいないということを警察は信じなかった。そこで、国中の警官とやり手の新聞記者は金のかかりそうな隠れ場所を八方…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第40章

「ホワイト・タイ」とあるからには、ここは「燕尾服」の出番だ。 【訳文】 「あなたは、ディナー・パーティーを開くべきだった」アン・リオーダンはタン色の模様のある絨毯越しに言った。「きらめく銀食器とクリスタル、糊の利いた真っ白なリネン――ディナー…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(4)

<the weak link in the chain>は「集団・計画の命取り」 【訳文】 彼女はバッグから金のシガレット・ケースを取り出した。私は彼女の傍に寄り、マッチの火をつけた。彼女は微かな一筋の煙を吐き、眼を細めてそれを見つめた。「隣に座って」彼女は突然言っ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(3)

「毛皮が渦を巻」く? <with a swirl of~>は「~をふわりとなびかせて」 【訳文】 「俺がジェシー・フロリアンを殺したと考えた理由は何だ?」彼は不意に尋ねた。「首に残っていた指の痕の開き具合だ。君は女から何かを聞き出そうとしていた。そして、そ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(2)

<squeeze out of>は「(情報・自白)などを(人から)強引に引き出す」 【訳文】 彼は横ざまにテーブルの方に動いて銃を置くとオーバーコートを引き剥がすように脱いで一番上等の安楽椅子に腰を下ろした。椅子は軋んだが、どうにか持ちこたえた。ゆっくりと…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(1)

<primed for ~>は「~の準備ができて(いる)」 【訳文】 ベイ・シティのグレイル家に電話を入れたのは十時頃だった。彼女を捕まえるには遅すぎるかと思ったが、そうでもなかった。メイドや執事相手に悪戦苦闘したあげく、やっと彼女の声を聞けた。快活な…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(4)

<The things I do>は「俺もずいぶん忙しい人間らしい」だろうか? 【訳文】 彼はしばらくじっと坐っていた。それから身を乗り出して机越しに銃を私の方に押してよこした。「俺がやっているのは」彼はまるでその場に独りでいるみたいに物思いにふけった。「…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(3)

<desk>が<table>に化けるわけ 【訳文】 ドアが開いて、もう一人が帰ってきた。メス・ジャケット姿のギャングっぽい口をきくあの男が一緒だった。私の顔を一目見たとたん、男の顔は牡蠣のように白くなった。「こいつは通していません」彼は唇の端を捲りあ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(2)

<director's chair>をわざわざ「重役用の椅子」と訳すのは変だ。 【訳文】 我々は一列縦隊で甲板を横切った。頑丈な滑りやすい階段を降りた。降りたところに厚いドアがあった。彼はドアを開け、錠を調べた。彼は微笑し、頷いて、私を通すためにドアを支え…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(1)

<chew out>は「厳しく叱りつける」という意味 【訳文】 冷たい空気が換気口から勢いよく流れ込んできた。天辺までは遠いようだった。一時間にも思える三分間が過ぎ、喇叭のように開いた口からおそるおそる頭を突き出した。近くの帆布を張った救命ボートが…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第37章(2)

<Sometimes a guy has to>は「男はつらいよ」 【訳文】 彼は奇妙な表情を浮かべながら目を背けたが、そこの光では読み取れなかった。私は彼の後について、箱や樽の間を抜け、ドアについた高い鉄の敷居を乗り越え、船の臭いのする長く薄暗い通路へと入って…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第37章(1)

<to make a splash>は「水しぶきを上げる」ではなく「大評判をとる」 【訳文】 回転するサーチライトは 霧を纏った青白い指で、船の百フィートかそこら先の波をかろうじて掠めていた。体裁だけのことだろう。とりわけ宵の口のこの時刻とあっては。賭博船の…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第36章(2)

<get done with>は「(仕事などを)片付ける」という意味。 【訳文】 「連中の思惑は分かる」レッドは言った。「警官の問題は、頭が足りないとか、腐りきってるとか、荒っぽいとか、そんなことじゃない。警官になれば今まで手にしたことがない何かが手に入…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第36章(1)

波に、親しい波と「よそよそしい波」があるものだろうか? 【訳文】 街灯の列が遠ざかり、小さな遊覧車の立てる音や警笛が遠くなり、揚げ油とポップコーンの匂いが消え、子どもの甲高い声と覗きショーの呼び声も聞こえなくなると、その先には海の匂い、突然…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第35章(3)

<One way?>と尋ねたのは、レッドか、マーロウか? 【訳文】 微かな微笑みは顔に留まっていた。立て続けに三回ビンゴが出た。この店のサクラは仕事が速かった。男は背が高く、鷲鼻で土気色の頬はこけ、皺の寄ったスーツを着ていた。私たちのそばに歩み寄り、…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第35章(2)

<I wouldn't be surprised>が「楽しそうだ」になるのが村上流。 【訳文】 いかつい赤毛の大男が、凭れていた手すりから身を起こし、無雑作に体をぶつけてきた。汚れたスニーカーに、タールまみれのズボン、破れた青い船員用ジャージの残骸に身を包み、頬に…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第35章(1)

<gangster mouth>だが、「やくざっぽい口元」とはどういうものか? 【訳文】 《二十五セントにしては長い航海だった。古いランチを塗り直し、全長の四分の三にガラスを張った水上タクシーは、碇を下ろしたヨットの間を通り抜け、防波堤の端に広く積み上げた…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第34章(2)

<Play the hunch>は「直感で行動する」の意味だ。さてどう訳す? 【訳文】 《私がその男を見つけたのは白いバーベキュー・スタンドだった。長いフォークでウィンナーを突っついていた。まだ春先だというのに彼の商売は繁盛しているようだ。彼の手が空くま…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第34章(1)

<disappear into~>は「~の中に紛れ込む」。姿を消すことだ。 【訳文】 《海沿いのホテルのベッドに仰向けに寝ころび、暗くなるのを待った。海に面した小さな部屋でベッドは硬く、マットレスはそれを覆っている木綿の毛布より少しだけ厚かった。スプリン…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第33章(3)

<out on the water>が「海に浮かんだ」? 船が海に浮いていないでどうする 【訳文】 《「あいつはマリファナ煙草をさばいてるとばっかり思ってた」彼は忌々しそうに言った。「それなりの後ろ盾を得てな。しかしあんなのは三下の小遣い稼ぎだ。何程にもなら…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第33章(2)

<I was just telling you>は「だから言ったじゃないか」 【訳文】 《ヘミングウェイはハンドルから手を放し、窓から唾を吐いた。「なかなか素敵な通りだと思わないか? 快適な家、きれいな庭、住みよい気候。あんたも悪徳警官についていろんなことを聞いて…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第33章(1)

<chew ~ over>は「~についてじっくり考える」 【訳文】 《車はひっそりとした住宅街に沿って静かに走っていった。両側からアーチ状に枝を伸ばした胡椒木が頭上で出会い、緑のトンネルを作っていた。高い枝と細く薄い葉を透いて陽の光がきらきら光った。…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第32章(3)

<drink to ~>は「互いに見つめ合う」のではなく「~に乾杯する」 【訳文】 《彼は酒を飲みながら思い煩っているように見えた。ぐずぐずと、何やら考え深げにカルダモンの鞘を割った。我々はたがいの青い瞳に乾杯した。残念なことに、署長はボトルとグラス…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第32章(2)

<pay my own way>は「自活する」という意味 【訳文】 《ワックス署長は机の上でとても静かに手を叩いた。眼はほとんど閉じていたが、完全に閉じてはいなかった。厚いまぶたの間から、冷たい眼光が私を見据えて輝きを放っていた。彼は身じろぎもせずじっと…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第32章(1)

< hull down>は「マスト上部だけを水平線から出して偵察する」戦術 【訳文】 《繁栄している街の割には安っぽい見かけの建物だった。聖書地帯(バイブル・ベルト)から抜け出してきたかのようだ。正面の芝生―今では大半が行儀芝だ―が通りに落ちないように…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第31章(2)

<out of one's hands>は「自分の管轄外で」 【訳文】 《彼は机越しにゆっくりと身を乗り出した。落ち着きのない細い指がトントンと机を叩いていた。ミセス・ジェシー・フロリアンの家の玄関の壁を叩いていたポインセチアのように。柔らかな銀髪はつやつや…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第31章(1)

<so much for>は「~はそんなところ」という意味。 【訳文】 《ピンクの頭とピンクの斑点を持つ艶のある黒い虫がよく磨かれたランドールの机の上をゆっくりと這い回り、まるで離陸のための風をテストするかのように、一対の触手を振り回した。持ちきれない…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第30章(3)

「隙間」などでなくドアは<it stayed open>の状態なのだ。 【訳文】 《彼は裏口のステップを二段上り、ドアの隙間に器用にナイフの刃を差し込み、フックを持ち上げた。それでポーチの網戸の中に入れた。そこは空き缶だらけで、いくつかの缶には蠅がいっぱ…