marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

今日、ダイニング・セットを新調した。

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妻が、友人を夕食に招待したとき、年代物の食堂の椅子が気になった。革張りのそれは、お気に入りの一品だったが、なにしろ、古びてきていた。特に、頭のあたる部分は、ニケが乗っかって来ては爪をとぐものだから、バリバリに毛羽立っていた。

 

気のおけない友人には、ニケの話をする材料になっていいのだが、ニケを知らない人には、何とみすぼらしい椅子だこと、と思われるにちがいない。思い出がいっぱい詰まっている椅子のことゆえ、手放したくはなかったが、そろそろ買い替えの時期が来ていたのだろう。近くの店に出かけたとき、よく似た革張りの椅子がセットになったダイニング・セットが目についた。

 

優柔不断な自分にしてはめずらしく即決で購入を決めた。展示品に限り一割引きというのも背中を推したかもしれない。セール中は展示しておく必要があったので、月がかわってやっと今日配達されて来たというわけである。運送業者の車の車高が高くて、駐車場の屋根の下に入らなかったが、空きスペースで梱包を解き、古いダイニング・セットは引きとってもらうことにした。

 

使い慣れた 家具を手放すのは、けっこうさみしいものだ。特に、ニケの爪とぎの痕が残る椅子の方はなおさらに。妻は数日前から写真のニケに向かって、古い食堂セットが新しいものに代わることを話していた。おそらく処分されることになるだろう古いテーブルと椅子だが、お世話になった感謝の気持ちをこめて、たまったほこりを取り、きれいに水ぶきをして送り出した。

 

以前に比べると、テーブルの幅が狭くなり、高さが高くなった。まだ少し慣れないが、そのうち気にならなくなるだろう。キャスターがついて、回転できるようになったのがありがたい。これまでの椅子は、頑丈なのはいいのだが、引くときに力がいるので、腕やら肩やらが痛むときには、つらかったからだ。食卓でPCを使う妻には、ヘッドレストの位置が高いのも使い勝手がよさそうだ。さっそくゲームを始めたところを後ろから撮ってみた。

 

『夜の姉妹団』柴田元幸編訳

夜の姉妹団―とびきりの現代英米小説14篇
少し前の本だが、図書館の新着図書のなかにジョン・クロウリーの『古代の遺物』があるのを見つけ、検索をかけたら、表題作の短篇が収まった柴田元幸訳編による、この一冊が引っかかってきた。スティーヴン・ミルハウザースチュアート・ダイベックはじめ、12人の作家による、英米小説14編が入った短篇集である。1995年から96年にかけ、雑誌「エスクァイア 日本版」に連載した作品を集めたもの。雑誌掲載の縛りは四百字換算で四十五枚までというだけで、あとは訳者の好きなものを選べばいいというので、訳者好みのアンソロジーができあがった。

もうずいぶん前のことになるが、「奇妙な味」というネーミングで括られた作家たちがいた。柴田氏の見つけてくる作家や作品には、それらに通ずる味わいを持つものが少なくない気がする。荒唐無稽というのではない、ちょっと目には辻褄はあっているのだけれど、よくよく見てみると、やっぱりおかしい、そんな作風を持つ作家や作品がお好きなようだ。もちろん、目利きとして知られる柴田氏のお眼鏡に適うのだから、文章が達者でなければならないことは言うまでもない。つまり、どの作品も読ませる、ということだ。

スティーヴン・ミルハウザースチュアート・ダイベックといえば、柴田氏とは切っても切れない作家だから、今更言うまでもないし、ジョン・クロウリーについては、別の作品で詳しく紹介しているので今回ははぶく。どれも、いいのだが、短いものでは、球史に残る名試合に名立たる詩人、音楽家、画家、批評家を立ち合わせるという奇跡を成し遂げたドナルド・バーセルミの「アート・オブ・ベースボール」は奇観である。T・S・エリオット、ジャンゴ・ラインハルト、デ・クーニング、スーザン・ソンタグらが野球選手になって登場するというだけでも奇想だが、『荒地』の詩句を野球に読み替えるなどという神業は誰も思いつかないにちがいない。

ロシア系ユダヤ人で母語はロシア語だが、小説は英語で書くというミハイル・ヨッセルの「境界線の向こう側」は、アメリカとロシアに暮らす、よく似た境遇の二人のユダヤ系青年が、ソヴィエト時代のロシアで出会うところから始まる。「向こう側」からこちらを見るという視点の設定が秀逸で、曰く言いがたいペーソスが漂う佳篇である。

絵本『フランシス』シリーズで知られるラッセル・ホーバンの「匕首の男」は、ボルヘスの短篇「南部」の続きを描いた物。ボルヘスにインスパイアされた世界をモノクローム映画に置き換え、白と黒の強烈なコントラストを効かせて、夢幻的なブエノス・アイレスを舞台に再現して見せる。ホーバンって、こんな小説を書くのか、と驚かされた。

しかし、いちばん気に入ったのは、最後に置かれたウィル・セルフ作「北ロンドン死者の書」だ。訳者の評を借りれば「趣味のよい悪趣味ともいうべきキッチュなブラックユーモア精神を展開して、明るいんだか暗いんだかよくわからない話を書く」、このセルフの面白さは半端ではない。歳をとったせいか、死後の世界について書かれた本がやたら気になるこのごろだが、これも所謂「死後の生」を主題にしている。

同居の母を癌で亡くした「私」は、一時は鬱に沈み、その後は夢で母を見るようになる。それもようやく癒えたかと思ったある日、友達の家を訪ねてクラウチ・エンドを歩いていた「私」は、通りでばったり母に出くわす。このクラウチ・エンドという地区が東京で言えば足立区か板橋区という感じだそうだが、その辺の土地勘が地方の者にはわかりにくい。とにかく、生前の母なら行きそうにないところらしい。死者と出会うのに土地などどうでもいいと思うのだが、そこが気になる、この母と子が変。とにかく、死んだら人間はどうなるのか、という根源的な問いの答えとして、作者が導き出した、この解答は「最高!」の一語に尽きる。自分がいよいよ死にそうな時がきたら、「北ロンドン死者の書」を枕元で朗読してもらいたいと思うほどだ。短篇ながら、母と子の独特の関係の濃さも心に残る。巻末に邦訳のリストがついているのも親切。古本屋や図書館でぜひ捜し当てては読んでみたいと思わせる作家、作品が、まだこんなにあったか、とうれしくなる。