marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

第30章

【マーロウは翌朝早くに眼を覚ます。コーヒーを持ってきたキャンディーに皮肉を言われるが、昨日と打って変わって、からきし意気地がない。悪口への返答代わりに平手打を食らわすのがせいぜいだ。アイリーンはといえば、こちらも昨夜の出来事などまるっきり覚えていない様子。上流階級の生態にすっかり嫌気が差したマーロウは早々にウェイドの家を後にするのだった。】
気になることがひとつ。騒動のもとになったウェブリーという拳銃についてだ。
“ I took it out and swung the cylinder away from the frame and tipped the cartridges into my hand, five full, one just a blackened shell. ”
清水訳「私は拳銃をポケットから出して、弾倉をはずし、薬包を手のなかにあけた。撃たれていないのが五個と黒くなった薬莢だけのが一個。」
村上訳「私は拳銃を手に取り、シリンダーを銃身から振り出し、カートリッジを手の中にこぼした。五発そっくり装填され、そのうちの一発は黒ずんだ薬莢だけになっていた。」
実は、ハンマーレスではないが、たまたまウェブリーのモデルガンを持っていて、この拳銃に関してだけはちょっと詳しいのだが、ウェブリーの特徴は、なんと言っても中折れ式だということ。つまり、銃の弾倉の下部がヒンジになっていて、手もとのレバーを引くと、そこのところを蝶番にして二つに折れるのが、ウェブリーという拳銃なのだ。つまり、よくあるタイプの拳銃のように左右に振ってカートリッジを出したり、弾倉を外したりはできない形式なのだ。弾倉は銃身の部分にくっついているから、銃身を持つなり、斜めに傾けるなりして、手の中に薬莢を取り出したはずである。そういう意味では、どちらの訳もウェブリーをよく知らないで訳したように思われる。それと、弾は六発入るはずだから、「五発はそのままで、一発だけ黒ずんだ薬莢だけ」になっていたはずだ。
夫人と同じ部屋にいたところを目撃したキャンディーは早速マーロウを強請りにかかる。それに対してマーロウのいう台詞が、ちょっとひねってある。
“ You understand all right.How much you shake him for? I bet it’s not more than a couple of yards.”
“ What’s that? Couple of yards.”
“ Two hundred bucks.”
清水訳「わかってるさ。彼からいくらゆするんだ。二百ドル以上じゃあるまい。」
村上訳「とぼけるなよ。どれくらいご主人からむしりとっているんだ?見たところ二百ヤードまでは行っていないはずだが」「二百ヤード?」「二百ドルのことだよ」
業界用語とでも言うのだろうか。金額をストレートに口に出すことを避けて長さの単位で表している。メキシコ人のキャンディーは、そうした隠語にまだなれていなかったのだろう。インチ換算(1ヤードは約0.9m)で“ a couple of yards ”は、二百メートル=二百ドルという計算になる。こういうわずらわしい説明を極力避けるのが清水流だ。
アイリーンとのことで、すっかり調子の狂ってしまったマーロウだが、キャンディーの言いたい放題にはしておかない。スペイン語の悪態を英訳して、文句を言うところ。
“ I don’t get called a son of whore by the help, greaseball.”
清水訳「召使に妙な口をきかれる覚えはない。」
村上訳「メキシコ人の召使い風情に、娼婦の息子と呼ばれるいわれはない。」
“ greaseball ”がメキシコ人に対する蔑称になっている。清水訳はもう一回でてくるこの蔑称を訳していない。油で後ろに撫で付けられた黒髪がメキシコ人の一般的なイメージなのだろう。日本人なら眼鏡と出っ歯という人種差別につながりかねない記述は残念ながらチャンドラーに散見する。
アイリーンに別れを告げる際のマーロウの台詞。
“There is something very wrong in this house. And only part of it came out of a bottle.”
清水訳「この邸には大へん尋常じゃないものがありますよ。そして、酒が原因になっているのはそのほんの一部なんです。」
村上訳「この家には何か正しくないところがある。でもまだほんの一端しか瓶の口から姿を見せていない。」
ウェイドに関する限り、一見すれば酒が原因のように見えるが、マーロウにはそれがすべてではないように思える。どちらの訳も、それを匂わせているが、村上訳が原文に忠実。
昨夜の出来事を忘れているように見えるアイリーンだが、マーロウの眼には次のように映る。清水氏は訳していないところだが。
“She still looked like a golden dream. ”
村上訳「彼女は今でもまだ、輝かしい夢のように見えた。」
何故私を選んだのか、というマーロウの問いに、アイリーンが答えて曰く。
“You kept faith,”
清水訳「あなたは約束を守ってくださったわ」
村上訳「あなたは説を曲げなかった。」
清水訳だと、アイリーンに対する約束を守ったように取れる。村上訳だと警察に訊かれてもテリーのことを話さなかった、と取れる。文脈から見て後者ととるのが自然ではないか。
最後の一文。
“ But all a man named Marlowe wanted from it was out. And fast.”
清水訳「しかし、マーロウという名の男がそこに求めていたものはすべて空しくなった。しかも急に空しくなった。」
村上訳「しかし、マーロウという名前を持つ男が望むのはただひとつ、そこから退散することだけだった。それも早急に。」
アイドル・ヴァレイが如何に快適な場所であるかを書き連ねた後に添えられた締めくくりの文である。気候も、そこに住む人々も如何に好ましかったとしても、マーロウは、一刻も早くここを立ち去りたかった。その場所に長くいることで自分が汚れてしまうように感じられたからだ。非情に簡単な文だが、訳者の解釈ひとつで、このように異なる訳となる。村上訳が順当と思うものの、清水訳のセンチメントも捨てがたいものがある。