marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『石蹴り遊び』フリオ・コルタサル

石蹴り遊び〈上〉 (集英社文庫)
幻想的な短編小説の名手フリオ・コルタサルの筆になる、あまりにも有名な長篇小説。何がそんなに有名なのかは後で説明するとして、まずはざっとあらすじを述べる。主人公は、作家自身をいやでも思い浮かべてしまうブエノスアイレス出身で、パリでボヘミアンを気取って暮らす青年オラシオ・オリベイラ。同じような境遇の若者たちと「クラブ」と称するグループをつくり、夜な夜な誰かの部屋に集まっては、ジャズのレコードをかけては酒を飲み、一晩中形而上学的な話題や美術論や文学論をたたかわす毎日。オリベイラにはウルグァイから子連れでパリに出てきたラ・マーガという恋人がいる。はっきりした待ち合わせ場所を決めず、街角での偶然の出会いを求めてパリの街を彷徨する遊戯めいたデートを繰り返す二人だったが、赤ん坊の死を契機に破局。ラ・マーガは行方知れずとなる。これが第一部。

第二部の舞台はブエノスアイレス。ラ・マーガを探してウルグァイに渡ったオリベイラは失意のうちにブエノスアイレスに帰郷。サーカス団に勤めていた旧友のトラベラーと、その妻タリタを頼る。三人はサーカス団を手放した団長の経営する精神病院で働く。オリベイラは、中庭で石蹴り遊びに興じるタリタの姿にラ・マーガを重ね、精神的に追い詰められていく。

こう書けば青春の彷徨を描いた普通のリアリズム小説のようだが、実はこれ、作者が指定したひとつの読み方に従って読んだ「第一の書物」のあらすじに過ぎない。三部151章で構成されている本書の巻頭には「指定表」なるものが記されてあり、「二通りの可能な読み方のうち、いずれか一方を選択していただきたい」とある。「第一の書物は、普通の方法に従って読まれ、第56章で終わる」。「第二の書物は、第73章から始まって、以下、各章末に指定されている順序に従って読まれる」とあり、73‐1‐2‐118‐(略)‐131‐51‐131‐と読んでゆく順番が指定されているのだ。そして、第一の書物を選択した読者は第57章「以後の続編を何の未練もなく放り出してもかまわない」とまで書かれている。しかし、そうは言っても、約三分の一残る続編を読まずに済ますことのできる読者がどれだけいるだろう。結局第二の書物を読まされることになる訳だが、すでに読んであるはずの第一部、第二部の各章が、指定された順に読まれることで、全く別の相貌を帯びてくることに驚かされる。まるで魔法にかかったみたいなものだ。

普通、小説の中で詳しく説明されることのない人物や出来事は特に深く知る必要のないものと勝手に判断して読み飛ばす。そうしたところで、さしたる不都合のないことを知っているからだ。ところが、第二の書物を読むことで、読み飛ばしていた挿話が登場人物の意思決定に深くかかわる要因であったことが明らかになる。今まで読んでいた物語はいったい何だったのか、という疑問がわいてくる仕掛けだ。映画に喩えれば、ストーリーに関与していると思っていた人物や事物が途中から完全に消えてしまうことが多々ある。その部分がカットされても物語の大筋は大きな影響を受けないと判断され、編集段階でカットされてしまったからだ。プロデューサーによる編集が承服できず、ディレクターズカット版と銘打って別バージョンを販売する監督がいて、同タイトルでありながら、全く別の作品になっている映画も一つや二つではない。

『石蹴り遊び』は、オリジナルと、ディレクターズカット版の二つをカップリングしてセット販売したDVDのような小説といえるかも知れない。今だからこそ、映画の比喩が成立するが、発表当時そんな発想はどこにも存在しない。いかに斬新なアイデアだったことか。

しかし、単なるアイデアとばかり言い切れない。この「決定しない」というスタイルこそが、主人公の生き方の反映であるからだ。オリベイラは、論理的整合性や弁証法ヒューマニズムといった自明と思われている根拠を疑う。行動を呼びかけるもとになっている思考の拠って立つところをあえて疑い続けるところなど、実存主義の時代に過って迷い込んだ構造主義者そのものではないか。安易なヒューマニズムによる行動の前に、事態を分析、究明することを優先させる弁舌の人オリベイラはしかし、周囲から無責任で非人情な薄志弱行の人物とみなされ「審問官」という蔑称さえ賜ってクラブを除名されてしまう。優しい心の持ち主でありながら自己の指針に忠実たらんとして誤解を受け傷ついてしまう青年の魂の彷徨を描いて秀逸、と書いて終わりたいところだが、そうもいかない。

読み捨ててもいい続編の中にモレリという作家の創作ノートが多量に含まれている。どうやら、夜毎のクラブの議論の根底にあるのがモレリの書いた小説らしいことが分かってくる。それかあらぬか、モレリその人と思われる老人さえ登場してくるに至っては、セルバンテスの『ドン・キホーテ』に範をとったメタ小説と読めるのだ。

木村榮一は『石蹴り遊び』を評して「ボルヘスとは位相を異にする作者の該博な知識にも魅了され」たと書いているが、ピンチョンならロックやポップミュージック、ジョイスならオペラの歌曲でやるところをジャズの名曲をバックに流し、ユングや禅、オカルティズム、シュルレアリスムといった時代を象徴する主義主張の引用、解説、ドストエフスキーはじめ多くの文学者の名前の列挙と、ペダンティックな博引傍証の連続の合間に挿まれる難解な形而上学談義は好みの分かれるところだろう。

ただ、行きつ戻りつを繰り返し、あまりに短い断章と断章の間に挿まれた栞のせいで既読と未読の章をとりちがえ、すでに読んだ章に導かれては、また改めて未読の章に戻るという迷宮の彷徨にも似た読書体験は快い酩酊状態を誘い、いつのまにか石蹴り遊びの石にでもなったかのように、作品世界の中を逍遥し続けているうちに、読書というのではない、本の中に迷い込むような思いに囚われていることに気づいた。

「第二の書物」を読むためには、二分冊の文庫版は不便で単行本を探して読むのが良いのだが、古い訳のせいで事物や人名を表す固有名詞の表記が現今のそれとは多く異なっていて、分かりづらい。また、明らかに誤訳と思える箇所も散見するので、新訳もしくは改訳があれば参照されたい。ただ、本書はラテン・アメリカ文学にとどまらず、20世紀を代表する小説である。木村榮一氏あたりの新訳による単行本の刊行を期待したいところだ。