marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

第41章

金曜日の朝、スペンサーからホテルのバーで会いたいと電話があったが、部屋で会うことにした。込み入った話になりそうだった。マーロウは、スペンサーに同道してウェイド邸を訪れ夫人に会いたいと告げた。渋るスペンサーに、マーロウは、警察が夫人を疑っていることを仄めかす。驚いたスペンサーは、「君の頭がどうかしていることを神に祈ろう」とつぶやく。
スペンサーは第13章にも登場するリッツ・ビヴァリーのスイートに泊まっていた。清水氏はあっさり、「家具も絨毯も古風なもので」で済ませているが、村上版では「家具はキャンディー・ストライプ柄の生地を張られ、そこにたっぷりした花柄のカーペットが加わると。古風な雰囲気が醸し出された」と詳しい。それよりも時代を感じるのは、グラスの置けそうなところにはガラス板が敷かれ、あらゆるところに19個もの灰皿が置かれているという記述の方だ。今の時代、愛煙家にそんなに気を使ってくれるホテルはあるまい。ホテルの部屋というのは、泊り客のマナーの程度を示している。ホテル側の心配のし具合から見るに、客のマナーはかなり悪そうだ。“ The Ritz-Beverly wasn’t expecting them to have any. ” を清水氏は、「リッツ・ビヴァリーに泊まる客はあまり行儀がよろしくないらしい」と意訳する。村上訳は原文に即して「リッツ・ベヴァリーはそんなものははな(二字傍点)から期待していないようだ」と訳している。
何か飲むかと聞かれて、マーロウは “ anything or nothing ” と答えている。あまり飲みたい気分でもないようだ。スペンサーが選んだのはアモンティリャード。ポオの短篇にも登場するシェリー酒だ。
“ In New York you can handle four times as much for one half the hangover. ”
清水訳「ニュー・ヨークだと四倍は飲めますよ」
村上訳「ニュー・ヨークではここの四倍の量の酒が飲めるし、それでいて二日酔は半分ですむ」
清水氏、二日酔のところを訳していない。「ニュー・ヨークでは半分の宿酔で、四倍の酒量が飲める」というところが面白いのに。
かと思うと、“ He cleared his throat. ” のような常套句を「彼は後につづく言葉を一度のどでつまらせた」のように訳してみたりする。村上氏はこういうところは「彼は咳払いをした」ですませているのに。言い難いことを言おうとしている場面だから、咳払いしたのはおそらく清水訳の通りだったのだろう。清水氏が意訳を多用するのは翻訳文を短くしようとしてのことではない。より場面の情景を分かりやすくしたい、という思いがあるようだ。
酒を運んできたウェイターにスペンサーがチップを渡す。“ four bits ” は、いくらなのか。清水訳では「二十五セント銀貨を四枚あたえた」。村上訳は「チップに五十セントを渡した」だ。清水氏はビットを硬貨一枚と考え、二十五セント銀貨(クオーター)を四枚、つまり1ドルを渡したと考えたようだ。しかし、ビットは占領時代に使われたスペイン・ドルに由来し、8枚で1ドルに換算する。つまり、1ビットは12.5セントで4ビットは村上訳のように50セントになる。チップにじゃらじゃらした小銭を何枚も渡すのはいかにも野暮だ。ここは、ハーフ・ダラー一枚と考えたい。
「彼女は警官に向かって、私が彼を殺したと言ったのですよ」というマーロウに、スペンサーは「字義通りの意味で言ったはずはない。さもなければ――」と、言いかけたところでウェイターが来たので、会話は中断していた。ウェイターが去ったあと、マーロウが「さもなければ、何なんですか?」と促す。
“ Otherwise she would have said something to the coroner. wouldn’t she ? ”
清水訳「そうでなければ、検屍官に何か言ったはずはないでしょう」
村上訳「さもなければ彼女は、検死官に向かっても同じことを言っていたはずだ。そうじゃないか?」
字義通りの意味で言ったのなら、アイリーンは検死官に、どう言うだろうか。当然、マーロウが殺したと言うにちがいない。清水氏の訳では意味が通じない。付加疑問の文を無理につづめたのがまちがいだ。清水調で訳すなら、「そうでなければ、検屍官に何か言ったはずです。そうじゃないですか」とするのが正しい。
スペンサーが出版しようとしているウェイドの遺稿について、マーロウが“― if it can be used. ” (もしそれが使いものになればだが)と、懐疑的に論じているところを清水氏は訳していない。なかなかいっしょに行こうと言い出さない相手に業を煮やして、マーロウが挑発しようと思って発した台詞だ。スペンサーを翻意させるためにも、ここは嫌味に聞こえたほうがいいのではないか。
捨てゼリフが功を奏したのか、スペンサーは、やっとマーロウの話を聞く気になった。
“ I don’t know what’s on your mind but you seem to take it hard. ”
清水訳「何を考えているのか知らないが、あなたの態度は納得がゆかない」
村上訳「君が何を目論んでいるのか私には分からん。しかし君は一歩も引かないつもりのようだ」
but以下の訳が異なる。“ take it hard ” は、「深刻に悩む(受け止める)」の意味だから、村上氏の訳でもいいが、「どうやら君は事態を深刻に受け止めているようだが、私には君の考えていることがよく分からん」と後ろから訳したほうが、次の「ロジャー・ウェイドの死について、何か不審な点でもあるのかね?」にうまくつながると思う。
二人は事件について最初からおさらいをする。 “ The servants were away, Candy and the cook ”のところが微妙にちがっている。清水氏は「召使はいなかった。キャンディもコックもいなかった」と訳している。これでは、二人のほかに別に召使がいたように読める。これまでのところ、キャンディーとコック以外の使用人については言及されていない。村上訳は「使用人は二人とも休みをとって外出していた。キャンディーと料理人だ」と、原文にない言葉を添えて使用人は二人だけであることをはっきりさせている。死亡時刻に誰が現場にいたかという探偵小説ではすこぶる重要な供述である。慎重に訳したいところだ。
マーロウがオールズを評して曰く、“ He’s a bulldog and bloodhound and an old cop. ” 清水氏 はあっさり「猟犬のように勘の鋭い老練な刑事です」。村上氏は例によって「ブルドッグのようにしつこく、猟犬のように鼻のきくしたたかな古参警官です」と言葉を尽くしている。原文のシンプルさは失われてしまうが、邦訳ではこうするしかないのだろう。
スペンサーがオールズのアイリーン犯人説に驚いてうめくように言う言葉。
“are you telling me the damn fool cop suspects Eileen? ”
清水訳「その警官はアイリーンを疑ってるのですか」
村上訳「その警官はアイリーンを疑っているのか」
と、珍しく二人の訳がほぼ一致している。愛しのアイリーンを疑う警官は最大級の罵り言葉を重ねても飽き足らないくらいの気持ちなんだろうに。「いまいましい馬鹿」。二人の訳者はきっと、あのバーニー・オールズにこんな汚い言葉は使いたくなかったのだろう。