marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『モンフォーコンの鼠』鹿島茂

モンフォーコンの鼠
オノレ・ド・バルザックといえば、一作品の登場人物を他の作品でも使い回す「人物再登場法」を駆使し、総体として『人間喜劇』という一大世界を創りあげた19世紀パリを代表する大文豪だが、そのバルザック本人や関係者、さらには作中人物や友人ヴィクトル・ユゴー作『レ・ミゼラブル』の登場人物等々に、同時代人である空想的社会主義フーリエやサン・シモン主義信奉者をからませた19世紀パリを舞台にした長篇娯楽大作。

パリは石造りの堅牢な建物でできた大都市である。同じ大都市でもロンドンに赤煉瓦の建築が多いのは、パリのように地下から石を掘り出すことができなかったからだ、と聞いたことがある。あれほどの石造建築が可能となるには、どれほどの石を掘り出す必要があったことか。そう考えれば、パリの地下に採石場跡や坑道が黒々と穴を開けている様子が想像できるにちがいない。

いまひとつ思い出してほしいのは19世紀という時代。今とちがってどこに行くにも馬車を使うので、病気や事故で死んだ馬の処理場が、パリ市外モンフォーコンの地に設けられていた。そこでは廃馬の処理から出た血溜りの池のほかに、パリ市民から出た屎尿処理用の溜池が併設され、猛烈な悪臭が周囲に漂っていたばかりでなく、屍肉を狙う鼠が繁殖してもいた。この悪化するばかりの環境を何とかしようと苦闘していたのが公衆衛生学者パラン・デュ・シャトレ、実在の人物である。馬肉密売業者を追って当地を訪れたのが、新任警視総監アンリ・ジスケ。この二人が探偵役となり、七月王政下のパリに暗躍する陰謀を暴く、というのが大筋である。

狂言回し役を務めるのが人気作家で大の女好きであるバルザック。彼のところにカストリ侯爵夫人から手紙が届く。夫人は取り巻きの紳士貴顕を操って、革命的とも思える社会改革を画策していた。一方、サン・シモン教会と、その対抗馬であるフーリエ主義者もまた独自に自分たちの考える社会の実践の場を模索していた。それらが三つ巴のように絡まりあう中に、モンフォーコンの廃場処理業者の妻で日本人のキクが投げ入れられることで、サフィエンヌ的陰謀という副主題が浮かび上がる。

バルザックの若書きの小説とされる『デヴォラン組』という偽書を捏造し、古書店ゾッキ本の棚に紛れ込ませ、その中に登場する人物本人の目に触れさせることで、本の筋書きがまるで「予言」ででもあったかのように成就させるという悪魔のような試みに、逆らいながらも巻きこまれてゆく、バルザック社交界の寵児アンリ・ド・マルセー。

自分が書いたこともない三巻本の小説に付された四巻目の梗概にしたがって、小説を書き進めるバルザックの姿と、小説中の事件の渦中にある登場人物がカット・バックの手法で目まぐるしく入れ替わり立ち替わり立ち現われる。作家と、作家が創造した人物とがともに同じレベルで出会うという、メタ小説的展開なのだが、作者の意図は、案外にポスト・モダンな小説なぞを書くところになく、ポオに始まる探偵小説やジュール・ヴェルヌらの黎明期SFの世界に自ら遊ぶというあたりにあるのではないか。克明な地下世界の描写が江戸川乱歩の描くジオラマ風であるのも愉しい。

19世紀パリに対する百科全書的な知識を総動員して書き上げたバルザックユゴーばりの長篇は、仕掛けの面白さはともかく、頭をひねる難解さからはほど遠く、久生十蘭小栗虫太郎の小説世界に遊ぶような懐かしさに溢れている。おしむらくは、人間の描き方が平板で個性に乏しい。ユゴーの創造によるジャヴェール警部に勝るようなキャラクターがあと何人かほしいところ。画一的な人物像に躓いたか、483ページで給水装置のハンドルを回すジャヴェールの名が四箇所ほどジスケと入れ替わってしまっている。このとき、ジスケは別の場所にいるので、単なるまちがいである。連載中の誤りなら単行本化した時点でなおせるはず。編集者の手は入らなかったのか。思案に苦しむところだ。理屈抜きで楽しむにはもってこいの娯楽作といえよう。ただ、バルザックユゴーの小説好きには、疎遠な読者には分からぬ愉しみが隠されている予感もする。素人が何をいうかと思われるむきには予めお詫びしておきたい。