marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『かつては岸』ポール・ユーン

かつては岸 (エクス・リブリス)
八篇の短篇を収める短篇集。全篇の舞台となるのが、韓国有数のリゾート地済州島を思わせる「ソラ」という名の島。時代は、日本の支配下にあった第二次世界大戦当時から、観光業で栄える現在に至る期間を扱っている。

著者は韓国系アメリカ人。1980年、ニュー・ヨーク生まれというから、戦争当時済州島であったことは、話に聞くか資料で調べたのだろう。冒頭に置かれた表題作「かつては岸」は、2001年にハワイ、オアフ島沖で起きた「えひめ丸」の事故を脇筋に、次の一篇では1947年春、竹島(独島)であろうと想像できる無人島で操業中の韓国漁船を米軍機が訓練中に誤爆した事故を主たる題材にとるなど、多くの主要な登場人物の人生に戦争(訓練も含む)が影を落としている。

この若さで、あの時代の戦争を自分の小説の重要なモチーフにすることに、戦後生まれの読者としては意外な感を覚えるのだが、支配、被支配の関係から言えば、支配されたほうが記憶にとどめているのは当然のことで、第二次世界大戦で破れた日本軍が去ったと思ったら、朝鮮戦争が勃発し、今度は米軍が侵攻してきた韓国にあっては、戦争当時のことは、済んだ話として済ませるわけにはいかないのだろう。とはいえ、作者は韓国系ではあっても、アメリカ人である。露骨な日本批判や反米思想が声高に語られるということはない。訳者もあとがきで触れているように、全篇にたゆたっているのは「揺るぎない静謐さに満ちた世界」である。

どこへ行くにも一時間という、本土とは隔絶した小さな島が舞台。島という限られた場を舞台に決めることで登場人物は限られ、人の出入りも少ない。全篇に古いモノクロームの映画を見ているような静かな時間が流れている。「作者による註」にアリステア・マクラウドの名が挙げられているが、カナダ、ノヴァスコシア州を舞台に、独自の世界を描き上げるマクラウドの小説にも通じる、孤独で、寡黙ながら日々の楽ではない暮らしを篤実に生きる人々の間に生じる心の交流と、酷薄とすら思えるすれちがいを、感情を露わにすることを抑制したストイックな文体で書きとめてゆく。

作者は過去と現在という二つの時間を操ることで、忘れていた事実の思いがけない想起や、日々の仕事に忙殺され見過ごしてきた互いの間に広がる溝の深さへの突然の気づき、といった、ある意味些末とも言える「事件」を梃子として、静かに見えた日常に皹を入らせ、葛藤を生じさせる。その手際は若さに似合わぬ老練なテクニシャンぶりを見せる。特に、基調となっているのは時間の経過による「喪失」という主題である。

時代を第二次世界大戦朝鮮戦争の頃に採ることで、戦中戦後の混乱による戦災孤児、戦病者、脱走兵といった過酷な運命に翻弄される人物を主人公、或は準主人公とすることが可能となり、短篇小説という限られた枚数の枠のなかに劇的な緊張を持ち込むことができる。しかも、直接に戦争を描くのでなく、幼少であったり、老齢であったりすることで、戦争という暴力的な力によって心ならずも自分の人生を歪められ、自分に、家族に、肉体的、精神的欠損を生じさせられたことに、抗うこともできなかった人々が慎重に選ばれている。

鮫によって食いちぎられ、片腕になった少年、爆風によって目を奪われた少年、母に死なれた子、と「喪失」を象徴するモチーフが頻出する諸篇は、一見すると陰惨なようにも思えるが、苛酷な状況下で生きる本人が、それを所与として生きているので、その一所懸命さに心揺さぶられはするものの、読後感は悲哀のなかにも仄かな救いを感じるものが多い。たとえば、「残骸に囲まれて」の老夫婦は、互いに長年言葉を交わすことを忘れていたが、洋上に浮かぶ無数の損なわれた遺骸の中から一人息子の遺体を探すという辛い仕事を通じて、心が一つになってゆく。

一つの島を舞台とすることで、つながる連作ならぬ短篇集だが、硬質の抒情性を漂わせた作品世界と独特の余韻を残す結末に共通するものがある。凛とした個性を感じさせる新進作家である。ひとつ気になるのは、訳のせいなのか原文がそうなのか分からないのだが、平易な言葉で綴られ、決して難しいわけではないのに、文意が通じず、意味の分かりづらい箇所が散見された。同じ訳者による『アヴィニョン五重奏』の方は、なかなかの出来だと思っているので、実際のところは、どうなのだろう。