marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

第51章

マーロウは、気になっていることを確かめるために弁護士のエンディコットのオフィスを訪れた。冒頭、マーロウの目が捉えたオフィスの描写が入る。年代物の机に革張りの椅子、法律書と文書が溢れたいかにもやり手の弁護士の事務所といった様子である。

“ the usual cartoons by Spy of famous English judges, and a large portrait of Justice Oliver Wendell Holmes on the south wall, alone.”

清水訳
「壁には有名なイギリスの判事たちの描いた漫画とオリヴァー・ウェンデル・ホームズ判事の肖像画がかかっていた」
村上訳
「スパイ(英国人風刺画家レスリー・ウォードの別名)の描くところの有名な英国の判事たちの戯画が、決まりどおり壁にかかっていた。 南側の壁にはたった一つ、オリヴァー・ウェンデル・ホームズ判事の大きな肖像画がかかっていた」

イギリスの判事たちがいくら有能であったとしても、漫画が達者だとは思えない。スパイことレスリー・ウォード作と考えるのが無難だろう。

エンディコット自身の描写にも問題がひとつ。

“ He was in his shirtsleeves and he looked tired, but he had that kind of face. He was smoking one of his tasteless cigarettes.”

清水訳
「彼はワイシャツ姿で、つかれているようだったが、この前のときと変わらない親切そうな表情を見せていた。いかにもまずそうにタバコを吸うと、」
村上訳
「彼は上着を脱いで、くたびれた顔をしていた。しかしもともとがそういう顔立ちなのだ。例によって味を欠いた煙草を吸っており、」

エンディコットとマーロウは第八章で顔を合わせている。しかし、せっかく保釈で出してやろうと言っているのに、それを頑なに断るマーロウに、エンディコットは業を煮やしている。とても親切そうな表情とはいえないはず。“ kind of ”という言い回しはありふれているのに、清水氏はどうして「親切」だと思ったのだろう。もうひとつ、エンディコット愛用の煙草はフィルターつきの物で、この前一本もらったときにマーロウは味がしないと感じている。 “ one of his tasteless cigarettes.” には、そういうマーロウ一流の皮肉がこめられていると読みたい。

エンディコットと留置場で会ったときのことを思い出したマーロウは、無意識に頬を指先で触る。傷はほとんど治ったが、一カ所神経がおかしくなり、まだ痺れが残っているのだ。レノックスの件も同じである。関係者にとってはけりのついた事件なのだろうが、マーロウには気になることがひとつある。傷の癒えない場所が頬であることも象徴的だ。チャンドラーの文章は実に芸が細かい。この辺りは慎重に訳してほしいところだが、例によって清水氏は訳していない部分がある。

“ I couldn’t let it alone. It would get all right in time.”

村上訳だと、こうなる。「それがどうしても気になる。遠からず元通りになるのだろうか」。なかなか意味深な独白に思えるのだが。どうだろうか。

ハーラン・ポッターの命を受けてオタトクランに向かったとき、地方検事局代理という肩書きを使ったことに触れたマーロウに対する、エンディコットの返事。

“ Yes, but don’t rub it in, Marlowe. ”

清水訳「そのとおりだが、私を責めることはないよ、マーロウ」
村上訳「そうだ。そのことはあまり思い出させてほしくないのだがね。マーロウ」
権力者に尻尾を振ったことを匂わせているところなのだから、「勘弁してくれ」というニュアンスがほしい。因みに“rub it in ” には「《いやな事を》繰り返し言う」という意味がある。「そうだ。あまりいじめないでくれよ。マーロウ」くらいか。

“ I guess he hates my guts―if he thinks about it. ”

清水訳
「彼は僕が容易にひきさがらないことをこころよく思っていないらしいんです」
村上訳
「私は彼にこころよく思われていないでしょうね。もし、彼が私に対して感情を持つとすればですが」

彼というのはハーラン・ポッター。” hate O’s guts ” には「人を腹の底から嫌う(略式)」という意味があるから、どちらの訳も上品過ぎるような気がする。清水氏は“ guts ”を「ガッツがある」という意味で訳しているようだが、村上氏の訳もそれを踏襲しているようだ。清水氏のカットした後半を訳出することでよしとしたのだろう。

オタトクランの町に郵便ポストがあったかどうか、というのがマーロウの知りたいことで、実はそんなものがないことはマーロウは承知なのだ。いつまでも小さなことにこだわるマーロウにエンディコットはかなり疲れてきている。それをよく伝える次のようなところも清水氏は訳していない。

“ Something in Endicott’s eyes went to sleep.”

村上訳「エンディコットの目にあった何かが眠り込もうとしていた」。直訳である。

手間を取らせたことを詫び、マーロウは事務所を出た。藪をつついては見たが、なかなか蛇が出てこない。結果が出たのは一ヵ月後だった。

“ It was another wheel to start turning―no more. It turned for a solid month before anything came up. ”

清水訳「それから一ヶ月のあいだ、何も起こらなかった」
村上訳
「新しい弾み車(ホイール)が回り出したわけだが、結局どこにもつながらなかった。まるまる一カ月、それは無為に空転していた」

一カ月後の金曜日、見知らぬ男がマーロウのオフィスを尋ねてくる。

“ He was a well-dressed Mexican or Suramericano of some sort.”

清水訳「身なりのきちんとした男で、メキシコ人かアメリカ南部の人間のように思われた」
村上訳「身なりが良くメキシコ人のようだった。南米のどこかの出身かもしれない」

アメリカ南部と南米のあいだには飛行機で飛ばなければならないほどの距離がある。ほんとうはどちらだろうか。ここで問題になるのは“Suramericano”(Black Lizard版)だ。もしかしたら“Sudamericano”の誤植ではないだろうか。それなら、南米を意味するスペイン語なのだが。