marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『低地』ジュンパ・ラヒリ

低地 (Shinchosha CREST BOOKS)
同じように丸く明るく空に輝いても太陽と月はちがう。遍く人を元気づける太陽に比べれば、月の恩恵を受けるものは夜を行く旅人や眠れず窓辺に立つ人くらい。健やかに夜眠るものにとって月はあってもなくてもかまわないものかも知れない。カルカッタ、トリーガンジに住む双子のような兄弟、スパシュは月、ウダヤンは太陽だった。よく似た顔と声を持ちながら、独り遊びの好きな大人しい兄に比べ、一つ年下のやんちゃな弟は人懐っこく誰にも愛されて育った。

時代は1960年代。アメリカがベトナムを爆撃し、チェ・ゲバラが死に、毛沢東文革路線へと走り、紅衛兵の叫ぶ「造反有理」のかけ声の下、世界中に学生運動の嵐が吹き荒れた。二人が住むカルカッタの北方、西ベンガル州ダージリン県にあるナクサルバリという村でも共産主義の活動家による武装蜂起が起きた。何が人の運命を左右するかは分からない。その地方にも稀な秀才として市内の大学に通っていた二人の運命はそれを境に二つに分かれ、二度と出会うことはなかったのだ。

海洋化学を専攻する兄はアメリカ留学の道に、弟は教師となり家に残ったものの、家族の知らぬ間にナクサライトの一員として革命の道を歩いていた。ロードアイランドの下宿屋に弟の死を告げる電報が届いたのは1971年。アメリカに来て三年経っていた。身重の妻を独り残し、弟は官憲の手により殺されていた。帰国した兄は弟の子を身ごもったガウリをアメリカに連れ帰り、自分の家族とする。やがて娘ベラが生まれるが、妻は頑なに心を開かず、育児より自分の研究を優先する。ある日、妻は娘を残し家を出、そのまま帰ることはなかった。スパシュはベラを男手一つで育て、困難もあったがベラは逞しく育つ。ベラが身ごもったのを知ったスパシュは今まで秘していた事実を告げるが…。

ジュンパ・ラヒリの最新長篇小説である。それだけの情報で、読む前から期待が高まる作家というのも、そうはいない。その名を一躍有名にした『停電の夜に』以来、『その名にちなんで』、『見知らぬ場所』と、短篇、長篇という枠に関係なく、どの作品も期待を裏切ることはなかった。そして、本作。両親が生まれたカルカッタと、作家自身が育ったロードアイランドの地を主たる舞台にとり、双子のようによく似たベンガル人兄弟と、その家族の半生に渡る人生を描いている。喪失とそれによる孤独からの回復を、静謐な自然描写と精緻な心理描写で描いてみせ、長篇小説作家としての資質を今更ながら明らかにした。著者の代表作になるといっていいだろう。文句なしの傑作である。

すぐ下に誰にも愛される弟を持った兄の気持ちが痛いように分かる。両親の愛も周囲の賞賛の声も弟の方に集まることを、兄は羨むでもなく自然に受け止め、自分ひとりの世界にふける。誰も追わず、入り江のように孤独に、波が運ぶ漂流物のような人や愛を受け容れる。弟の愛は分け隔てなく、恵まれぬ者、貧しい者にそそがれるが、かえって自分の近しい者はなおざりにされる。兄はそれを拾うようにして自分の近くに置くが、相手は弟の喪失を嘆くあまり兄の愛に気づかない。なんて哀しいのだろう。いちばん弟を亡くしたことを悲しんでいるのは兄なのに。

淡々とした筆致で綴られる文章は、章が変わるごとに母や妻の視点が現われては、魅力的な弟の在りし日の姿を回想し、読者の前に広げてみせるので、読者がスパシュの傍に立って相憐れむことを許さない。社会正義は弟の側にあり、母親から見れば故郷を捨て、望まれもしない弟の嫁と再婚をする息子など弟の比ではない。すぐ近くにいて、ウダヤンの思想と行動力に影響を受けた妻にしてみれば、善人ではあるけれど、自分と家族のことしか念頭にないスパシュは物足りない。

疾風怒濤のような時代に、西欧の地図で見るごとく大西洋を真ん中に挟み、東のカルカッタと西のロードアイランドを行き来しながら、主人公の眼や耳がとらえるのは、日没の入り江に立つ鷺の姿であったり、屋根を打つ雨音であったり、とあまりにもデタッチメント過ぎるようにもみえる。二人の兄弟はコインの表と裏。二人で一つだった。いつも弟に付き従うように行動していた兄は、独りでは半身をもがれた生き物のようなもの。喪失の重さを人一倍感じていたにちがいない。物語の終盤、事態が一気に動き出す。喪われたものは、贖われることで、報いをもたらすのだろうか。余韻の残る終幕に静かに瞑目するばかりである。