marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ある青春』パトリック・モディアノ

ある青春 (白水uブックス)
ソファで眠りかけていたところを起こされたルイは、娘の背丈が母と変わらないことに驚きを感じる。今夜は知り合って以来初めて妻オディールの三十五歳の誕生日を祝う会を山荘で開く。腕のギプスが外れたばかりの息子は招待客の子どもたちとはしゃぎまわっている。寂しい山住まいだが平穏な今の暮らしに不満はない。パリ行きの夜行に乗る友人を車で駅に送った帰り道、ルイは落ち始めた雨滴に十五年前を思い出す。

兵役を終えても両親のいないルイには帰る所がなかった。顔見知りのブロシエの伝手でパリにあるブジャルディのガレージを手伝っていた頃、サン・ラザール駅近いビュッフェで眠りこけていたオディールと出会う。不始末をとがめられ店を首になったばかりの娘は場末の音楽ホールに入り浸っていたところをベリューヌという作曲家に拾われ、歌手を目指していたが、この日ベリューヌが自殺し途方にくれていたのだ。

身寄りのない二十歳前の男女が大都会で生きるすべもなくその日暮らしの生活を送る。それを助けるのが、ブロシエとブジャルディ。身寄り頼りのない若者を導く中年の男、というのはモディアノ作品ではお馴染みの存在。何の商売をしているのかはよく分からない二人だが、いずれろくでもない仕事のようで、詳しくは語らない。それでも右も左も分からない二人がパリ生きてゆくには彼らが必要だった。ルイは、ブジャルディに信頼され、オディールと二人、イギリスまで金の運び屋をしたりする。

一時期のフランス映画にでもありそうな、青春真っ只中の若者の行き当たりばったりのパリ暮らしが、なんともいえずモディアノ調。先行きが見通せない若者の、誰を何を頼ればいいのか分からないままに、誰かに何かに頼らなければ生きていけないというディレンマ。これっぽっちも信じられないのにまるまる信じたふりをし、食べつけないものを食べ、飲みつけない酒を飲む。命じられるままにパリ市内を彷徨い、海峡を流離う二人の根無し草的放浪。

特に恵まれたとはいえぬまでも普通の親を持つ者と、寄る辺ない身の上の者とでは、青春といっても、かくもちがうかという際立った孤独感を見せて読む者の胸に迫る二人の境遇だが、確かにこれも「ある青春」である。競馬の騎手であった父と踊り子だった母の間に生まれた、というルイの生い立ちは、これまでに読んできたモディアノの小説で見かけた男の子の出生の秘密に類似し、作家のアイデンティティへの固執をうかがわせる。ブジャルディには終始手厳しく接する愛人ニコルがルイには優しいのも、年上の女性に対するモディアノの思慕の強さを物語る。

あまりにも繰り返される類似のモティーフが、作家モディアノの描く小説世界と、作家自身の生い立ちとの相似関係を必要以上に暴き立てる理由となっているのだが、あまり神経質に考える必要もない。モディアノ自身、テクスト至上主義を言い立ててはいない。無鉄砲な青春期にある者にしかできないであろう選択と決断によって、ルイとオディールは、二人を取り巻く胡散臭い連中との別離を余儀なくされる。さらりと書かれているようでいて、読み終えた後うならされる、なかなか巧みな小説である。

風格を感じさせる訳も好ましい。ただ、1983年刊だけに、今となっては幾分古色を帯びているように感じられた。訳文の「ミルクコーヒー」、原文では「カフェ・オ・レ」だったのではないだろうか。「Uブックス版に寄せて」を読む限り、訳者はご壮健のようだ。このままでよしという自信の翻訳であろうから、改訳とまでいかずとも、ほんの少し手が入っていたら、と愚考した次第である。