marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『アジアの岸辺』トマス・M・ディッシュ

アジアの岸辺 (未来の文学)
短篇集の巻頭を飾る一篇が持つ意味は大きい。初めての作家なら書き出しを読んで、この後読み続けるか、そこで本を閉じるかが決まる。「降りる」は、冷蔵庫内や食器棚に並ぶ日常的な食べ物の羅列ではじまる。あまりSFらしくない開始だ。「60〜70年代の傑作SFを厳選」したという触れ込みのシリーズ物を手にとりながら、そう思うのは、実はSFらしいSFには食傷しているからだ。特にSFファンというのではない。面白い小説を探しているうちに、このシリーズに迷い込んでしまったのだ。

デパートの最上階のレストランから降りるエスカレーターの上で、買ったばかりの本を夢中になって読んでいるうちに、いつまでたっても地下に着かないことに気づいた主人公が、出口のない降り専用エスカレーター内で右往左往ならぬ上昇と下降を繰り広げる、悪夢のような時間を乾いたユーモアをまぶした筆致で描いた短篇。不条理感が際立つ。こいつは面白そうだ。

その次に控えるのが、エンバーミング技術が進化したせいで、防腐処理を施された遺体と暮らす生活に我慢できなくなった夫が妻に無断で家族の遺体を火葬場に送ることから起きるいざこざを描いた諷刺色の強い「争いのホネ」。ここまでくると作家の個性が読めてくる。悪趣味といってもいいくらい諷刺がきつい。人によっては死者、あるいは死そのものを諷刺の対象にすること自体を忌み嫌うものだ。逆にいえば、そうした、人が笑いの対象にしないもの、採りあげることが批判されそうな対象をからかうことが好きな作家なのだ。

革フェチのおかまが、それを抑制するためのセラピーを受けたせいでファナティックな極右に変貌を遂げる「国旗掲揚」で諷刺の対象となるのは、アメリカにおけるゴリゴリの極右。たしかそのはずだが、変身過程があまりにリアルに描かれるため、周囲のリベラル派がやきもきする様の方がおかしくも見えてきて、単なる革フェチの隠れゲイを認知しようとしない周囲の価値観との軋轢が、極右政治家の台頭を促すことにつながることを仄めかしているようにも思えてくる。いったい誰を揶揄するつもりなのか。それもこれも含めて一筋縄ではいかないアイロニカルな作風である。

ほかにも自殺願望を持つ女性や、パフォーミング・アーツ、批評家、フェミニズムトマス・M・ディッシュはミダス王よろしく手を触れるものすべてを諷刺の対象にしないではおかない。そんななかで、表題作の中篇「アジアの岸辺」は、その長さのせいもあってか、他の短篇とは一線を画す異色作。イスタンブールを舞台に、人間のアイデンティティの不確かさを主題にした幻想小説である。フリオ・コルタサルが書きそうな、二つの世界を生きる主人公の不思議な体験が、アジアとヨーロッパを結ぶトルコの異国情緒溢れる雰囲気を背景に幻想色豊かに描き出される。

どこから出発したのかが、作家の階層を決めるということがアメリカにもあるらしい。脚光を浴びたのが、SF雑誌だったことが「ニューヨーカー」誌に自分の作品を載せることを難しくした、というような意味の発言を作家本人がしている。「ニューヨーカー」に載ることの意味はともかく、たしかに、本邦初訳のものも含めて、短篇には風刺小説を得意とするSF作家の個性を感じさせる。一方、表題作から窺がえるのは、もっと別の小説を書く力を充分に持っている作家だということだ。発表の場が、作品の傾向を決める、ということはあったのかもしれない。短篇、中篇でこれだけちがう作風を示すなら、長篇が是非とも読んでみたくなる。そんな作家である。