marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『歌の翼に』トマス・M・ディッシュ

歌の翼に(未来の文学)
においのようなものがある。自分の好きなタイプの小説かどうかが分かる。書き出しを少し読むだけで伝わってくるものがあるのだ。文体というのでも、話法というのでもない。漠然としていてつかみようがないのだが、そこにはっきり漂っている、まさににおいとでもいうしかない何かだ。『歌の翼に』にはそれがある。

中学校の図書館は日のあたらない中庭に面して窓が切られ、その下に外国文学の棚があった。それまでロケットや宇宙のことを書いた科学読物のような本ばかり読んでいたものが、ヘッセを読み出したから司書教諭は驚いて、「この頃読むものが変わってきたね」と言ったほどだった。県下一のマンモス校で一生徒の読書傾向をそこまで把握していることにこちらも驚いたが、雑誌でヘッセの『乾し草の月』を読んで以来、この作家にはまってしまっていたのだ。

どうもそのせいらしいのだが、芸術家になることを夢見る少年の成長を描く「人格形成小説」(ビルドゥンクスロマン)のにおいのする小説には手もなくやられてしまうきらいがある。これもそのひとつ。しかも、かなりよくできている。

ダニエルはニュー・ヨーク生まれだが、父の仕事の都合でアイオワ州エイムズヴィルで大きくなった。ファーム・ベルト(アメリカ中西部の農業地帯)は伝統的に保守色が強い土地柄だ。いわゆる近未来を舞台にしている点でSFに分類されるだろうが、食糧危機やキリスト教原理主義の激化といった設定は、あえてSFと考える必要もない。ただひとつ、ある種の人が「翔ぶ」力を持つという点を除けば。

ダニエルの夢は翔ぶことだった。ビルドゥンクスロマンの主人公の多くが芸術家であるように、ここでは、優れた歌い手が歌を歌う途中で「翔ぶ」。文字どおり、本人の意識は宙を翔んで好きなところへ自在に移動しているわけだが、肉体は地上に残したままだ。卑近な言い方でいえば幽体離脱か。飛んでいる状態の存在を「フェアリー(妖精)」と呼ぶ。長く翔んだままでいると、肉体が衰え、元に戻れなくなるらしい。州によっては「翔ぶ」ことを法律で禁じていて、キリスト教アンダーゴッド派の力が強いアイオワもそのひとつだ。

翔ぶことを主題にしながら、通常のファンタジー小説のように、空を飛ぶ場面は描かれることはない。それは、特殊な力に恵まれた人にだけ与えられるもので、素人愛好家レベルのダニエルにははなから無理な相談なのだ。「翔びたい、が翔べない」というのは、夢や野心だけはあっても、才能を磨いたり伸ばしたりできない多くのアーティストに共通する立ち位置だ。日々の生活のために夢を追うことは一時棚上げし、バイトに精を出す主人公の姿に共感する若い読者は多いだろう。

「翔ぶ」ことが象徴しているのは自由自在に飛翔する芸術三昧の境地だろう。たった一度の挑戦で翔ぶことができる幸運な者もいるが、ダニエルのように努力し続け、何度も試みても駄目な者もいる。決して才能や資格がないのではない。明らかにダニエルの額には、その徴が見えている。試練が課されているのだ。刑務所仲間に飛びっきり上手い歌い手がいた。彼はダニエルにこう忠告する。「生活をめちゃくちゃにすることさ。一流の歌手はみんなそうなんだぜ」と。

ダニエルは容姿端麗で人にやさしく頭もいい。詩も書けて歌も楽器もできる。それでも翔ぶことだけはできない。ロマン主義的な芸術観が持つ逆説だ。天才はランボオのように破滅型でなければならない。小市民型でまともな経済観念や生活設計ができるダニエルがモラルを破棄せざるを得ない破目に陥るきっかけが訪れる。荒廃したニュー・ヨークの唯一の娯楽であるオペラ劇場を舞台にした第三部は、それまでのアイオワ生活を彩っていた牧歌調をかなぐり捨て、猥雑で頽廃的な色調を帯びる。余儀なくオペラ歌手の囲い者になった主人公の生活は以前からは想像もできない「めちゃくちゃ」なものになる。肉体的にも精神的にも苦痛を味わったダニエルは、メンターであるミセス・シッフの言葉により、悲惨としか思えない境遇を楽しむことを覚える。それが転機だった。

ビルドゥンクスロマン(教養小説)のパロディであり、アメリカの近未来を予言したSFであり、作家の自伝とも読むことができる上出来の芸術家小説。極力SF色を薄めた語り口は自然で、SFというジャンルが苦手な読者も満足させられるにちがいない。作家トマス・M・ディッシュを代表する傑作である。