marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『煙の樹』 デニス・ジョンソン

煙の樹 (エクス・リブリス)
主人公の一人スキップことCIAのウィリアム・サンズがなかなかやってこない指令を待ちながら、潜伏先のベトナムのヴィラで読んでいるのが、シオランアルトーというのが、スパイ活劇風小説におけるいいスパイスになっている。二段組で600ページをこえるボリュームだが、視点の一極集中による単線的思考からくる飽きを避けるため、複数の視点人物を配することで手際よく場面を転換し、ある種の群像劇とすることで最後までぐいぐい引っぱって読ませる。

1963年、ラジオからケネディ大統領暗殺事件の報道が流されるところからはじまり、1970年までのベトナム戦争の時代、サイゴン市内や南ベトナムの村を舞台に繰り広げられたCIAによる心理作戦関係者の体験を描いている。そう紹介するとスパイ物か戦争小説のようにとられそうだが、どちらともちがうような気がする。たしかに戦闘シーンには迫力があり、捕虜を逆さ吊りして拷問する場面など凄まじいまでに惨酷だが、それが主ではない。

中心になっているのは、戦闘や情報を操る側ではなく、否も応もなく事態に巻き込まれてしまう側の人物である。どこにでもいるごく普通の若者が戦争を体験するなかで、どのように変化していくのか、人は戦争をどう自分の中で処理し、あるいは戦争によって刻々と変えられていく自分をどう処理するのか。ベトナム戦争といういわば他国の戦争を戦ったアメリカ人だけが抱く深刻な問題意識を、異なる階層、異なる人種の視点を介することで、より立体的に客観的な見方で描こうとしたもの、とひとまずはいえるのではないか。

作者は、しかし観念的、抽象的なアプローチはとらない。父親を刑務所にとられ、母親は信仰にいれあげ、空っぽになった家から出たいばかりに、ベトナム戦争に従軍したヒューストン兄弟は、およそ立派な兵士とはいえない。何かといえばクソを連発するその会話を通して、戦争という事態が如何にクソであるかをストレートに訴える役割を果たす。それだけではない。兄弟にとっては帰国した故郷での暮らしも戦地以上にクソなのだ。未来の展望というものを一切欠いた二人の閉塞感は今のこの国を考えると他人事とは思えない。

狂言回し的な役割を果たすのがスキップことウィリアム・サンズ。伝説的な英雄で退役した今も「大佐」と呼ばれる叔父に憧れてCIAに入り、現在は共産主義と戦うために大佐の命でベトナム入りしている。しかし現場での華々しい活躍の願いは叶わず、現実は情報を記したカードの整理に終われる毎日だ。夫を亡くしたカナダ人女性キャシーと関係を持ったり、現地人の神父とお茶したり、およそ戦時とも思えぬ日々を過ごすうちに叔父の進める心理作戦「煙の樹」のなかに取り込まれてゆく。この内省的な人物の心理を通して読者は物語のあらましを知る仕組みだ。

大佐のために働くベトナム人のグエン・ハオやミン、ハオの友人でベトミンとなったチュン・タンからは、中国、フランスの支配を脱したと思ったらアメリカに蹂躙される郷土への思いが痛いほど伝わってくる。しかし、このベトナムの若者たちは何故か大佐にひきつけられる。豪放磊落なようでいて人心掌握に長けた元アメリカ軍大佐フランシス・サンズこそがこの長大な小説の鍵を握っている。物語は北ベトナムの闘士チュン・タンを二重スパイとして北に送り込むという大佐の計画によって動き出すと、後は一気に加速する。

ドイツ人の狙撃主や英国人の昆虫学者、CIAの協力者、と胡散臭い連中が大佐の作戦の遂行と阻止を賭けて暗躍するスパイ合戦の様相を呈してくる後半は、前半のテト攻勢下のヘリ基地を守る銃撃戦の場面と並ぶこの小説中の白眉である。スリルとサスペンス溢れる情報戦の場面と酒と女の乱痴気騒ぎ、雨の降り止まないヴィラでやってこない命令を待ち続けるスキップが過ごす村暮らしの静謐な時間、それに帰国した兄弟の破滅的な振る舞いが強烈なコントラストで次々に立ち現れる。この緩急相まったリズムがシニカルなユーモアを醸し出し、長丁場を支えるのだ。

アメリカにとってベトナム戦争とはいったい何だったのか。湾岸戦争イラク戦争、そして今もまだ、世界各地で戦争を遂行中のアメリカという国は何も変わっていないのではないか。自国とは直接利害関係のない他国を舞台に断続的に戦闘行為を持続することで覇権大国の体面を維持し、パクス・アメリカーナの夢を見続けている。その陰で多くの人間が死に、傷つき、精神を病み、人生を損なっている。読み終えた後もやりどころのない重い塊のようなものが自分の中に居座り続けるのを感じる。「戦争」という言葉が息を吹き返して巷を賑わせている今日、観念としてでなく魂の深いところにおいて「戦争」を想起するのに相応しい一冊である。