marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『伝道の書に捧げる薔薇』 ロジャー・ゼラズニイ

伝道の書に捧げる薔薇 (ハヤカワ文庫 SF 215)
ディレイニーと並んで60年代アメリカSF界を代表する作家ロジャー・ゼラズニイの初期中短篇集である。全15篇の中には、ひとつのアイデアのみで成立する超短篇も含まれているが、その持ち味を堪能しようと思えば表題作を含む中篇に読み応えのある作品が多い。きびきびした語り口、当意即妙な会話はハードボイルド探偵小説を思わせる。格闘技好きらしくアクションを描くのが上手い。当今ではどこかの団体からクレームがつきそうなくらい男も女もやたらスパスパやるので作品の書かれた時代が分かる。しかし、ポケットから取り出して口にくわえればその場の雰囲気や人物の気持がさっと切り替わる絶妙の小道具である。持ち運びに面倒な酒類ではこうはいかない。

煙草や酒が気になるのは、飛びぬけた能力を持つ男が誰にも達成不可能思われる難局に挑む話が多いからだろうか。人はとんでもない状況を前にしたとき、何はさておき、まずは一服したくなるものだ。「その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯」は、十スクエア(一スクエアは百平方フィート)のフットボール競技場大の釣り用筏の上を縦横に移動できるスライダーを操作し、巨大な獲物イクティザウルス・エラスモグナトス(板顎魚竜)を釣り上げる話。どう考えてみてもクレーンゲームから思いついたに決まっていると思うのだが、1970年代のアメリカにはクレーンゲームは存在したのだろうか?舞台は金星の漆黒の海、太古の生物と眼を合わせたときに感じる一口には言い表せない感情に気圧され、一度は失敗した男が再起を賭けて挑む。ちゃちなアーケードゲームに巨大なスケール感をまとわせ痛快なアクションに仕立て直す才能に脱帽。

「この死すべき山」では、知りうる限りの世界で最高の標高を持つ山の初登頂を目指す男たちが出会う不可思議な体験が主題となる。麓から頂上を見ることができない“灰色の乙女”は大気圏より高く突き出たとてつもなく高い山だ。これまで世にある名高い高峰を征服してきたホワイティーにとって唯一登頂していないのが“グレイ・シスター”だった。いつもの仲間とチームを組んで登りはじめたが、頂上が近づくにつれ「帰レ」という声が聞こえ出し、天使のようなものが見え出す。これは高山がもたらす幻覚なのか?高峰を登山する体験をリアルに描いた山岳小説と思って読んでいたものが、最後にとんでもない種明かしが待っている。クライマックスまでの緊張感と謎解き後の緩さのコントラストが絶妙で口あんぐりとなること請け合いの一篇。

「このあらしの瞬間」は、凄まじい嵐のなか凶暴な獣が都市を襲う一大パニックに独り立ち向かう警官の活躍を描くハードボイルド感が強い一篇。冷凍睡眠による星間飛行が可能となった時代。見かけは若くとも実年齢はかなりの高齢者が現役で実力が発揮できる羨ましいような世界だ。監視カメラで空から街をパトロールする「わたし」には、若い女性市長の恋人がいる。長雨が洪水を呼び、水中から恐ろしい怪獣が現れるとパニックに襲われた街は無法地帯と化す。「わたし」の働きもあって災厄は去るが、嵐の後に残されたのは泥濘だけではなかった。人間とは何か、という問いに「わたし」は、かつてこう答えた。「人間は、彼がこれまでにしたこと、したいと思い、あるいはしたくないと思うこと、すればよかったと思い、あるいはしなければよかったと思うこと、それらすべての総体である」と。冒頭に置かれたこの定義が胸にしみる結末が待っている。

表題作は、火星のある一族に残る寺院の記録を解読する仕事を引き受けた詩人と踊り子の恋の顛末を描く。「伝道の書」によく似た色調を漂わせたその聖なる書物とは別に、一族には予言が伝えられていた。予言の成就と詩人の恋が二律背反になっている。リルケの『ドゥイノの悲歌』とサン・テグジュペリの『星の王子様』を風味づけに使ったところが洒落ている。ラブ・ストーリーなのだが、主人公の詩人はなんと東京大学東洋語学科の学生で講道館一級の腕前。当て身を使った格闘シーンもちゃんと用意されている。サービス満点の逸品。

冷凍睡眠によって想像を絶する時間を生きることが可能となった人間はイモータルな存在となり、ある意味神に近づくことになる。不死性を主題にし、神話、伝説を再構成したような作品も多い。どれをとっても神的存在や超人的なヒーローばかりのちょっと気恥ずかしくなりそうな英雄冒険譚が無理なく読めるのはヒーローが活躍する舞台となる世界の、SFならではのスケールの大きさにある。嘘くさい話をいかにも本当らしく読ませるのではなく、その愁いを喩えるのに白髪三千丈の比喩をもってした李白の美学にも似て、途方もなく大きなスケールを前にした時、ちっぽけな疑念などすっ飛んでしまい、人はある種の悲壮美にただ酔うのかもしれない。