marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』第4章(3)

<女はゆっくり身を起こすと上体を左右に揺らすようにして私のほうにやってきた。タイトでどんな光も反射しない黒のドレスを着ていた。長い腿をしていて、およそ本屋では見かけることのないある種特別の歩き方だった。アッシュブロンドの髪に緑の瞳、パイピングのようなまつげ。髪は耳のところから柔らかく後ろに波打ち、耳には大きな黒玉の飾りが光っていた。爪は銀色に塗られていた。それほどめかしこんでいるにもかかわらず、女にはどこかホテルの玄関脇にある安部屋のにおいがした。>

一見ゴージャスな装いをした女の外見描写である。昔ならモンローウォークといったところか。セクシーなファッションに身を固め、しなを作りながら歩いてくる女性にマーロウはしかし、だまされない。女の何がそう感じさせるのか。本物ではないフェイクだけがもつ嘘っぽさを嗅ぎとらずにはおかない。 

She got up slowly and swayed towards me
「彼女はゆっくり立ちあがり、体を左右にゆりながら,私のほうへやって来た」(双葉)
「女はゆっくりと立ち上がり、身をくねらせながら私の方にやってきた」(村上)
“sway”の一言が英語を日本語にするときの核になる。スウェイといえば、ボクシング用語の「スウェイバック」を思い出すが、必ずしも上体を反らすことばかりをさすのではないようだ。女が意識して歩くとき、上体は腰を支点に上下ではなく左右にゆれる。腿の長さに目がいっていることからそれは分かる。「身をくねらせる」といえば身も蓋もないが、「左右にゆりながら」よりはいいかもしれない。どちらにしても説明過剰。英語なら“sway” 一語だ。こんなとき、邦訳の苦労が分かる。

She was an ash blonde with greenish eyes, beaded lashes, hair waved smoothly back from ears in which large jet buttons glitterd.

「髪は白っぽいブロンドで、目は緑、まつげは数珠みたいで、髪は耳の辺りからうしろへなめらかに波打ち、耳には大きな黒玉の飾りをつけていた」(双葉)
「淡いブロンドの髪、緑の瞳、玉縁をつけたようなまつげ。髪は耳のところから後ろに、きれいに波打っててまわされている。耳には漆黒の大きな円形の飾りが煌めき」(村上)
ブロンドは金髪だが、金髪が稀ではないあちらでは様々な種別がある。アッシュは灰色がかった、というよりも白っぽいブロンド。片仮名語の氾濫は好むところではないが説明が過ぎて文が長くなるのはさけたい。分かるところは片仮名で済ます。むしろ問題は“beaded lashes “のほう。“bead”は、ビーズだが、まつげが数珠みたいって、どんなまつげだ。ここは村上訳の玉縁が正解。といっても玉縁自体よく分からない人も多いかも。ほつれを防ぐ布地の端のかがり方である。玉縁で分かればそれでいい。パイピングの方が分かりやすいかもと思っただけである。密で分厚いまつげを想像していただければよしとしよう。“jet buttons”も難しい。ジェットは黒玉のことだが、これも説明抜きでは分かりづらい。双葉氏はそのまま黒玉ととったが、村上氏は「黒い」を示す修飾語ととっているようだ。ボタンは釦ととれば、「円形の飾り」で、球形というよりは円形だろう。イヤリングの形状は円形の大きな黒いものと考えるより他はないようだ。

In spite of her get-up she looked as if she would have a hall bedroom accent.
これも辛辣な表現だ。
「が、そのスタイルにもかかわらず、ひどく閨房のにおいをさせている感じだった」(双葉)
「しかしそんな身なりにもかかわらず、女にはどことなくホテルの安部屋を思わせるところがあった」(村上)
“a hall bedroom”とは、玄関わきの寝室(米)の意味で、旅館などで一番安い部屋を指す。双葉訳はベッドルームに引きずられて色っぽい匂いを纏わせすぎている。村上訳が正しい。要は、どれほど飾り立てていても、女の価値はそれほどのものではない(安ピカ物)ということをマーロウは言いたいのだ。