marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『アフター・レイン』 ウィリアム・トレヴァー

アフター・レイン
いずれも甲乙つけがたい、虚飾を廃した文と余分なものを一切削ぎ落とした構成で仕上げられた短篇が十二編。短篇の名手の名に恥じない傑作短篇集である。惜しむらくは程度の差こそあれ、四人の訳者による翻訳が、それに見合っていないことだ。車や酒の訳語が訳者ごとにちがっているのはご愛敬だが、一つの作品で人物の名が濁ったり濁らなかったり、なかには日本語として意味の通じない文すら見受けられる。編集者は目を通したのだろうか。

翻訳の瑕疵があり、歪みや気泡を封じ込めた硝子窓ごしに眺めるようであっても、トレヴァーにしか表現することのできない独特の世界は、まぎれもなくそこにあって、読者が眼を凝らしさえすれば、いつものように立ち現れてくる。そこにあるのは、高望みとは無縁の慎ましやかな暮らしを営む夫婦、親子、兄弟が、突然わが身に降りかかってきた故知らぬ受難に、これはいったい何の罰であろうかと悩み、苦しみ、やがて、それをやはり自分がしてきたことへの罰として受け入れてゆく、一言でいえば、諦念を主題とした物語である。

ものごとには原因があって、結果がある。どうして自分がこんな目に遭わねばならないのか、と天を仰いでみても、神は何もこたえてはくれない。辛いと感じるのが自分である以上、責めを負っているのは自分なのだ。誰もそれを肩代わりなどできない。ひとはそうして、自分のどこがいけなかったのかと貝が柔らかな身内に砂粒を入れてしまったとき、体液で包み込んで傷みをやわらげるように一心に思いをめぐらせ、自身に納得させてゆかねばならない。

われわれは愚かであり、自分勝手な存在であるから、滅多なことでは日々の自分の行いを振り返ることなどしない。トレヴァーが描く人々も同じだ。事が起きたとき、ひとは動揺し、ある者はうろたえ騒ぎ、ある者は畏れ黙す。語り手は初め、第三者的な位置から語りだし、やがて人物の内面に入りこんで、切実な心理の起伏を描いて見せ、最後にこうでしかありえなかった、とでもいうように断を下す。その締めくくり方は時には冷た過ぎると思えるほど。しかしまたある時には悲哀のうちにも穏やかな慰撫が含まれている。

目の不自由なピアノ調律師オーエンが年老いて再婚した相手は、前妻より若く美しい女ベルだった。ベルは前からオーエンと結婚したかったのだが、彼が選んだのはバイオレットだった。亡きバイオレットは夫の目となって、彼の周りの人や物を美しく描き出して見せた。ベルはそれが妬ましく、バイオレットが紡ぎだした世界をすべて否定してゆく。オーエンは妻の嘘に気づいているがそれを許す。「べルが主張したからとて、彼女を咎めるべきではないし、主張というものは、傷つけ、破壊なしにはありえないのだ。ベルは最後には勝者になるだろう。なぜなら、常に生存者が勝つものだから。それに、バイオレットは最初に勝者であったし、より幸せな年月を過ごしたのだから、ベルが最後の勝者になるのも、公平と言えるだろう」と。「ピアノ調律師の妻たち」の結語に仄見える認識の鋭さに、立場の弱い者が甘んじて受けねばならない仕打ちへの苦い諦念が窺える。

金目当てで、他人の子を孕んだエリーと結婚した中年男モーリビーは真面目によく働いた。エリーが生んだ娘もなつき、幸せに暮らしていたある日、エリーは娘に真実を話すと言い出す。エリーの相手は巡回司祭だった。周りは止めるがエリーは娘に事実を打ち明ける。名目上の夫であることがばれて、物笑いのタネになったことを恥じるモーリビーは黙々と馬鈴薯畑を耕す。自分の家の体面しか考えない伯父や母親、教会を相手に我意を貫き通すエリーの行動と、困惑しながらもエリーと娘との生活を続けるモーリビー。愛だの恋だのというのではない、二人の実直な生活者の間にいつの間にか生じつつあるもの。(「馬鈴薯仲買人」)

プロテスタントの家に生まれたミルトンはある日果樹園で不思議な女の人に出会う。その女性は聖ローザと名乗り、聖なる口づけをする。プロテスタントの祝日、七月の行進行列の日、ミルトンは聖ローザが自分に話すように強く命じるのを感じる。義兄の牧師も、聖ローザについて教えを乞うたカソリックの司祭も、ミルトンの話を真剣に受け止めようとしない。やがて町に出て説教を始めたミルトンを父親は激しく叱り家に閉じ込めてしまう。翌年の七月の行進行列の日、悲劇は起きる。「失われた地」は、カソリックプロテスタントの間にある確執が主題となった、トレヴァーにはめずらしいメッセージ性の強い一篇。自分たちと異なるものを排除することで失われた地を取り戻すという、救いのない結末は決してアイルランドに限ったものではないだろう。

それにしても、である。これだけの作品を翻訳するというのなら、いくらでも適任者はいるだろう。この短編集が企画された当時、まだまだウィリアム・トレヴァーの名が知られていなかった、ということなのだろうか。表題作は、「雨上がり」という表題で『聖母の贈り物』にも収められている。そちらの訳者は栩木伸明氏。読み比べてみるのも一興かも知れない。