marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『私の1960年代』 山本義隆

私の1960年代
山本義隆という名前を聞いて、ああ、と思い出す人は世代的に限られているだろう。在野の物理学者として、素人にもよく分かる物理学の歴史を説いた良書の筆者として知られているが、東大全共闘のリーダーとして、当時新聞紙上を騒がしていた名前である。東大安田講堂をめぐる機動隊との攻防は、一月の寒い日だったので、放水車が大量の水を浴びせるテレビ画面を、こたつの中に手まで入れながら、食い入るように見ていたのを覚えている。もちろん、学生側を応援していたのだ。

その山本氏が『私の1960年代』という本を出した。それまで、東大闘争について語ることを自ら禁じていたのか、市井の一学徒として主に科学に関する本しか書いてこなかったと記憶している。敗軍の将、兵を語らず、の心境でもないだろうが、ひとつの見識ではあると思ってきた。その人が何故今頃になって、過去を語ろうとするのか、と疑問に思い手にとった次第である。

ここには二人の山本義隆がいる。物理を学ぶ学生として東大に入学しながら、学内に蔓延する矛盾に気づき徐々に闘争に近づいていくうちに、いつの間にかその中心人物となってしまっていた自称「ほとんどノンポリ」の東大生、山本義隆がその一人。もう一人は、闘争に敗れ、拘留された結果、東大に残ることもなく、就職も公安に邪魔され、予備校講師をしながら、地道にこつこつと独自に研究を続けてきた在野の老学徒の山本義隆である。

60年安保に始まり、安田講堂占拠を経て、逮捕、拘留にいたる東大全共闘の闘いのあらましを、およそアジテーターにふさわしくない、人の話をよく聞き、考え、行動する真摯な大学院生の口から聞くことで、あの闘争とは何だったのか、東大という大学の持つ意味と、その問題点が明らかにされる。

山本は、当時のアジビラをはじめ、大量の資料を駆使し、東大が明治に始まる、殖産興業、富国強兵の掛け声のもとで産・学・官・軍の複合体として、国家の政策といかに一体化してその命脈を保ってきたかを暴いてみせる。当時は、目の前にいる総長や教授といった東大当局との戦いに明け暮れていて、はっきりしなかったことが、時を経て、その本質的な意味が雲が晴れるようにくっきりと見えてくる。

大学の自治などは初めからなかったのだ。国や企業から資金提供を受けた大学における研究行為は、すべて国及び企業の利益に結びついていた。それは、四大公害、沖縄基地問題三里塚闘争、そして3.11の福島までずっと続いている。

先の戦争に敗れたのは科学力であると考えた日本は、戦争に対する真摯な反省をすることなく、戦後はその科学力を用いて高度経済成長期に発展を遂げる。昔軍隊、今経済、というのが相も変らぬ日本人の意識構造であった。その経済が思うように伸びず、行き詰った時、頭を擡げてきたのがまたもやファシズムだ。次の二つの引用を福島や沖縄の問題と考え合わせて読んでみたい。

「ちなみに,福島の原発事故ののち、ドイツとイタリアは「脱原発」を表明しました。これは将来的に核武装をすることはないという国際的メッセージなのです。それにたいして日本政府は事故後も原発固執する姿勢を崩していません。そのことは、外国からは、日本が核武装の野心を棄ててはいないと見られることであります。外国から見られるというだけではなく、日本の支配層の本心でもあると、私たち自身も見るべきなのです。」

「民主主義について言うと、民主主義擁護の主張が、ときには権力による支配体制維持の隠れ蓑になるということが、次第にわかってきました。制度として体制に組み込まれ、単なる手続きと堕した民主主義が秩序として現出する場合、その秩序から取り残されるマイノリティを生み出してきます。そのマイノリティが自己主張するとき、その秩序に手をかけることを強いられ、それがときに暴力的な形をとらざるを得なくなるときがあります。そういうことを無視して、のっぺらぼうに「民主主義を護れ」というだけでは、場合によってはむしろマイノリティを抑圧することになりかねないということが、私たちに意識されてきたのです。」

この時期だからこそ、山本はもう一度皆の前に現れ、過去を語る必要を感じたのであろう。本書は2014年に行われた講演に加筆したもので、です・ます調で書かれており、読みやすい。民青や丸山真男に対する批判、深作欣二の映画『仁義なき戦い 代理戦争』に寄せる共感などには、若い山本の情念が感じられ、親しみを覚える。一方、戦争当時は天気予報さえ秘密とされ、戦争が終わるまで報道されなかったことをはじめ、昭和になって名古屋、大阪に作られた旧帝大には文科系学部がなかったことなど、今に通じる国の政策について教えられることの多い本である。一読をお勧めする。