marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『僕の違和感』上・下 オルハン・パムク

僕の違和感〈上〉 僕の違和感〈下〉
東西文明の十字路イスタンブルを舞台に、ある行商人の半生を描きながらトルコの現代史を点綴する、ノーベル賞作家オルハン・パムクの最新長篇小説。出だしこそ主題をはっきりさせるため、物語の中盤あたりから書き出されているが、主人公の人生を決定する駆け落ちのくだりを語り終えると、話者は時間を戻し、主人公メヴルトの少年時代から語りはじめ、物語はひとりメヴルトに限ることなくその係累、親戚縁者をはじめ、友人知人にいたる多くの人の口を借りて紡がれる。

その語り口は、現代小説というよりも一昔前の大衆的な読物を思わせるとっつきやすさで、上下二巻に及ぶ大長編であるにもかかわらず、一気に読みきってしまう。また、主人公メヴルトの人物像が、誰にも愛される善良で朴訥な性格と、頑丈なくせに華奢な体躯にいとけない少年のような顔を持ち合わせた人物に設定されていることもあって、読者は身構えることなくやすやすと作品世界に入っていける。トルコ風の人名地名こそなじみがうすいが、出てくる人物は誰もかれも少し前の日本のどこにでもいそうな等身大の人物ばかり。

目次のすぐあとに登場人物一族の家系図が見開きいっぱいに記され、下巻巻末には登場人物索引も付されている。この人物相関関係こそが小説の眼目だからだ。主人公の父ムスタファとその兄ハサンは姉妹を妻に娶り、メヴルトにはハサンの息子であるコルクトとスレイマンという従兄弟がいる。トルコの中央アナトリアにあるコンヤ県からイスタンブルに出てきた一族は担ぎ棒を肩に担いでヨーグルトや伝統的飲料ボザを売り歩く仕事を生業としていた。父と伯父はイスタンブルの端に位置する国有地の丘に一夜建てと呼ばれる粗末な家を建てることで、土地を事実上所有する。

その後家族の多い伯父一家は別の丘に移るが、それを契機に土地の所有をめぐり父と伯父の関係はぎくしゃくしたものとなる。ひとつには、行商をやめたハサンが雑貨商を経営し、その息子たちも地域の顔役の手伝いをしながら少しずつ裕福になっていくのに比べ、妻を故郷に残し長男だけ連れて首都に出たムスタファは、故郷の人々が生業としている伝統的な行商に執着し、兄のように時流に乗れなかったことを口惜しく思っていたのだ。

コルクトの披露宴の席上、花嫁ヴェディハの妹と目が会い、その瞳の美しさに運命の出会いを感じたメヴルトは、まだ十三歳の少女に手紙を書き続ける。四年後二人は駆け落ちを決行することになるが、メヴルトが手紙を書いていた相手は当の少女の姉のライハで、美しい瞳の持ち主は末娘のサミハの方だったのだ。題名の『僕の違和感』は、駆け落ちの夜、闇夜を照らす稲光ではじめて未来の妻の顔を見たメヴルトが抱いた思いからきている。

手紙のやりとりや駆け落ちの手助けをしてくれたスレイマンは、以前からサミハに思いを寄せていたが、姉が片付かないと妹も嫁にいけないと考え、姉のライハを従兄弟のメヴルトに嫁がせようと仕組んだのだった。仲のこじれた両家の間で、三姉妹の嫁取り競争が演じられることになる。これだけでも十分喜劇的な設定だが、これにトルコという国家の歴史が重なってくる。

建国の父アタチュルクによって脱イスラム色を強めたトルコ共和国だったが、その内実は脱イスラム的な左派世俗主義からイスラム擁護的な右派民族主義を奉じる集団まで様々なイデオロギー的確執を含んでいた。一例をあげれば、メヴルトの中学生時代からの親友フェルハトは、アレヴィー教徒のクルド人一家の息子で世俗主義を奉じる左派。従兄弟のコルクトやスレイマンは、右派民族主義に属している。メヴルトは親友のフェルハトと共に左翼のポスター貼りを手伝ったかと思うと、まだ糊も乾かないその上に、黒いペンキで右派のスローガンを書くなど、文字通り右往左往する。

対立するのは、イデオロギーだけではない。親友と従兄弟、妻ライハと義妹サミハ、首都イスタンブルと故郷アナトリア無神論神秘主義、進学と就業、と数え上げていけばきりがないほど、メヴルトは相反するものの間に立たされる。あちらを立てればこちらが立たないという二律背反状況をどうさばいて見せるか、というのがこの小説の見所だ。どちらかといえば、さばくどころか、あっちへよろよろ、こっちへよろよろと腰の定まらないメヴルトの迷走ぶりを面白がるという方があたっているが。

よくよく考えてみれば、メヴルトが肩に担いでいる担ぎ棒はその両側に盥を吊るしている。荷の重さで片側に傾けばまともに担ぐことはかなわない。どちらの方にも均等に力が伝わるようにバランスをとるのが、この商売の秘訣だ。そうしてはじめてイスタンブルの迷路のような道を好きなように歩くことができるというもの。肩に担ぎ棒を担いだボザ売りの立ち姿は、メヴルトの人生の比喩なのだ。そして、それは東西文明の中間に位置するイスタンブル或はトルコという国の姿でもある。

そう考えてみると、このアナトリアからイスタンブルへ出てきたボザ売りの人生を描いた通俗的な小説が、トルコという国の宗教や政治、因習的な家族関係、賄賂が横行し、やくざやマフィアが暗然とした勢力をふるう首都、などの深刻な話題を語る寓意的な小説にも見えてくる。どこの国にもそんな時代があるのだろうが、王政から共和政へと舵を切り、脱イスラムの旗を掲げ、西欧化へと突き進んできた現代トルコの状況は、敗戦後、新憲法の下、ひたすら先進国に追いつけ追い越せ、と走り続けてきた日本の姿にも重なって、他人事のようには思えない。

登場人物に纏わる挿話に活動家の暗殺や軍事クーデターといった史実を交えながら、メヴルトをとりまく状況は刻一刻と変化してゆく。駆け落ち後、義父に許され、めでたくライハと結婚したメヴルトには、娘も生まれる。サミハとの結婚を望んだスレイマンだったが、そのサミハはタクシーで乗りつけた男たちによって誘拐されてしまう。サミハをさらったのは民族主義者の襲撃事件以来姿を消していたフェルハトだった。二人の結婚によって、メヴルトとライハの間にサミハが入り込んでくる。

妻を熱愛しているメヴルトだが、フェルハトとはじめたスタンドでのボザ売りを姉妹が手伝うようになると、サミハが気になって仕方がない。ライハはライハでスレイマンから夫が恋文を書いていた相手は妹だったことを聞かされ、嫉妬に苦しむ。「妹に恋して姉と結婚した男」と皆から陰口されているメヴルトは自分につきまとう違和感について尊敬する導師に相談したいと思うのだが、導師の言葉によってもそれは解消しない。

小説や物語はあることをきっかけとして何かが変容することの仔細を描く。教養小説なら主人公はストーリーの進展と共に人間的に成長を遂げるところだが、メヴルトは変化しない。メヴルトを愛して止まない人々は彼を愛することで悩んだり苦しんだりするが、メヴルト自身は心の裡に違和感を抱きながらボザを売り続けるだけだ。むしろ変化してゆくのはイスタンブルの街だ。観光客がよく歩く旧市街は別として、アナトリア各地やその他の隣国から流入してくる人々で首都の人口は増大し、住宅地が急増。一夜建ての粗末な家は建て増しに次ぐ建て増しの果てに取り壊され、高層ビルが建ち、かつてメヴルトが住んでいたあたりはスラム化する。

今やハサンとムスタファの一族は、ボスフォラスの海を見渡す高層住宅の住人となっている。そこを一人抜け出し、メヴルトは今宵もまたボザ売りに出かけてゆく。人の心をかきむしるような彼の売り声を待つ人々のために。ゲニウス・ロキ(地霊)というものがある。変わり続けてゆくイスタンブルの裏町を昔ながらのボザ売りの売り声を響かせながら歩いてゆくメヴルトこそは政治や宗教によってその都度変化する国家ではない、開闢以来変わらない土地としてのトルコの地霊なのではないかと思えてくるのである。