marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『黄金の少年、エメラルドの少女』 イーユン・リー

黄金の少年、エメラルドの少女 (河出文庫)
結局は人間なのだろう、どんな面白い小説を読んだとしても、読後に残る充たされたという感じをあたえてくれるのは。イーユン・リーの小説が他の作家のそれと特別に変わっているわけではない。強い影響を受けたとされるウィリアム・トレヴァーの作品や、エリザベス・ボウエンのそれと比べても、共通する世界がそこにあるのを感じる。ひとつ異なるとすれば、作家の実年齢がある。人生経験を積んだ先輩作家に比べれば、リーはきわめて若い。その短い人生のどこを探ったら、こんなに深い陰影をもった人間が描けるのだろうか。

「優しさ」は、収録作の中で最も長く、ほとんど中篇といっていい作品だが、中篇という概念のないアメリカでは、優れた短篇に贈られるO・ヘンリー賞を受賞(2012年)している。しっかりとした輪郭のある一人の人間の人生を描こうとするには短編という形式は不向きである。限られた長さの中で強い印象をあたえようと思えば、思い出に残る人物より、よく練られたストーリーや完璧なプロットに頼りたくなる。O・ヘンリーの短篇がその見本である。

「優しさ」の主人公は末言(モーヤン)という四十一歳の独身女性。北京の外れにあるワンルームのアパートに住んでいる中学の数学教師。一人称視点で語られるモノローグめいた自己紹介で分かるのは、人と関わりを持たないで生きることに慣れた孤独な姿だ。よく誤解されるが、孤独というあり方自体には他人が思うほどさびしさも心細さもない。もちろん、孤独に生きる人の中にそう感じる人もいるにはちがいないだろうが、すべての人がそう感じているわけではない。人と余計な関わりを持たないでいることは、けっこう心安らかなものである。末言も、彼女に英語、英文学を教えてくれた杉(シャン)教授もそういう人であった。

「優しさ」は、末言の少女時代、十八歳で入隊した軍隊時代を中心に、他者に心を開かない彼女が、他者からもらった優しさについて回想する話である。五歳の時、やっと買ってもらえたひよこが死んだ。台所から盗んだ卵を割って中身を棄て、殻の中にひよこを入れようとしたが、ひよこは元には戻らなかった。「以来、人生はそういうものだと私は悟った。一日一日が、最後には殻に戻ろうとしないひよこみたいになるのだ」。五歳でこんなことを知ってしまう子は大きくなったどんな人になるのだろう。

末言の両親は年が離れていた。母は病気で寝ていて、父は用務員をしており、家は貧しかった。十二歳の時、牛乳の配給所に行く途中、杉教授に呼び止められ、部屋までいった。杉教授は、末言が両親の実子ではないことを教え、自身も孤児であったことを明かし、教育の支援者となった。毎日学校が終わると杉教授の部屋で教授の朗読するディケンズを聴き、ハーディーを聴き、D・H・ロレンスを聴いた。そのうち、教授が翻訳をやめても聞いていられるようになった。

軍隊では魏(ウェイ)少佐と出会う。不幸そうに見える末言に対し、何かと声をかけてくれるのだが、末言は頑なに心を閉ざし、魏少佐に他人行儀に接する。少佐は二十四歳で、入隊した頃、恋人と別れた経験があり、末言を同類だと思ったのだ。杉教授と出会ってなかったら、魏少佐と友人になれたかもしれない、と今の末言は思う。

十六歳の時、杉教授はこう言った。「心の中に誰かが入るのを許したとたん、人は愚かになってしまう。でも何も望まなければ何にも負けないの。わかった、末言?」。教授と同じアパートの住人で、時々話相手をしていた男の人が、離婚してこの土地を離れると聞かされた日だった。人は何故、自分を基準にしてしか、他人のことを慮れないのだろう。確かな出自を持たない者が生きていくには、そうするしかない、と杉教授は身をもって知っていたのだろう。善意からの言葉であるにしても、この言葉は人を縛りつける。

同じ年頃の女の子たちの軍隊での経験を語るところは、この作家にはめずらしく、華やいだ色あいに溢れ、寒さや雨といった悲惨な状況下にあっても、隠すことのできないユーモアが感じられる。杉教授とはちがった角度から末言の人生に触れ、その未来をより明るいものに向かせたいと考えた魏少佐。誰からも愛され、苦しみとは無縁の人生を送ってきたはずなのに、歌を歌わせると人の心をつかんでしまうほどの悲しみを歌うことのできる南(ナン)。英語版『チャタレー夫人の恋人』の中にある、あの部分にだけ印をつけて、とちゃっかり頼む潔(ジェ)等々、おそらく作家自身の入隊経験から拝借したのであろういくつかのエピソードは、この作品の中で唯一若さのもつあまやかさを感じさせてくれる部分だろう。

ディケンズ、ハーディー、ロレンスといった作家の本の中に生きる人々の世界のほうが、その中に入っていきやすい、と「私」は言う。それらは私と無縁だから、と。それでも、杉教授や魏少佐、軍で一緒だった女の子たちの声や姿は、いまも「私」の記憶の中に生き続けている。母の死の報せを受け列車に乗る末言を駅まで送ってくれた見知らぬ運転手の敬礼でさえも。なぜなら、「見知らぬ人の優しさはいつも記憶に残る。それは見知らぬ人の優しさが、結局はまさに時のごとく心の傷を癒してくれるからだ」。

年上の女性への思慕、同性に対して感じるかすかな情愛、あけすけに語られることのない秘められた感情が、さらりとした記述のなかからほのかににおい立つ。「優しさ」という言葉に置き換えられてはいるが、これは愛だろう。人から愛をもらいながらも、それを返すことをしてこなかった。だからこそ、それらの人に「借り」がある。すでに死んでしまっていても、魏少佐の顔や杉教授の朗読する声は、「私」の夢の中に、繰り返し繰り返し、あらわれるにちがいない。人に愛されながら、愛を返すことをしなかった人の物語。他に八篇の短編を含む。