marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『いにしえの光』 ジョン・バンヴィル

いにしえの光 (新潮クレスト・ブックス)
初老の男が遠い夏の日の初恋を思い出す。相手は友だちの母親。美しくも狂おしい過去の回想をさえぎるように、愛する家族を喪った記憶から立ち直れないでいる今の暮らしが挿入される、とくれば、あのブッカー賞受賞作『海に帰る日』を思い出す人も多いだろう。子どもの頃の習慣をなぞるように、大きくなった娘と海岸沿いをドライブする場面などほとんどそのまま使い回しだ。

数年前に発表し、賞までとった話題作に酷似したモチーフをあえて使って書かねばならないほど、材料不足なのか。それともまだ描き足りないものが残っていたのだろうか。たしかに、性への目覚めを主題の一つとした『海に帰る日』では、初めは遊び仲間である少女の母親に寄せていた関心を、早々とその娘に対する欲望へと切り替えることで、成熟した女性との性交渉に至る寸前で、危ういところを免れたような気配が漂っていた。

少年時代に萌した母親と同じ年頃の女性に対する強い執着が一種の強迫観念としてとり憑いているのだろうか。愛する家族と死に別れることへの恐怖が作家を捉えて離さないのだろうか。同一の主題、同種のモチーフに固執する作家は他にもいる。同工異曲というとたとえが悪いが、逆に言えば同じ材料で異なる作品をつくり上げるのだから、かなりの技術が必要となる。自信のない作家なら、まず手を出さない。自分の小説に対する並々ならぬ自負を感じる。

アレクサンダー・クリーヴは引退も考えている老舞台俳優。屋根裏部屋に籠もり、過去の思い出に浸っているところを電話で映画出演のオファーがあったことを妻に知らされる。近頃妻はキッチン、自分は屋根裏からめったに出ない。十年前に学者だった娘のキャスが自殺してからというもの、妻は悲嘆を抱えたままだ。キャスはリグーリア海岸に身を投じた時、妊娠していた。残されたノートにはスピドリガイロフという名で呼ばれる男の名があった。

映画はアクセル・ヴァンダーという言論人を主人公とするもので、「わたし」がその男を演じることになっていた。相手役は今を時めく人気女優。ところが、完成間近になってその女優が自殺未遂を起こす。娘のことを思い出した「わたし」は、気分回復にと女優をイタリア旅行に連れ出す。実は、キャスが自殺したころアクセル・ヴァンダーもまた、リグーリア海岸にいたのだ。偶然の一致といえばそれまでだが、気にはなる。その検証も兼ねてのイタリア行きだった。

傷ついた女優と老優の一風変わった逃避行が現在進行中の物語だが、『いにしえの光』という表題通り、話の主筋はミセス・グレイと「わたし」の出会いから別れに至る「ひと夏の経験」の方にある。町で眼鏡屋を経営する夫がありながら、息子の友だちである「わたし」に、裸でいるところを覗き見させたり、ステーションワゴンの中で「キスしたい?」と誘惑したり、とミセス・グレイは十五歳の少年には刺激的すぎる。

大きな街から引っ越してきたこともあって、田舎暮らしに退屈し欲求不満だったのかもしれない。しかし、グレイ家の洗濯室に敷いたマットの上で一度禁断の味を知ってしまった「わたし」は、ミセス・グレイに夢中になってしまう。それはそうだろう。男の子なら誰だって憧れる境遇だ。ステーションワゴンの後部座席で、後には林の中にある廃屋の中で、二人は愛し合う。性急で一途な少年の求愛に応えてくれる三十五歳のミセス・グレイの態度には、「わたし」ならずとも疑問を感じる。

自分で火をつけてしまったのだから、一度の過ちは仕方がない。しかし、狭い町のことだ。誰が見るかもしれない。夏休みの間中、人の目を盗んで逢い引きし、「わたし」の欲しがるままに体を与えるなど狂気の沙汰だ。しかし、林の中を流れる小川に足を浸し、木漏れ日を浴びて笑う裸のミセス・グレイには背徳の翳りが見えない。その幸せそうな様子を見ていると、夫人もまた二人の情事をただの火遊びとは考えていないのでは、とも思えてくる。

この二人の情交を描く筆は流麗かつ繊細で、何より官能的。文学は言葉でできているのだから当然といえば当然なのだが、雨音や雷鳴、光のうつろい、肌の色、皮膚のざらつき、匂い、それらを伝えるための工夫を凝らした比喩、と数え上げればきりがない描写のなんという美しさ。ポルノグラフィーとは対蹠的な文章によってはじめて描くことのできる性の営みのめくるめくような悦びがここにある。文章家で知られるというが翻訳でどこまでわかるものかと思っていたが、翻訳でも伝わるものは伝わるのだ。無論、村松潔の訳も素晴らしい。

いつまでも見ていたい夢のような夏も、季節がうつろえば、いつかは覚めねばならない。二人でいるところをビリーの妹に見られ、ミセス・グレイは姿を消してしまう。ミセス・グレイのその後を知りたいと思い続けてきた「わたし」の願いは結末近くで適うことになる。あの夏の奇蹟のような光あふれる日々が何故「わたし」に訪れたのか、その謎が解けることで、「わたし」の「彼女を充分に愛さなかった」「彼女はそのせいで苦しんだにちがいない」という思いは少しは癒されただろうか。

年若い読者にこそ読んでほしいのだが、いくら名文とはいえ、少々刺戟がきつすぎるかもしれない。それとも、今の若い人はこれくらいは刺戟とさえ感じないか。老いを迎えた男が、いたずらに過ぎた自分の過去を振り返りながら、滔々と流れる文章に酔い痴れるというあたりが無難なところか。