marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『夢遊病者たち』1・2 クリストファー・クラーク

夢遊病者たち 1――第一次世界大戦はいかにして始まったか
一・二巻を通してノンブルを打つやり方があることを初めて知った。全八百ページ強。読み応えのある本だ。第一次世界大戦がどのようにして起きたかを詳細に語るハウダニットの歴史書。一口に何が原因で起きたとか。どこの国の誰のせいで起きたなどと言い切れないのが戦争というものだろう。とはいえ、それまでの戦争という概念を大きく塗り替えた第一次世界大戦が如何にして起きたのか、それはぜひ知りたい。

各国に残る関係書類、政府要人の手記、君主間でやり取りされた手紙といった厖大な資料を収集選別し、同時期に関係する国と国で、どのような話し合いがもたれ、それがどのように相手国に伝えられたかを、読み解き、刻銘に書き記したのがこの本だ。まるで映画を見ているように、戦争に至る道筋で重要な役割を果たした外交官や政府首脳が、或いは自国の威信を賭けて恫喝し、或いは敗北の予感に泣き崩れる。

1914年6月28日。サライェヴォ訪問中のオーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子フランツ・フェルディナントがセルビア人の若者の手によって狙撃される。文字通り戦争への引鉄を引いたわけだが、バルカンをめぐる情勢はそれ以前から火種がくすぶっていた。強大な力を誇るオーストリア=ハンガリー二重帝国に隣接するセルビアは、ボスニア=ヘルツェゴヴィナの領有をめぐって、オーストリア=ハンガリー二重帝国に苦い思いを抱いていた。

時あらば、ボスニア=ヘルツェゴヴィナを取り戻そうという失地回復主義者が、黒手組などという時代劇にでも出てきそうな名前の秘密組織を作ってテロ活動を画策していた。政府を率いる首相ニコラ・パシッチは、それを知りながら汎セルビア国家建設という目的のため、あえて見て見ぬふりをしていた。秘密組織を牛耳るアビスは、ひそかに銃や爆弾を手配し、暗殺集団をボスニア=ヘルツェゴヴィナに送り込み、機会をねらっていた。

帝国の世継ぎを殺されたオーストリア側が、事件の背後にある組織の摘発をはじめとする厳しい条件を最後通牒としてセルビアに突きつけるのは理解できる。しかし、自分の国の君主でさえ殺してしまうセルビアという国が甘んじてそれを飲むとも思えない。問題は、この事件で漁夫の利を得ようとしていたのが、利害関係の深いバルカン諸国だけではないことだ。ドイツはオーストリア=ハンガリー二重帝国を後押しし、セルビアにはボスポラス、ダーダネルス両海峡の航行権を狙うロシアがついていた。

帝国主義の時代、各国は版図を広げるのに必死であった。少し前には、ドイツのリビア侵攻という事件があったばかり。ロシアはロシアで、大量の兵士や兵器を輸送する手段として鉄道建設を進めていた。オスマン帝国はイギリスに弩級戦艦を発注というように、互いの国が自国の防衛と領土獲得を目指して競い合っていた時代だ。敵の敵は味方、という図式そのままに、国境を共にする隣国を牽制するため、遠く離れたロシアとフランスが同盟を結ぶなど、複雑な地政学的問題が存在していた。

簡単に図式化すれば、ドイツをバックにしたオーストリア対ロシアを味方につけたセルビアの角逐に、三国協商でロシアと協商・同盟関係にある英仏がからむ関係となっていた。ただ、ドイツと直接関わりのあるフランスとは違い、海をはさんだイギリスは、直接的に利害のないヨーロッパ大陸の争いに、当初はどちらかといえば冷淡であった。英国の介入を迫るフランス駐英大使の切羽詰まった態度に対し、外相のエドワード・グレイの言質を取らせない優柔不断な姿勢は、いかにもイギリス人らしく煮え切らない。

栄華を誇ったオーストリア=ハンガリー二重帝国にも翳りが来ており、かつてのような威信が保てない。それは、オスマン帝国とて同じ。沈みゆく帝国に対し、新しく勢力を広げてきたドイツ、フランス、イギリス、イタリアなどの国との綱引きが繰り広げられる。一つの国といっても一枚岩ではない。急進的なグループもあれば、穏健な集団もいる。どちらが力を持つかによって、ヨーロッパの勢力分布の均衡を揺るがすことになる。外相や大使といった外交にあたる人物を中心に、戦争に至るまでの駆け引きを描く。クラークは、著名な人士の人物像を巧みに描くことで、ともすれば単調になりがちな歴史的記述を、読み物を読むように楽しませてくれる。しかも、その筆はバランス感覚にあふれ、どこかの国にだけ責任を押し付けようとするようなところがない。

ディストピア小説が流行しているという。独裁者的な政治家が実権を握った国家においては、ある意味当然のことかもしれない。いつ小説が実体化しても不思議ではないからだ。自国ファーストを謳い、移民や難民を排除しようとする勢力の台頭も目立つ。第一次世界大戦前の時代を描いた史書ながら、今読むにふさわしい本である。ヨーロッパ中を巻きこむことになる戦争に対し、どちらかといえば躊躇していた君主や政府首脳を、何も知らない国民が一時の愛国的な熱狂で、一歩も引けぬところまで追い詰めていった過程が手に取るようにわかる。

歴史に「もし」はないというが、関係者の手になる自分勝手な解釈や、専横、逸脱、怠惰などのうち、たった一つが「もし」なかったら、あの悲惨な大量の犠牲者を生んだ第一次世界大戦はなかったかもしれない。あの時、あの人物を国家の舵取りに選んでいなければ、災いは避けられたかもしれない。読んでいて、何度もその考えが頭をよぎった。過去の話ではない。事態を戯画化し、想像の世界に遊ぶのもいい。鍛え上げた想像力で現実を読み解くのもいいだろう。しかし、地道に過去を振り返り、過去に学ぶこともそれに劣らない、今を生きる生き方ではないのだろうか。読みやすい本ではないが、読むに値する本である。