marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』第六章(4)


《ガイガーは車のライトを点けていた。私は消していた。曲がり角のところで速度を上げて追い越すとき、家の番号を頭に入れた。ブロックの終点まで行って引き返した。彼はすでに車を停めていた。下向きにされた車のライトが小さな家の車庫を照らしていた。四角く刈り込まれた生垣が正面扉を完全に隠していた。私は彼が傘をさして、車庫から出て生垣を通り抜けるのを見守った。彼は誰かにつけられているなどと微塵も感じていない素振りだった。家に明かりが点いた。私は坂をすべり下り、上手の隣家につけた。空き家のようだが、看板は出ていない。車を停め、コンバーチブルに外気を入れると、瓶から一口飲み、座ったままでいた。何を待っているのか分からなかった。何かが待つように告げていた。例によって、緩慢な時間の大軍がのろのろと脇を過ぎていった。》

この段落はほぼ異同がない。「下向きにされた車のライトが小さな家の車庫を照らしていた」のを、双葉氏は「車の灯火が、小さな家の車庫の中にぼんやり見えた」と訳している。村上氏は「車のライトは下向きに、小さな家のガレージを照らしていた」だ。ティルトという単語はハンドルなどにも使われているので、上下に移動する物という受け止め方でいいと思う。「ぼんやりと」はハイビームでないことを意味する意訳だろう。<be+過去分詞>の受動態なので、「下向きにされた」と訳してみた。両氏とも、出来る限り、語順を原文通りに訳そうとされている。それを踏襲するなら、「車のライトは下向きにされ」とするのも可。

「例によって、緩慢な時間の大軍がのろのろと脇を過ぎていった」の部分。原文ではだ。この、いかにもチャンドラーらしい一文を、双葉氏は「時間は、のろのろした軍隊の行進みたいに流れた」、村上氏は「一分一分が、ものぐさな軍隊の行進のように、再び私の前を通り過ぎていった」と、両氏とも暗喩を直喩に代えて訳している。原文に忠実にというなら、直喩は直喩として暗喩は暗喩として訳すことにこだわりたい。また、<an army of+名詞>には「〜の大軍、大ぜいの〜」の用例がある。わざわざ「軍隊の行進」と訳す必要があるとも思えない。ここでは、マーロウはひたすら待ちの姿勢を余儀なくされる。その気分を強めるため「例によって」と訳してみた。

《二台の車が丘を登ってきて峰を越えていった。とても静かな通りのようだ。六時を少しばかり回った頃、明るい光が土砂降りの雨を透して跳ねた。その頃には漆黒の闇になっていた。車はゆっくりとガイガーの家の前に止まった。フィラメントの光が次第に薄暗くなり、やがて完全に消えた。ドアが開き、女が出てきた。小柄でやせた女で、ヴァガボンド・ハットに透き通ったレイン・コートを着ていた。彼女は箱形の迷路の中を通り抜けた。ベルがかすかに鳴り、光が雨を通し、ドアが閉まり、やがて静寂。》

雨はまだやまない。人通りも明かりもない通りで何かを待つマーロウ。やがてお目当ての車がやってくる。「明るい光が土砂降りの雨を透して跳ねた」は、原文では<bright lights bobbed through the driving rain.>。<bob>は何かがひょこひょこ上下動する動きのこと。双葉氏は「明るいヘッドライトが浮かびあがった」と訳す。村上氏はいつものように丁寧に「一対の明るいライトが上下しながらやってきた」だ。確かに前照灯は一対あるに決まっているが、そこまで複数にこだわらなくても、と思ってしまう。真っ暗な山道を車の明かりが上下動を繰り返しながら近づいてくる。その感じを短い文で伝えるには工夫がいる。

ヴァガボンド・ハットは40年代から50年代にかけて流行した帽子で、クラウンが高く角ばった、中折れ帽の形を崩したような帽子のこと。註も使わずに訳すのは難しいからか、両氏とも「レイン・ハット」と訳している。仕方のないことかもしれないが、「ヴァガボンド(放浪者)」という言葉はマンガのタイトルに使われるくらいには定着している。そのままにしておいても漠然としたイメージは浮かぶかもしれない。