marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』第六章(7)

《私は橋の横についている柵を跨ぎ、フレンチ・ウィンドウの方に身を乗り出した。厚手のカーテンが引かれていたが網戸はついていない。カーテンの合わせ目から中を覗いてみた。壁のランプの明かりと書棚の片隅が見えた。私は橋に戻り、垣根のところまで行くと、肩に全体重をかけて玄関ドアにぶつかった。ばかだった。カリフォルニアの家で、そこを通って中に入ることの出来ない、おそらく唯一つの場所が玄関だ。肩を痛め、腹が立っただけだ。私は再び柵を跨ぎ越し、フレンチ・ウィンドウを蹴った。帽子を手袋代わりに使い、下側の窓ガラスの大半を引き抜いた。そして中に手を伸ばして窓を敷居に固定している掛け金を外した。残りは簡単だった。上側に掛け金はなかった。留め金が開いた。私はよじ登って中に入り、顔にかかったカーテンをはがした。/部屋にいた二人のうちのどちらも、私の入り方を気にも留めなかった。もっとも、そのうちの一人は死んでいたのだが。》

このパラグラフは問題ありだ。まず、書き出しのところ。双葉氏は「私は板敷のどんづまりの柵をまたぎ、雨で曇ってはいるが、カーテンはおりていないフレンチ・ドアのほうへからだを伸ばし、雨滴が固まってガラスの曇りを消している個所から内部をのぞいた」と訳している。少し長くなるが原文を紹介しておこう。

<I straddled the fence at the side of the runway and leaned far out to the draped but unscreened French window and tried to look in at the crack where the drapes came together.>。まず、柵のあるのは<side>(わき、横)であって、「どんづまり」ではない。次に、こちらは深刻だが、フレンチ・ウィンドウには<unscreened>つまり、スクリーン(網戸)がないのであって、「曇っている」のではない。これは完全に誤訳だろう。「雨で曇っている」と誤訳したのがあだとなって、<at the crack where the drapes came together>という単純な部分を複雑に誤訳する羽目となった。「ドレイプ」は厚手の生地でできたカーテンで、複数であることから両側についていると分かる。ルー大柴の「トゥギャザーしようぜ」ではないが、対のカーテンが両側から引かれたその合わせ目にできたクラック(割れ目)のことだ。双葉氏ほどのベテランでも、一度思い込んでしまうと、それに引きずられて辻褄合わせをやってしまう。この雨滴は、後でもう一度誤訳の手伝いをしている。そこを見てみよう。

<I climbed in and pulled the drapes off my face.>(私はよじ登って中に入り、顔にかかったカーテンをはがした)のところだ。双葉氏は「私ははいり、顔の雨滴をふいた」と、またしても「雨滴」を使っている。これは想像だが、双葉氏、<drapes>を<drips>と読み間違えたのではないだろうか。それなら、こうまでしつこく雨滴が登場してくる理由が分かる。もちろんここでは、閉じられていた厚手のカーテンが侵入者の邪魔をするのをきらって払いのけただけのことだ。

村上氏は「私は敷居を乗り越えて中に入り、顔にかかったカーテンを払った」と訳している。双葉氏も、あっさり「入り」と訳している。ここで、気になるのは<climbed>のことだ。フレンチ・ウィンドウというのは、開け放したらそのままポーチに出られるように、床まで続く観音開きの窓のことだ。しかし、ガイガーの家にポーチはない。どういう構造になっているのだろうか。おそらく、村上氏も訳し様に困って、「敷居を乗り越えて」としたのだろう。しかし、たかだか敷居をまたぐだけのことに、<climb>(手足を使って上る、はい上がる)は、いささか大げさではないか?

ここからはまったく想像の域を出ないが、ガイガーの家は、もしかしたら建売住宅で、デザインはどの家も一定だったのではないか。普通ならポーチに続くはずのフレンチ・ウィンドウの前がガイガーの家の場合平地になっていなくて、かなり深い谷のような空間が開いている。それで玄関に続くアプローチ代わりに柵のついた橋をつけてあるのだろう。となると、柵を乗り越えて窓の中に入り込むために、侵入者は体をその空間に曝す必要が出てくる。それが<climb>という語を使う理由ではないだろうか。

村上氏が柴田元幸氏との対談のなかで、翻訳するということは熟読することだ、というような意味のことを話していたのを覚えている。日本語訳だけを読んでいたら、こんなことを考えたりは絶対にしないだろう。力もないのに翻訳をしてみようと思うのは、細かな部分にまで目が届くところに愉しさを感じるからに他ならない。