marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第八章(4)

《それは警官ではなかった。警官なら今頃まだここで、死体の場所を示す紐やチョーク、カメラ、指紋採取用粉末、安葉巻などを手に動き回っている最中だ。人っ子一人いないではないか。殺人犯でもない。彼の逃げ足は速かった。彼は娘を見たにちがいないが、自分をしっかり見るには頭がいかれていたことは知りもしない。今頃は遠くに行っていることだろう。うまい答えを思いつかないが、ガイガーが殺されることより姿を消す方を誰かが望んでいたのなら私にとって都合がいい。カーメン・スターンウッドの名前を出さずに調査をする機会が与えられたわけだ。私はもう一度鍵をかけ、チョークを引いて車を甦らせ、家に帰った。シャワーを浴び、乾いた服を着て遅めの夕食をとった。そのあと、アパートのあちこちに座っては多過ぎるほどのホット・トディを飲み、ガイガーの青い索引付きノートにあった暗号を解いてみた。おそらく顧客のものと思われる名前と住所のリストだ。四百を超えていた。いい商売だ。強請の手段であることは言うまでもない。おそらく多くが使われただろう。リスト上のどの名前も殺人犯の可能性がある。それを手渡された警官の仕事を羨む気にはなれない。
 私はたっぷり飲んだウィスキーと満たされない思いを抱いてベッドに行った。そして夢を見た。血まみれの中国服の男が細長い翡翠のイヤリングをした裸の娘を追いかけている間、私は写真を撮ろうと追いかけていたが、手にしたカメラは空だった。》

マーロウが推理を披歴しているところ。ひねくった文章が並んでいて訳すのが厄介だ。まず、<They would have been very much there.>をどうするか。<They would have been>という「仮定法過去」を表す文が二回繰り返して用いられている。「もし過去が実際とちがっていたら……」というのが「仮定法過去」。しかし一度起きてしまったことは変わらないから、書いてある諸々の事象は実際には起きていないことになる。

つまり、「(もし、ガイガーの死体を運び去ったのが)警官なら今頃まだここで、死体の場所を示す紐やチョーク、カメラ、指紋採取用粉末、安葉巻などを手に動き回っている最中だ」というのは、マーロウの頭の中だけにある、本当はありえない光景である。では、その後に来るもう一つの「仮定法過去」である<They would have been very much there.>を、両氏はどう訳しているのか。

双葉氏は素直に「人数も多いだろう」としている。村上氏は「これほど素早く引き上げるはずがない」と、大胆な意訳を試みている。「仮定法過去」を使う場合、言外に意味があるので、そのまま訳しては芸がない。(もし警官がそんなことをやっているとしたら、さぞかし)「人数も多いだろう」という意味だが、言外にあるのは「実際は誰もいない」ということが言いたい訳だ。そこで、「人っ子一人いないではないか」と訳してみた。

「チョークを引いて車を甦らせ」は<choked my car to life>。プロレスなどでもよく使う<choke>は「窒息させる」の意味だ。エンジン内に入る空気を少なく(窒息)することで、ガソリンの混合比率が高まり、燃焼率が上がることから、エンジンが冷えた状態の車のスタート時にチョーク・レバーを引くことは、一昔前にはよくあった。今では自動化されていて、レバー自体が存在しない。双葉氏の時代でも「車にエンジンをかけて生き返らせ」としている。村上氏に至っては「車のエンジンをスタートさせ」だ。夜の雨で冷え切った車は簡単にエンジンはかからない。ここは「チョークを引いて車を甦らせ」てやりたいところだ。

「そのあと、アパートのあちこちに座っては多過ぎるほどのホット・トディを飲み、ガイガーの青い索引付きノートにあった暗号を解いてみた」は<After that I sat around in the apartment and drank too much hot toddy trying to crack the code in Geiger’s blue indexed notebook.>。「ホット・トディ」は、ウィスキーなどに甘味料とレモンを加え、湯で割った飲み物。風邪に効くという触れ込みの冬用飲料。案の中を歩き回ったマーロウだ。風邪予防も考えていつものライ・ウィスキーではなく、温かいものが飲みたかったのだろう。

双葉氏は「ホット・ウイスキー」としている。村上氏は「ホット・トディー」。実は調べてみて分かったのだが、「ホット・トディ」が某局の朝ドラに登場したことがあるらしい。スコットランド生まれの女性が国産ウイスキーを作ろうと奮戦中の日本人の夫に飲ませるために作ったものだ。実は毎朝視聴していたはずなのにすっかり忘れてしまっていた。それなら、耳慣れない飲み物でも訳注なしでいけると踏んだのだ。

めずらしいことに村上氏はここを「それから座って、ガイガーの索引付きの青いノートブックに記された暗号を解こうとして、ホット・トディーを飲みすぎることになった」と訳している。<around in the apartment >を訳さずに済ませている。双葉氏は意訳して「それからのんびりとくつろぎ、ホット・ウイスキーを飲みながら、ガイガーの青い帳面の暗号を解きにかかった」としている。まあ、細かいところをカットするのはいつものことだが、<too much>は、後でもう一度言及されることになる。

<I didn’t envy the police their job when it was handed to them.>をどう訳すか?<envy>は「羨む、嫉む」の意味である。双葉氏は「この名簿を警察に渡したら、いろいろなことをたぐり出すだろうが、そんな仕事はちっともうらやましくない」と意を尽くして訳している。村上氏はどうだろう。「そのノートが警察に渡ったときのことを考えると、警官たちに同情しないわけにはいかなかった」と、こちらもその意を汲んで訳している。「それを手渡された警官の仕事を羨む気にはなれない」は、ほぼ直訳。ここは両氏のように解きほぐして訳すのが本当かもしれない。

「私はたっぷり飲んだウィスキーと満たされない思いを抱いてベッドに行った」と訳したところは<I went to bed full of whisky and frustration>。双葉氏は「私はウイスキーに満腹して、ベッドに入った」。村上氏は「私はしこたまウィスキーを飲み、晴れない心でベッドに入った」だ。双葉氏は相変わらずフラストレーションを無視している。村上氏は「晴れない心」と文学的。雨に打たれたことを皮肉っているのかもしれない。風邪の予防も兼ねて飲んだホット・トディの中に入っていたウィスキー。お湯割りということもあり、飲みすぎたのだろう。酒量の多さに比べて分かったことが少なすぎ、マーロウの心はフラストレーションの塊だろう。悪夢に悩まされるのももっともだ。