marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第九章(3)

《彼はドアに鍵をかけ、職員用駐車場に降りると、小さなブルーのセダンに乗り込んだ。我々はサイレンを鳴らして信号を無視し、サンセット・ブルバードを駆け抜けた。爽やかな朝だった。人生をシンプルで甘美なものに思わせるに足る活気が漂っていた。もし胸ふさぐものさえなければ。しかし、私にはあった。
 湾岸沿いのハイウェイをリドまで三十マイルほど走った。初めの十マイルは交通量が多かった。オールズはそれを四十五分で走り抜けた。最後は、色褪せたスタッコ塗りのアーチの前に横滑りして止まった。私は床から足を引き剥がし、車の外に出た。アーチから、白い木の柵がついた長い桟橋が海の方に伸びていた。桟橋の尽きるところで人の群れが海の方に身を乗り出していた。アーチの下には別の群衆を桟橋の外に出さないようにオートバイ警官が立っていた。車はハイウェイの両側に停められていた。いつもながらの死体に群がる餓鬼どもだ。男もいれば女もいる。オールズはオートバイ警官にバッジを見せ、我々は桟橋に向かった。昨夜来の豪雨でも消すことができない鼻をつく魚の匂いの中へと。
「あそこにある――動力付きの艀(はしけ)の上だ」オールズが小さい葉巻で指しながら言った。
 低く黒い艀が桟橋の突端の杭にうずくまるように身を寄せていた。タグボートみたいな操舵室がついた甲板の上で何かが朝の陽光に眩しく輝いていた。まだ、引き揚げ用の鎖を巻きつけたままの、クロム部品がついた大きな黒い車だ。ウインチのアームはすでに元の位置に戻され、甲板と同じ高さまで下ろされていた。男たちが車の周りに立っていた。我々は、滑りやすい階段を甲板へと下りていった。
 オールズは緑がかったカーキの制服を着た保安官代理と平服の男に声をかけた。艀のクルーが三人、操舵室の前に寄りかかって噛み煙草を噛んでいた。そのうちの一人は汚れたバスタオルで濡れた髪をこすっていた。チェーンをかけに水の中に入った男なのだろう。
 我々は車を眺めた。フロント・バンパーは曲がり、ヘッドライトが一つ割れていた。もう一方は上の方に曲がってはいたがガラスは割れていなかった。ラジエター・シェルは大きくへこんでいた。車のあらゆる箇所で塗装やメッキに引っ掻き傷がついていた。内装は水を吸って黒ずんでいた。タイヤだけは損傷を免れているようだった。
 運転手はまだステアリング・ポストにもたれかかったままで頭が不自然な角度で肩にかかっていた。細身で黒髪だった。少し前までは美青年で通っていただろうが、今は青白い顔に垂れた瞼の下で眼にかすかな鈍い光を浮かべ、開けた口に砂がつまっていた。額の左側には鈍い打撲の痕があり、白い肌に対して目立っていた。
 オールズは喉を鳴らして後ろに下がり、小さな葉巻にマッチで火をつけた。「どういうことになってるんだ?」
制服を着た男が桟橋の端にいる野次馬を指さした。そのうちの一人が白い木の柵が壊れ、大きく開いた部分を指で触っていた。木の裂け目はきれいな黄色で伐りたての松のようだった。》

「爽やかな朝だった。人生をシンプルで甘美なものに思わせるに足る活気が漂っていた。もし胸ふさぐものさえなければ」は、<It was a crisp morning, with just enough snap in the air to make life seem simple and sweet, if you didn’t have too much on your mind.>。このあとに、< I had.>が来る。双葉氏は「さわやかな朝だ。気にかかることがあまりなければ、人生の素朴さと甘美さとをたっぷり味わえる気持のいい空気のにおいだった」と訳している。村上氏は「さわやかな朝だった。人生を単純で甘美なものにしてくれるだけの活気が、空気の中にあった。もし心に重くのしかかるものがなければということだが」だ。

空気の中にあったのは<snap>。双葉氏は「におい」と意訳しているが、この言葉にはそんな意味はない。それに、今いるのは車の中だ。片時も葉巻を手から離さない男と一緒にいて、そんなにおいが分かるものだろうか?それにこれは村上氏にも言えることだが、<in the air>を「空気の中に」と文字通り訳してしまうと、オールズの車の中に、その活気があるということになる。窓が開いていれば周りの空気と通い合ってはいるだろうが。ここは「(気配・雰囲気・匂いなどが)漂って」という意味にとりたいところだ。

「私は床から足を引き剥がし、車の外に出た」を双葉氏はカットしている。当たり前だと思ったのだろう。その前の部分をどう訳しているかが問題になる。双葉氏は「最初の十マイルは乗物の波だ。オウルズは四十五分ほど車を走らせた」としている。では、その四十五分間のドライブはどんなものだったのだろうか?村上氏の訳を見てみよう。「最初の十五キロ余り、道路は混雑していた。しかしオールズはそこを四十五分で走りきった。その荒っぽいドライブの末」、車は多分盛大に横滑りして止まったのだ。マーロウは車の中でブレーキを踏む代わりに足を床に突っ張っていたはずだ。何気ない一文に、オールズの運転の荒っぽさが表れている。チャンドラーの文章で不要な部分などない。

「いつもながらの死体に群がる餓鬼どもだ。男もいれば女もいる」は<the usual ghouls, of both sexes.>。双葉氏は「おきまりの野次馬だ。男も女もだ」。村上氏は「例によって血に飢えた野次馬だ。そこには男女の区別はない」。<ghoul>は「グール」。アラブの民間伝承で、死体を食う怪物。日本語に訳すと「食屍鬼」だが、そう書いても何のことやら分かるまいと思い、馴染みの深い「餓鬼」を使用した。いつも飢えていることと子どもを食べるという説もあるので、単なる「野次馬」より「グール」に近いかと思ってのことだ。因みに女性の「グール」もいて、その場合は「グーラ」と呼ばれる。<the usual ghouls, of both sexes.>にはそういう意味が込められているのだ。

「運転手はまだステアリング・ポストにもたれかかったままで頭が不自然な角度で肩にかかっていた」は<The driver was still draped around the steering post with his head at an unnatural angle to his shoulders.>。双葉氏は「運転していた男は頭を不自然な角度で肩のほうにまげた姿勢で、運転席に布をかぶせたまま、放置されていた」と訳しているが、これは誤り。<draped>を「布で覆われた」と解したのだろう。ここは正体をなくしてしなだれかかっている、と読むべきだ。村上氏も「運転していた男はまだハンドルの上にだらりと覆い被さっていた」としている。

さらにもう一つ。<dull bruise>「鈍い打撲の痕」を双葉氏は「鈍器でつけられたような擦り傷」としている。<dull>(鈍い)からの連想だろうが、この時点でそこまで書くのは飛躍のし過ぎというものだろう。村上氏は「鈍い色合いの傷跡」としている。皮膚の白さとの比較がその後に来ているところから見て、ここは青あざのような鈍い色が皮膚上に現れた痕と見る方が適切である。