marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第十一章(3)

《「オーウェンは昨夜あなたの家の車で何をしていたんだろう?」
「誰にも分からないでしょうね。許可なしにしたことだから。私たちはいつも仕事のない夜には彼に自由に車を使わせていたの。でも、昨夜は彼は休みじゃなかった」彼女は口を歪めた。「もしかして、あなた――?」
「彼はこのヌード写真のことを知っていたか?私に分かるはずもない。ただ、彼がこの件に絡んでる可能性はある。今すぐ現金で五千ドルが用意できるかい?」
「父に話さないと無理――それとも借りるか。多分エディ・マーズから借りられると思う。人には言えないけど、彼は私に大きな借りがあるの」
「やってみた方がいい。急に必要になるかもしれない」
彼女は椅子の背に凭れ、片方の腕を背もたれの後ろに垂らした。「警察に話した方がいい?」
「いい考えだ。が、あなたはしないだろう」
「しないと思う?」
「しない。あなたはお父さんと妹を守らなければならない。警察を呼べば何が出てくるか知れたもんじゃない。隠しておけない何かかもしれない。脅迫事件の場合、警察は普通そうしようとするものだが」
「あなたなら何かできそう?」
「できると思う。しかし、何をどうするかは言えない」
「あなたのこと気に入ったわ」彼女は突然言った。「奇跡を信じているのね。オフィスには何か飲むものは置いてないの?」
私は深い抽斗の鍵をあけ、オフィス用のボトルとリキュールグラスを二個取り出した。私はそれに酒を注ぎ、我々は飲んだ。彼女は音を立ててバッグを閉め、椅子を後ろに下げた。
「五千ドルを調達しに行くわ」彼女は言った。「私はずっとエディ・マーズの上客だった。彼が私に親切にするのには、あなたが知らなくていい別の理由があるの」彼女は私に微笑んだ。眼に届いたときには唇は忘れてしまっていたという感じで。「エディの金髪の奥さんというのが、ラスティと一緒に逃げた女なの」
私は何も言わなかった。彼女はじっと私を見つめ、つけ加えた。「面白いと思わない?」
「彼を見つけ易くなるはずだ――もし、私が彼を探しているなら。あなたは彼がこの騒動に一枚噛んでいると思っていないでしょう?」
彼女は空のグラスを私の方に押しやった。「もう一杯ちょうだい。厄介な人ね。あなたからは何も聞き出せない。耳一つ動かさないんだから」
私は小さなグラスに酒を注いだ。「あなたは欲しかったものをすべて私から手に入れた――おおよその察しはついたはずだ。私があなたの夫を探していないと」
彼女は一気に飲み干した。それが彼女に息をのませた――或いは息をのむ機会を与えた。そしてゆっくり息を吐いた。
「ラスティは悪党じゃなかった。もし、以前はそうだったとしても、はした金のためにやってたわけじゃない。彼は札束で十五万ドルを持ち運んでいた。いざという時の金だと言って。私と結婚した時も、私を置いて出ていった時も彼はそれを持っていた。いいえ――ラスティはこんなケチな強請りはしない」
彼女は封筒に手を伸ばし、立ち上がった。「連絡を絶やさないようにしよう」私は言った。「もし私にメッセージを残しておきたかったら、アパートの電話交換手が対処してくれる」
我々は歩いてドアの外に出た。彼女の拳は白い封筒を軽く叩いていた。彼女は言った。「まだ私には言えないと思ってる。父に――」
「先に彼に会う必要がある」
彼女は写真を取り出して、立ったまま見入った。ちょうどドアの手前だった。「美しく可愛い体をしてる。ちがう?」
「ああ」
彼女は少し私に凭れかかって「私のを見るべきよ」と重々しく言った。
「都合をつけられるのかな?」
彼女は突然笑い出すと、ドアを通りかけたところで急にこちらに向き直り、冷たく言った。
「あなたは私がこれまであった中でいちばん冷血の獣よ、マーロウ。それとも、フィルって呼んでもいいかしら?」
「どうぞ」
「私のことはヴィヴィアンて呼んで」
「感謝します。ミセス・リーガン」
「地獄へ落ちるといい。マーロウ」彼女は出て行き、振り返ることはなかった。》

「隠しておけない何かかもしれない。脅迫事件の場合、警察は普通そうしようとするものだが」は<It might be something they couldn’t sit on. Though they usually try in blackmail cases.>。双葉氏は後半の文をカットして「なにかえらいことが露見するかもしれない」とだけ訳している。村上氏は「それは世間に伏せておけないことかもしれない。恐喝事件に関しては警察は通常、守秘を重んずるように努めてはいるけれど」と原文に忠実な訳になっている。

「あなたは彼がこの騒動に一枚噛んでいると思っていないでしょう?」は<You don’t think he’s in this mess, do you?>。双葉氏は「ラスティ氏がこんどの件にからんでいるとは思いませんか?」と訳しているが、付加疑問文の訳になっていない。村上氏は「彼が今回の騒ぎに関わっているとは思っちゃいないでしょう?」だ。

「彼女は一気に飲み干した」は<She put the drink down very quickly.>。双葉氏は「彼女は非常な速さでグラスを置いた」と訳している。そう訳しても無理はない。<put>は「置く」と誰でも知っている。しかし、そう訳すと次の「息をのむ」にうまく続かない。いくら急いで動いたところで、グラスを置いたくらいで、息をのむことはないだろう。おまけに<drink down>は「飲み干す」の意味だ。村上氏も「彼女は性急に酒を飲み干した」と訳している。

「いざという時の金」は<mad money>。「(不時の出費・衝動買い用の)金」の意味。双葉氏は「あぶく銭」と訳している。「女性がデートの時男性と喧嘩してもタクシーで家に帰れる程度の金」という説もあるから、そちらの方を採用したのかもしれない。村上氏は「非常用現金」と書いて「マッド・マネー」とルビを振っている。こういう時、ルビという書式を持っているのはつくづく便利だと思う。

「地獄へ落ちるといい」は<Oh, go to hell>。よく使われる罵り言葉だ。「くたばれ」などと訳されることが多い。しかし、スターンウッド家のご令嬢に「くたばれ」と言わせるのも気が引ける。双葉氏もそのまま訳して「地獄へでも行くといいわ」だ。村上氏は「あんたなんかくたばればいいのよ」と、やはり語調を柔らかくしている。まあ、どう訳しても構わないようなものだが、ヴィヴィアンという女性の気の強さは出したいところだ。