marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第十一章(4)

《私はドアが閉まるにまかせ、そこに添えた手を見つめながら立っていた。顔が少し火照っていた。私は机に戻り、ウィスキーをしまい、二つのリキュールグラスを水ですすぎ、それもしまった。
 電話にかぶせていた帽子をとり、地方検事局にかけ、バーニー・オールズにつないでもらった。
 彼は小部屋に戻っていた。「なあ、老人はそっとしておいたよ」彼は言った。「執事の話では、彼か娘の一人が彼に話すだろうとのことだ。オーエン・テイラーはガレージの二階に住んでいた。それで持ち物を調べてみた。アイオワのダビュークに両親がいる。そこの警察署長に電報を打って、両親の意向を打診中だ。費用はスターンウッド家が支払うそうだ。
「自殺か?」私は訊いた。
「分からない。何の書き置きもなかった。車を使う許しも得ていない。昨夜はミセス・リーガンを除いてみな家にいたんだ。彼女はラリー・コボっていう遊び人とラス・オリンダスに出かけていた。裏は取れている。ディーラーの一人を知ってるんだ。
「あの手の悪党どもの賭博はやめさせるべきだろう」私は言った。
「シンジケートあってのこの国じゃないか?大人になれよ、マーロウ。野郎の頭の打撲痕が気になるんだ。それについて、あてになる手がかりはないんだろうな?」
彼の言い方が気に入った。実のところ嘘を言わずに断れるからだ。電話を切って、オフィスを出た。夕刊を三紙すべて買って、タクシーで裁判所まで行き、駐車場から自分の車を出した。どの新聞にもガイガーの件は載っていなかった。私は彼の青いノートを見直したが、暗号は昨夜と同じように手に負えなかった。》

「彼は小部屋に戻っていた」は<He was back in his cubbyhole.>。双葉氏は「彼は穴蔵に帰っていた」。村上氏は「彼は自分の狭いオフィスに戻っていた」だ。<cubbyhole>は「こぢんまりして気持ちのよい部屋」というような意味だが、オールズの専用オフィスを指している。部屋の狭さを評して、次から次へとちがった表現を繰り出すチャンドラー。ただ、<cubbyhole>には、以前同じ場所をオールズが自己卑下して言った<hutch>ほどの貶める意味はない。それは誰の口から語られるかで意味がちがってくるからだ。

前にも書いたことだが、未だに宮仕えの身であるオールズが、自分専用オフィスの狭さを謙遜して<hutch>(ウサギ小屋・檻)と呼ぶのは、ユーモアを感じるが、オフィスの他に応接室を持つ個人事業主であるマーロウが同じ言葉を使えば侮蔑的な意味がそこに加わる。だからこそ、かつての同僚であるマーロウは同じ場所を<cubbyhole>と呼んだのだろう。その温度差を訳にも求めたいものだ。「穴蔵」も「狭いオフィス」も、<cubbyhole>の持つ、「小さいが居心地のいい」というニュアンスを無視しているように思える。その意味では「小部屋」という訳も必ずしも適訳とは思えないが、馬鹿にしている感じは与えない。

アイオワのダビュークに両親がいる」は<Parents at Debuque, Iowa.>だ。双葉氏は「両親はアイオワ州のデュビュックにいる」。村上氏は「両親はアイオワ州のデビュークに住んでいる」としている。因みに、ウィキペディアその他では、<Debuque>は「ダビューク」となっている。双葉氏の「デュビュック」も村上氏の「デビューク」もヒットしない。双葉氏は昔の地図の表記によったのかもしれないが、村上氏の訳は最近のものだ。どうしてこんな馴染みのない表記にしたものか、よく分からない。

「あの手の悪党どもの賭博はやめさせるべきだろう」は<You ought to stop some of that flash gambling>。双葉訳では「あのインチキ賭博は禁止したほうがいいな」。村上訳は「そういう高級賭場は当局が取り締まるべきだろう」だ。形容詞としての<flash>には、1.(けなして)「けばけばしい、派手な」、(英)「現代風の、格好いい」2.「にせ物の、偽造の」3.(俗)「悪党どもの」の意味がある。双葉氏の訳は2もしくは1の意を汲んでいるし、村上氏のそれは1(英)の意味だろう。あえて3の意味にしたのは、次に出てくる<syndicate>につなげるためだ。

「シンジケートあってのこの国じゃないか」は<With the syndicate we got in this country?>。双葉氏は「組合があるっていうのにか?」。村上氏は「犯罪シンジケートがはびこっているこの国でかい?」だ。<syndicate>は、悪名高い組織暴力団を意味することもあるが、一般的に企業組合「連合」や大学評議会その他を表すことも多い。双葉氏の訳はそちらを意味しているのだろう。村上氏はズバリ、犯罪シンジケートととっている。でも、どうだろう?オールズは言外に犯罪組織のそれを匂わせながら、表面では各種シンジケートについて述べているふりをしている、ともとれるのではないだろうか。そういう意味で訳してみた。(第十一章了)