marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第十二章(3)

《利口ぶるのはやめてくれ。お願いだ」私は彼女に強く言った。「ここは、ちょっと古臭いが率直さの出番だ。ブロディが彼を殺したのか?」
「殺したって、誰を?」
「くそっ」私は言った。
彼女は傷ついたようだった。彼女の顎が一インチほど下がった。「そう」彼女は真面目くさって言った。「ジョーがやった」
「どうして?」
「知らない」彼女は首を振った。自分自身に知らないと言い聞かせているように。
「最近彼にはよく会ってたのか?」
彼女の両手は下に下りていき、二つの小さな白い結び目を作った。
「一度か二度見たきりよ。私、あいつが嫌い」
「それなら彼がどこに住んでいるか知っているね」
「ええ」
「そして、今では君はもう彼のことが好きではない?」
「だいっ嫌い!」
「それで、君は彼を困らせてやりたいんだ」
また少しぼんやりした顔になった。私の話の進め方は彼女には速すぎた。だが、そうしないのは難しい。「警察にジョー・ブロディの仕業だと言う気はあるんだな?」私は探りを入れた。
 突然、彼女の顔がパニックに覆われた。「もちろん、ヌード写真の件を伏せることができたらだ」私は宥めるためにそうつけ加えた。
 彼女はくすくす笑った。嫌な感じだった。もし、彼女が叫び出したり、泣き出したり、あるいは気絶して卒倒したりしたのなら、それでよかった。彼女は、ただくすくす笑った。突然何やかやが愉快に思えたのだ。彼女がイシス神のような写真を撮られて、誰かがそれを盗み出し、彼女の目の前でガイガーを殺し、彼女は在郷軍人会の集会をしのぐほど酔っ払った。突然何もかもがすっかり愉快に思えてきた。それで彼女はくすくす笑ったのだ。たいそう可愛らしく。くすくす笑いは激しさを増し、羽目板の後ろの鼠のように部屋の四隅をぐるぐる走り回った。彼女はヒステリーを起こしかけた。私は机から離れて彼女に近づき彼女の頬を叩いた。
「昨夜みたいだ」私は言った。「我々はライリーとスターンウッド、三馬鹿大将のお笑いコンビさ。残りの一人を捜してる」
 くすくす笑いは止んだが、彼女は昨夜と同じように叩かれたことを気にしなかった。多分彼女のボーイフレンドは皆、遅かれ早かれ手を挙げるようになるのだろう。その気持ちはよく分かる。私は黒い机の端に座りなおした。
 「あなたの名前ライリーじゃないわ」彼女は真面目な声で言った。「フィリップ・マーロウ。私立探偵よ。ヴィヴが教えてくれた。名刺も見せてくれた」彼女は私が叩いた頬を撫でた。彼女は私に微笑んだ。私が一緒で嬉しいとでもいうように。
「そうか、覚えているんだね」私は言った。「そして君は写真を探しに戻ってきたけど、家の中に入ることができなかった。そうだろう?」
 彼女の顎がこっくりと下がり、また上がった。彼女は誑かすような笑みを浮かべた。私は見入られていた。連中の仲間に引きずり込まれようとしていた。私はもう少しで快哉の叫びを上げ、一緒にユマに行ってほしいと彼女にお願いするところだった。
 「写真はどこかへ行ってしまった」私は言った。「昨夜探してみた。君を家に送る前だ。おそらくブロディが彼と一緒に持っていったのだろう。ブロディのことは嘘じゃないね?」
彼女は真剣にかぶりを振った。
「造作もないことだ」私は言った。「別に何も考えなくていい。昨夜と今日、ここに来たことを誰にも言わないことだ。ヴィヴィアンにも。ここにいたことはみんな忘れてしまうんだ。ライリーにまかせておけ」
「あなたの名前はライリーじゃ――」彼女は言いかけ、そして止めた。私の言うことに同意し、元気よく首を縦に振った。あるいは自分の考えに同意したのかもしれない。彼女の眼は細くなりかけていて、ほとんど黒く、まるでカフェテリアのトレイに塗られたエナメルのように薄っぺらだった。彼女は思いついた。「私、すぐ家に帰らなきゃ」彼女は言った。まるで、二人は今までお茶でも飲んでいたかのように。
「そうだね」
 私は動かなかった。彼女はもう一度魅力的な目つきでちらっと私を見て、玄関のドアに向かった。彼女がノブに手をかけたとき、車が近づいてくる音が聞こえた。彼女はどうしようという目で私を見た。私は肩をすくめた。車が家の前に停まった。彼女の顔は恐怖で歪んだ。足音が聞こえ、ベルが鳴った。カーメンは彼女の肩越しに私の背中を見つめ、手はノブを握りしめていた。怯えで口からよだれを垂らしそうだった。ベルは鳴り続け、やがて止んだ。鍵が回される音にカーメンはドアから離れ、凍りついたように突っ立った。ドアがすっと開いた。男は足早に入ってきた。そしてぴたりと足を止め、落ち着いた態度で、静かに私たちを見つめた。》

「それで、君は彼を困らせてやりたいんだ」は<Then you’d like him for the spot.>。双葉氏は「一時は好きだったんだね?」と訳しているが、これはどうだろう?<would like someone>は「(人)に〜してもらいたい」だ。また、<on the spot>には「苦境に陥って、困って、生命の危険にさらされて」の意味がある。村上氏は「じゃあ君としては、彼が困った立場に立たされても良い気味だと思うんだな」と、ずいぶん噛みくだいた訳にしているが、大きく意味はかわらない。

「我々はライリーとスターンウッド、三馬鹿大将のお笑いコンビさ。残りの一人を捜してる」は<We’re a scream together. Reilly and Sternwood, two stooges in search of a comedian.>。双葉氏は「僕たちは漫才コンビだ。ライリーとスターンウッドだ。どたばた喜劇の二人組だ」と訳している。ちょっと苦しい訳だ。村上氏は「我々は愉快なお笑いコンビだ。ライリーとスターンウッド。もう一人コメディアンが見つかれば、三馬鹿大将になれるんだが」と訳している。

<scream>というと、あの映画の影響もあって恐怖の叫び声を思い浮かべてしまいがちだが、名詞の<a scream>は口語で使われると「すごく滑稽な人(もの、こと)」。後に<together>がついているので「漫才コンビ」、「お笑いコンビ」の意味になる。< Reilly and Sternwood>は、ローレル&ハーディー、アボットコステロのような二人組のお笑いコンビで決まって使われたコンビ名を踏襲している。

今の人には通じないだろうが、テレビ放送が始まったころ、日本の番組だけでは間に合わず、アメリカの喜劇の吹き替えをたくさん流していた。『ちびっこギャング』や『ルーシー・ショー』なんかが有名だが、『三馬鹿大将』もその一つ。原題は<The Three Stooges>。1930年代、短編映画で人気を集め、テレビにも進出した。病気等で三人のメンバーは何度か入れ替わりがあった。マーロウの科白はそれを意味しているのだろう。日本で言うなら、一龍齋貞鳳、江戸屋猫八、三遊亭小金馬(当時)の「お笑い三人組」だろうが、メンバーが固定していたので、残念ながら流用できない。

「私はもう少しで快哉の叫びを上げ、一緒にユマに行ってほしいと彼女にお願いするところだった」は<I was going to yell “ Yippee!” in a minute and ask her to go to Yuma.>。双葉氏は「もう少しで「ばんざい!」と叫び、ユマへいっしょに行こうと言いだすところだった」。村上氏は「すぐにも歓喜の声をあげて、ユマに駆け落ちしようと彼女に持ちかけるべきところだ」だ。

<be going to do>は「〜するつもりだ、〜しかかっている」の意味だから。村上氏のように「〜すべきところだ」と訳すと、当事者性が失われ、第三者的な観点で述べている感じが強くなってしまう気がする。ここは、カーメン嬢の男をその気にさせずにはおかない魅力が最大限に発揮されていることを述べているところだ。マーロウも仲間の一人になりそうだ、とその魅力の虜になりかけたことを正直に吐露している。最後の一線で立ち止まったのは確かなのだから、あえて、そこまで冷静さを装う必要はないだろう。総じて、村上氏の描くマーロウは落ち着き過ぎているように思える。『大いなる眠り』当時のマーロウは、まだまだ若い。もっと意気のいいマーロウであってもいいのではないだろうか。(第十二章了)