marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第十五章(2)

《私はブロディのところまで行き、彼の腹に自動拳銃を突きつけ、彼のサイド・ポケットの中のコルトに手を伸ばした。私は今では目にした銃をすべて手にしていた。それらをポケットの中に詰め込んで、片手を彼の方に出した。
「もらおうか」
彼はうなずき、唇を舐めた。目にはまだ怯えが残っていた。彼は胸ポケットから厚い封筒を取り出して私によこした。中には現像した乾板一枚と焼きつけた写真が五枚入っていた。
「まちがいなく、これで全部なんだな?」
 彼はもう一度うなずいた。私は封筒を自分の胸ポケットに入れ、振り返った。アグネスはダヴェンポートに戻って髪を整えていた。彼女の眼は憎悪を蒸留したような緑色で、カーメンを食い入るように見つめていた。カーメンもまた立ち上がり、片手を出して私の方に向かって来た。くすくす笑いと耳障りな呼吸音は続いていた。彼女の口の端には小さなあぶくがあった。彼女の小さな白い歯が唇の近くできらめいていた。
「今、それをもらえる?」彼女は遠慮がちな笑みを浮かべて私に訊いた。
「これは私が引き受けた。家に帰るんだ」
「家?」
 私はドアのところまで行き、外を見た。廊下に涼しい夜風が穏やかに吹きぬけていた。興奮した隣人が出入り口をふさいでもいなかった。小さな銃が発射されてガラスを割ったが、その程度の騒音を人は気にもしない。私はドアを開けて支え、カーメンに首を振った。彼女は曖昧な微笑を浮かべながらこちらに向かってきた。
「家に帰って私を待つんだ」私はなだめるように言った。
 彼女は親指を上げた。それから彼女はうなずいて私の脇を抜けて廊下に出た。彼女は出てゆくとき私の頬に指で触れた。「あなたはカーメンを引き受けてくれるのよね。ねえ?」
「その通り」
「あなたってキュート」
「君は何も知らない」私は言った。「私は右の太腿にバリ島の踊り子の刺青をしているんだ」彼女の眼が丸くなった。彼女は言った。「いけない子」そして私を指した指を上下に振った。それから彼女は囁いた。「銃を返してくれない?」
「今はだめだ。後で君のところに持って行く」
 彼女はいきなり私の首をつかんで口にキスした。「好きよ」彼女は言った。「カーメンはあなたが大好き」彼女は鶫のように快活に廊下を走り抜け、階段のところで私に手を振ると駆け下りて私の視界から去った。
 私はブロディのアパートメントに戻った。》

「彼女の眼は憎悪を蒸留したような緑色で、カーメンを食い入るように見つめていた」は<Her eyes ate Carmen with a green distillation of hate.>。双葉氏はあっさりと「目は緑色の憎悪に燃え、カーメンにかみついていた」と<distillation>をカット。村上氏は「憎しみを煮詰めたような緑色の目で、カーメンを睨みつけていた」だ。「蒸留」と「煮詰める」ことは同じではないだろう。だいたい、煮詰めて緑色になるものなんてあるのだろうか?ここは複雑に入り混じった感情の中から、純粋な憎悪だけが緑色の眼の中にあった、ととらえるべきだろう。

「これは私が引き受けた」は<I'll take care of them for you>。双葉氏は「僕が保管するから」。村上氏は「私が始末しておく」と訳している。単独なら、それでいいのだが、実はこれが後のカーメンの「あなたはカーメンを引き受けてくれるのよね。ねえ?」という台詞に関係してくる。原文は<You’ll take care of Carmen, won’t you?>。見ての通り、マーロウが写真について使った<take care of>(面倒を見る、世話をする)という決まり文句をカーメンは自分に当てはめている。

そこのところを、双葉氏は「あんた、カーメンの面倒を見てくれるわね?ねえ?」。村上氏は「あなたはカーメンの面倒を見てくれるのね。ねえ?」としている。カーメンの言葉に「言質を取った」という特別の意味が込められているとは、解釈していないようだ。ここは、あなたはさっき、確かに<take care of>と言ったよね?」と改めて確かめる意味の付加疑問だ。それが分かるように訳語を選ぶ必要があるだろう。両氏の訳では、なぜここでカーメンがこんなことを言い出したのかが分からない。誤訳ではないが、読み込み不足。