marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第十六章(4)

《私はひと飛びに部屋を横切り、ドアが開くように死体を転がし、身をよじって外に出た。ほぼ真向かいに開いたドアから一人の女がじっと見ていた。彼女の顔は恐怖に覆われ、鉤爪のようになった手が廊下の向こうを指さした。
 私は廊下を走り抜けた。タイルの階段を駆け下りていく足音が聞こえ、後を追った。ロビーの階に着くと、玄関ドアが静かに閉まりかけ、外の歩道を駆けていく足音が聞こえた。私はドアが閉まりきる前にこじ開け、外に飛び出した。
 革の胴着を着た背の高い無帽の人影が、駐車中の車の間を縫って、道路を斜めに走っていた。人影が振り返り、そこから炎が噴き上がった。二丁の重い鉄槌が私の傍のスタッコ壁を叩いた。その人影は走り続け、二台の車の間に身をかわして姿を消した。
 一人の男が私の横にやってきて大声で言った。「何があったんだ?」
「銃撃だ」私が言った。
「何てことだ」彼はあわててアパートメント・ハウスの中に駆け込んだ。
私は急いで歩道を歩いて車まで行くと、乗り込んでエンジンをかけた。縁石を離れ、慌てずに坂を下った。道路の反対側から動き出した車はなかった。足音を聞いたように思ったが定かではない。私は一ブロック半ほど下った交差点で車を回し、引き返した。歩道の方から抑えめな口笛がかすかに聞こえてきた。それから足音が。私は二重駐車をして、二台の車の間を抜け、身を屈めた。カーメンの小さなリヴォルヴァーをポケットから取り出した。
 足音が次第に大きくなり、陽気な口笛が続いた。すぐに胴着が現れた。私は二台の車の間から出て、言った。「マッチはあるかい?」
 若者は私の方を振り返り、右手を胴着の中に入れた。彼の眼はシャンデリアの環状の光を受け、濡れたように光っていた。しっとりとした黒い眼はアーモンドのような形で、青白い端正な顔には、ウェーブのかかった黒髪の先が二手に分かれ、額に低く伸びていた。まさに比類なき美形、ガイガーの店にいた若者だ。
 彼は立ったまま黙って私を見ていた。彼の右手は胴着の縁にあったが、まだ中に入っていなかった。私は小型のリヴォルヴァーを腰だめに構えていた。
「君はあの御主人によほどご執心だったんだな?」私は言った。
「だまれ」若者はそっと言った。駐車中の車と、歩道の内側にある高さ五フィートの擁壁の間で、身じろぎもしなかった。
 かすかに咽び泣くようなサイレンの音が長い坂を上ってくるのが聞こえた。若者の頭がその音に向けられた。私は一歩踏み込んで近づき、胴着に銃を押しつけた。
「私か、それとも警官がいいか?」私は訊いた。
 彼の頭が、顔を叩かれたみたいに、ほんの僅か横を向いた。「あんた、誰だ?」彼は怒鳴った。
「ガイガーの友だちだ」
「どこかへ行っちまいな。くそったれ」
「これはちっぽけな銃だ、坊や。これを臍に食らわしてやろう。三か月もすりゃ、歩けるようになる。そしたら、サンクエンティンの新しい素敵なガス室に歩いていけるだろう」
彼は言った。「だまれ」彼の手が胴着の中に伸びた。私は彼の腹にあてた銃口に力を加えた。彼は長い静かな溜め息を吐き、胴着から離した手をだらりと脇に垂らした。広い肩が力なく下がった。
「何が望みだ?」彼は囁いた。
 私は胴着の中に手を伸ばしてオートマティックを引き抜いた。「車に乗るんだ、坊や」
 彼は私の前を歩き、私は彼を後ろから車の中に押し込んだ。
「運転席に着け。君が運転するんだ」
 彼はハンドルの下に尻を滑らせ、私は隣に乗り込んだ。私は言った。「坂を上ってくるパトカーをやり過ごすんだ。彼らは我々がサイレンを聞いて道を譲ったと思うだろう。それから逆向きに坂を下りて家に帰ろう」
 私はカーメンの銃をしまい、オートマティックを若者の肋骨に押しつけた。私は窓越しに振り返った。今ではサイレンの啜り泣きが大きくなっていた。ふたつの赤いライトが街路の真ん中に広がってきた。それらは次第に大きくひとつになって、突風のような轟音と共に勢いよく脇を通りすぎていった。
「行こう」私は言った。
 若者は車を回し、坂を下り始めた。
「家に帰ろうや」私は言った。「ラバーン・テラスへ」
 彼の滑らかな唇がひくついた。彼は車をフランクリン通りに入れ、西に向かった。「君は愚かな若者だよ。名は何と言うんだ」
「キャロル・ランドグレン」彼は生気のない声で言った。
「君はちがう男を撃ったんだ、キャロル。ジョー・ブロディは君の恋人を殺しちゃいない」
 彼は私に三文字言葉を浴びせると、運転を続けた。》

「彼の眼はシャンデリアの環状の光を受け、濡れたように光っていた。しっとりとした黒い眼はアーモンドのような形で」は<His eyes were a wet shine in the glow of the round electroliers. Moist dark eyes shaped like almonds,>。ここを、双葉氏は「目は色電球みたいにぬれて光っていた。巴旦杏(アーモンド)みたいな形をしたぬれた黒い目だった」。村上氏は「彼の目は丸い電気シャンデリアの光に照らされ、濡れたように輝いていた。湿った黒い瞳がアーモンドの形になった」と訳している。

<electroliers>は<electric>と<chandelier>の合成語で、昔のような蝋燭ではなく電球を使ったシャンデリアのこと。「色電球」では、安物のクリスマス・オーナメントのようだ。また、村上氏はいつもの癖で、<eyes>を「瞳」と訳しているが、これは<dark eyes>=『黒い瞳』という思い込みから来てるのだろうか。もちろん、人間の瞳孔は猫のようにアーモンド形にはならない。アーモンド形に見えるのは目全体の形状だ。オリエンタルな印象があって、一部の西洋人には魅力的に感じられるらしい。その逆にアジア人に対する蔑視の対象となることもあるから、訳する際には取り扱いに注意が必要だ。

二度登場する「だまれ」はどちらも<Go ―― yourself>。—―部分には<fuck>が入るのだが、原著が出版された当時は禁句として扱われ伏字扱いになっている。双葉氏は「くそくらえ!」と訳している。妥当な訳といえるだろう。相手の言葉とは無関係に発せられる悪態としての決まり文句だから、たいていの悪態なら使用可能だ。村上氏は律儀にも「てめえでファックしやがれ」と字義通りに訳している。

実はこの悪態は、この章の末尾の文章に関係している。「彼は私に三文字言葉を浴びせると、運転を続けた」だ。原文は<He spoke three words to me and kept on driving.>。この<three words>というのが、<Go fuck yourself>だということは、原文を知っている人には分かるだろう。だが、邦訳しか読んでいない読者にどう分からせることができるか?双葉氏は「彼は得意の四字の罵声を私に浴びせ、運転を続けた」。村上氏は「彼はお得意の悪態を口にし、運転を続けた」だ。

英語には<four-letter word>と呼ばれる性や排せつにまつわる四文字言葉の禁句がある。<fuck>や<shit>がその例だ。双葉氏の「四字の罵声」という訳は、それを意味しているのだろう。たしかに文中では伏せられているものの、そこに<fuck>が使われている。ただ、日本語訳の「くそくらえ!」とでは平仄が合わないし、「三」と「四」では字数がちがうという憾みが残る。

村上氏は、日本語に訳してしまえば、きっかり何語と数えることは難しいと考えて<three words>を珍しくあっさりカットして「お得意の悪態」と意訳している。単語ではなく、文節という区切りを使えば「てめえで/ファック/しやがれ」という三文節に区切ることも、可能ではあるが「彼は得意の三文節を口にし」では、文法的すぎて、どうやら悪態しか知らないらしいこの無学な若者に似つかわしくない。

そこで、せめて「三」という数字だけでも使えないかと考えて「だまれ」という、面白みに欠ける訳語を当てはめてみた。これなら<three words>とはいえないものの<three-letters >にはなっている。英語には<four-letter word>の他にも<three words, eight letters>というのもある。<I love you>がそれなんだそうだが、なるほど八文字でできた三語の言葉である。原文には「お得意の」や「罵声」、「悪態」にあたる単語は使われていない。あくまでも、文章の中にある<three words>という言葉をヒントにして、この<three words>が何を意味しているのかを読み取らねばならない。

この作業をやってみて、翻訳というものが、英語を日本語に入れ替えることだという考え方が、あまり意味のない考え方だと思えるようになってきた。たしかに、村上氏の新訳は原文を忠実に日本語化しているように思えるのだが、よく読んでみると、もともと原文にない日本語が多用されてもいる。そうすることで作者の伝えたかった内容がより伝わると考えての改変なのだろう。それもあり、だとは思う。ただ、この場合のようにすんなりと収まらない部分はけっこう切り捨てている。書く方にしてみれば<three words>のような目配せは、何とか活かしてほしかったのではないだろうか。