marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(2)

《我々はバーに行った。客たちは一人で、あるいは三々五々、静かな影となり、音もなくフロアを横切り、音もなく階段へと通じるドアから出て行った。芝生の上に落ちる影のようにひっそりと。スイング・ドアを揺らすことさえしなかった。
 我々はバー・カウンターに凭れた。「ウィスキー・サワー」大男が言った。「あんたは」
「ウィスキー・サワー」私は言った。
 我々はウィスキー・サワーを飲んだ。
 大男は厚手のずんぐりしたグラスの縁からつまらなそうにウィスキー・サワーをちびちびとなめた。そして、真面目くさった顔でバーテンダーを見つめた。白い上着を着た痩せた黒人で、不安気な表情を浮かべ、足の痛みを気遣うような動きをした。
「お前、ヴェルマがどこにいるか知ってるか?」
「ヴェルマって言いましたか?」バーテンダーは泣き出しそうな声で言った。「この頃この辺りじゃ、とんと見かけません。最近はさっぱりで、へえ」
「お前、ここは長いのか?」
「ええと」バーテンダーはタオルを下に置き、額に皺を寄せて指折り数え始めた。「かれこれ十カ月でさ。おおよそそれくらいになります。いやそろそろ一年か」
「はっきりしろい」大男は言った。
 バーテンダーは眼を剥き、首を落とされた鶏みたいに咽喉仏をひくつかせた。
「ここが黒人のバーになってどれくらいだ?」大男はぶっきらぼうに問いただした。
「なんておっしゃいました?」
 大男が拳を握ると、ウィスキー・サワーのグラスは眼の前から見えなくなった。
「かれこれ五年になる」私は言った。「この男はヴェルマという名の白人の女のことは何も知らない。ここの誰も知らないだろう」
 大男は私のことをまるで今卵から孵った雛のように見た。ウィスキー・サワーは大男の機嫌をよくしてはくれなかったようだ。
「誰が口をはさめと言った?」彼は訊いた。
 私は微笑んだ。寛大で心から友好的な微笑みができたと思う。「あんたがここに連れ込んだんじゃないか。忘れたのか?」
 大男はにやりと笑って見せた。のっぺりと白々しい気のない笑いだった。「ウィスキー・サワー」彼はバーテンダーに言った。「チンタラしてるんじゃねえ。とっとと作れ」
 バーテンダーはあわてて飛び回り、目を白黒させた。私は背中をカウンターに預け、部屋を見わたした。部屋は空っぽになっていた。バーテンダーを別にしたら、そこにいるのは大男と私、そして壁のところでぺしゃんこになってる用心棒だけだった。用心棒はそろりそろりと動いていた。痛みをこらえ、やっとのことで手足を動かしているように。片方の翅をもがれた蠅みたいに幅木に沿ってゆっくり這っていた。テーブルの後ろを、げんなりと、不意に歳をとり、突然正気に返った男のように。私は男の動きをじっと見ていた。バーテンダーがお代わりのウィスキー・サワーを二つ置いた。私はカウンターに向き直った。大男は這い進む用心棒をちらりと目にしたがまったく気にも留めなかった。
「この店には何も残っちゃいない」彼はこぼした。「小さなステージがあって、バンドがいて、男が楽しい時を過ごすことができる気の利いた小部屋があった。ヴェルマはそこで歌ってた。赤毛だった。レースのついた下着みたいに可愛かった。おれたちが結婚しようというとき、やつらがおれをハメたんだ」
 私は二杯目のウィスキー・サワーに手を伸ばした。私は深みにはまりかけていた。「ハメられたって、何にだ?」
「八年もの間、おれがどこで何をしてたかっていう話だ。あんたどう思うね?」
「蝶でも捕まえてたんだろう」
 大男はバナナのような人差し指で自分の胸を突っついた。「檻の中さ。マロイっていうんだ。体がでかいからって、みんなはムース(箆鹿)・マロイって呼ぶ。グレート・ベンド銀行の仕事だ。四万ドル、一人でやってのけた。凄かないか?」
「で、今からそいつを使おうっていうのか?」
 大男は私に鋭い一瞥をくれた。背後で物音がした。用心棒が再び自分の足で立ったのだ。少しよろめきながら、クラップス・テーブルの向こうの黒っぽいドアのノブに手をかけた。そして、ドアを開け、なかば倒れ込むように中に入った。ドアが音を立てて閉まった。錠がかかる音がした。》

「客たちは一人で、あるいは三々五々」は<The customers, by ones and twos and threes,>。清水氏は「客たちは二人、三人と一団になって」と「一人」を略している。村上氏は「客たちは一人で、二人連れで、あるいは三人連れで」と律儀に訳している。「芝生の上に落ちる影のように」は<as shadows on grass>。清水氏はここを「壁にうつる影のように」と訳している。「草」<grass>を「壁」と見誤りそうな単語が見つからない。

「ウィスキー・サワー」は<Whiskey sour>。ウィスキーをベースにレモンジュースと砂糖を加えたカクテルだ。清水氏はこれを全部「ウィスキー」で統一している。単なるウィスキーだったら、大男がお代わりを要求するとき、バーテンダーが目を白黒させるほど慌てるだろうか。一方で、チャンドラーはこのカクテルを注いだグラスを<the thick squat glass>と書いている。清水氏は「厚いウィスキー・グラス」と訳している。村上氏は「ずんぐりした分厚いグラス」だ。ストレートやオン・ザ・ロックスならともかく、カクテルを注ぐグラスには似つかわしくない。

バーテンダーは眼を剥き」は<The barman goggled>。清水氏は「バーテンダーは声をつまらせ」、村上氏は「バーテンダーがごくりと唾を飲むと」と訳している。<goggle>は「(びっくりして)目を丸くする、ぎょろぎょろする」の意味だ。もしかしたら清水氏は<guggle(gurgle)>「喉を鳴らす」とまちがえたのではないだろうか。村上氏は、自分で訳す前に清水訳を参考にしているようなので、それをそのまま踏襲していることが少なくない。せっかく新訳と銘打つのだから、はじめから自分で訳していたら、こんなまちがいはしないで済んだろうに。

「なんておっしゃいました?」は<Says which?>。「なんて言ったの?」と相手に聞き返す際のアメリカ英語の慣用句だ。清水氏は「誰がそういうんだ」と大男の台詞として訳している。その前の大男の質問は<How long's this coop been a dinge joint?>なので「誰がそういうんだ」という重ねての質問は意味をなさない。村上氏も「なんておっしゃいました?」と訳している。

「大男はにやりと笑って見せた。のっぺりと白々しい気のない笑いだった」は< He grinned back then, a flat white grin without meaning>。清水氏は「彼は意味をなさない薄笑いを見せた」とあっさり訳している。村上氏は「彼はにやりと笑みを返した。白い歯をむき出しにした、奥行きのない、意味を欠いた笑みだ」と訳している。<grin>にはたしかに「白い歯を見せて笑う」の意味があるが、「むき出しに」してみせるなら、そこにはなにがしかの意味が混りそうなものだ。この<white>は「何も書かれていない」の意味ではないだろうか。

「そして壁のところでぺしゃんこになってる用心棒だけだった」は<and the bouncer crushed over against the wall.>。清水氏は「そして、壁に投げつけられた用心棒だけだった」。村上氏は「壁に投げつけられた用心棒だけだった」と、ここも清水訳をそのまま使っている。ところで<crush>だが、どの辞書を見ても「押しつぶす」が主たる意味で「投げつける」という意味は見当たらない。もしかして<crash>「衝突する」と読み違えて、大男の行為と結び付けての意訳だろうか。村上氏が旧訳を下訳にしていなかったら、同じ訳をしただろうか。

「やつらがおれをハメたんだ」は<they hung the frame on me>。清水氏は「奴らが俺をぶちこみやがった」と訳している。<frame>は「ハメる、(人に)濡れ衣を着せる」の意味がある。<hang>にも「人に罪を着せる」の意味があるので、ここは「陥れられた」の意味だろう。村上氏も「俺はハメられちまった」と訳している。「ぶちこむ」と訳してしまったら、次の<Where you figure I been them eight years I said about?>という質問の意味がなくなるではないか。