marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第十八章(2)

《タガート・ワイルドは机の向こうに座っていた。太った中年男で、本当は表情のない顔を友好的な顔つきに見せるのを澄んだ青い眼で間に合わせていた。彼の前にはブラックコーヒーのカップが置かれ、入念に手入れされた左手の指には細身の斑入りの葉巻があった。机の隅にある青い革の椅子にもう一人男が座っていた。冷ややかな眼をした尖った顔の男で、熊手のように痩せ、金貸しのように手強そうだった。手入れの行き届いた顔はここ一時間の内に髭を剃ったかのように見えた。プレスのきいた茶色のスーツでタイには黒真珠のピンがついていた。頭の回転の速い男特有の、長く神経質そうな指をしていた。戦う準備はできているようだった。
 オールズは椅子を引き、腰を下ろして言った。「こんばんは、クロンジャガー。こちらは私立探偵のフィル・マーロウ。窮地に陥ってるんだ」オールズはにやりと笑った。
 クロンジャガーは私を見たが頷きはしなかった。まるで写真でも見るかのように私を見渡した。それから僅かに顎を動かした。ワイルドが言った。「座ってくれ、マーロウ。クロンジャガー警部に説明してみたんだが、その辺の事情は君にも分かるだろう。ここも今じゃ大都市だ」
 私は腰を下ろして煙草に火をつけた。オールズはクロンジャガーを見て訊ねた。「ランドール・プレイスの殺しでは、何が分かったね?」
 尖った顔の男は指を一本、関節が鳴るまで引っ張った。彼は顔を上げることもなく話した。「死体は二発弾を食らってた。弾を撃ったことのない銃が二挺。下の通りで車を出そうとしていたブロンドを捕まえたが、それは彼女の車ではなかった。彼女のはその次にあった。同じ型だったんだ。狼狽しているので警官が連行したら吐いた。彼女はブロディが殺された時、現場にいた。犯人は見ていないと言っている」
 「それだけか?」オールズは言った。
 クロンジャガーはほんの少し眉を上げた。「たった一時間前に起きたんだ。何を期待してた――殺しの動画か?」
「犯人の人相くらいは分かってるんだろう」オールズが言った。
「革の胴着を着た背の高い男だ――もしそれを人相と呼べるなら」
「そいつは外の俺のポンコツ車の中にいる」オールズは言った。「手錠をかけられてな。マーロウが君の代わりに捕まえた。これがあいつの銃だ」オールズは青年のオートマティックをポケットから取り出してワイルドの机の隅に置いた。クロンジャガーは銃を見たが手にとりはしなかった。
 ワイルドはくすくす笑った。椅子に背をもたせかけ、口から離さずに斑入りの葉巻を吹かしていた。やがてコーヒーをすするために前屈みになった。着ていたディナージャケットの胸ポケットから絹のハンカチをとって唇を軽く拭い、またしまい込んだ。
「そこにはあと二つの死がおまけについてくる」オールズは顎の先端の柔らかな肉をつまみながら言った。
 クロンジャガーは目に見えて体をこわばらせた。彼の非情な眼は冷え冷えとした光を宿す点になっていた。
 オールズは言った。「今朝方リドの桟橋の沖で、太平洋から車が引き揚げられたことを聞いただろう?中に死んだ男が入っていた」
クロンジャガーは「聞いていない」と言い、不快そうな態度を崩さなかった。
「死んだ男はある裕福な一家のお抱え運転手だった」オールズは言った。「その家族は娘の一人のことで強請られていた。ミスタ・ワイルドは家族にマーロウを推薦した。私を通じてな。マーロウは裏で動いたってわけだ」
「私は殺人事件の裏で動く私立探偵が大好きだ」クロンジャガーはうなるように言った。「君はここまで言い渋る必要はなかった」
「ああ」オールズは言った。「ここまで言い渋る必要はなかった。警官と一緒にいて言い渋るなんてのは滅多にあることじゃない。俺は彼らが足首を挫かないように、どこに足を置いたらいいか教えるのに自分の時間の大半を費やしてきたんだ」
 クロンジャガーの尖った鼻のまわりから血の気が引いた。彼の息づかいがしゅうしゅうと静かな部屋に低い音を立てた。彼はひどく静かに言った。「私の部下が足をどこに置こうが、君から教わる必要はない。自分を何様だと思ってるんだ」
「そのうち分かるさ」オールズが言った。「俺の話したリドの沖で溺れた運転手は昨夜君の管轄内で人を撃っている。男の名前はガイガーと言って、ハリウッド大通りの店で猥本を扱っていた。ガイガーは外の俺の車にいるお稚児さんと一緒に暮らしていた。一緒に暮らすの意味は、分かるな」
 クロンジャガーは今では真っ直ぐ彼を見据えていた。「汚らしい話になりそうだな」彼は言った。
「俺の経験から言えば警察の話はたいていそうだ」オールズはうなり声をあげ、私を振り返った。彼の眉が逆立った。「君の出番だ、マーロウ、彼に教えてやれ」
 私は彼に話した。
 私は二つのことを除外した。正直なところ何故その時、その一つを除外したのか分からない。私はカーメンのブロディのアパート訪問とエディ・マーズの午後のガイガー邸訪問を除外した。残りについては起きた通りに話した。》

「太った中年男で、本当は表情のない顔を友好的な顔つきに見せるのを澄んだ青い眼で間に合わせていた」は<a middle-aged plump man with clear blue eyes that managed to have a friendly expression without really having any expression at all.>。双葉氏は「肥った中年男で、全然表情がないときでも親しみやすい表情を感じさせる澄んだあおい目を持っていた」。村上氏は「中年の小太りの男で、その澄んだ青い瞳は、実際には表情というものをまったく持ち合わせないくせに、それでいて友好的な表情をうまく浮かべることができる」だ。

< manage〜without>は、「〜なしでどうにかやっていく、間に合わせる」という表現。両氏ともにきれいな訳だとは思うのだが、タガート・ワイルドという人物をどう印象づけるか、というとっかかりの一文という意味で< manage>という動詞を、もっと前面に出した訳が欲しいと思う。いわゆる「目力」とはちがうものの、本人が意識しているかどうかは知らないが、魅力的な眼がすべての表情の代わりを務めてくれる、そんな恵まれた男なのだ。

「何を期待してた――殺しの動画か?」は<What did you expect――moving pictures of the killing?>。ここを双葉氏は「そんなにわかるはずはないだろう。映画の殺人(ころし)じゃあるまいし」と訳している。はじめはそう読んだのだが、村上氏は「あんたは何を求めているんだ。犯行現場を撮影した記録映画か?」と訳している。場所は映画の都ハリウッド近辺だ。殺人事件を描いた映画と考えてみたいところだが、<movie>ではなく、わざわざ<moving pictures>としているところが気になる。村上訳はいささかくどく思われ、今風過ぎるかもしれないがこう訳してみた。

「マーロウは裏で動いたってわけだ」は<Marlowe played it kind of close to the best.>。双葉氏はここを「マーロウは骨身惜しまず働いた」としている。< play it close to the best>は直訳すれば、「(カードゲームなどで)ヴェストの近くでプレイする」こと。つまり「手の内を見せない、慎重に、用心深く」動くことを意味する。村上氏は「マーロウは、何というか、独自の調査を行った」と訳す。ここをどう訳すかは次にクロンジャガーが同じ文句を使っているので慎重に訳語を選ぶ必要がある。

「私は殺人事件の裏で動く私立探偵が大好きだ」がそれだ。原文は<I love private dicks that play murders close to the vest.>。双葉氏は「わしは骨身惜しまず殺人(ころし)をやる私立探偵が大好きだよ」と訳しているが、これではマーロウが犯人だと言っているようなものだ。村上氏は「俺はね、殺人事件に首を突っ込んで独自の調査(傍点五字)をする私立探偵が大好きだよ」と、例によって噛みくだいた訳にしている。こうすれば、確かによく分かるが、クロンジャガーの皮肉を効かせた言い回しがボケてしまう。

「君はここまで言い渋る必要はなかった」は<You don’t have to be so goddamned coy about it.>。ここを双葉氏は「恥ずかしがって体裁をつくるには及ばんだろう」と訳している。双葉氏の訳を参考にしたのであろう村上氏も、それを踏襲して「それしきのことで、奥ゆかしくはにかむ必要もあるまい」とやっている。ただ、ここで何故唐突に「はにかみ」が登場する必要があるのだろう。警察のトップが地方検事に使う科白とも思えない。

調べてみると、たしかに<coy>には「恥ずかしそうなふりをする、はにかみやの」という意味がある。ただし、その後に<about>が来ると「いやに無口な、いやに口を割らない」という意味になる。裏で私立探偵を使って情報をつかんでいながら、それを小出しにする検事に警察官が文句を言うのなら、むしろこちらの意味を採るべきではないだろうか。

クロンジャガーが相手の言葉尻を捕まえて皮肉を言うので、オールズもやり返す。それも倍返しだ。「ここまで言い渋る必要はなかった。警官と一緒にいて言い渋るなんてのは滅多にあることじゃない」は<I don’t have to be so goddamned coy about it. It’s not so goddamned often I get a chance to be coy with a city copper.>。双葉氏は「ふん。僕は別に恥ずかしがっちゃいない」オウルズはやり返した。「少なくとも市の警察に恥ずかしがることはないさ」と、かなり無理な訳になっている。

村上氏の方も見てみよう。「はにかむ必要なんか何もない。しかし市の警官を相手に俺がはにかむ機会なんて、そう多くはないからな」とやっている。<coy>を「はにかむ」としたためにこんな訳になったのだ。これでは、次の「俺は彼らが足首を挫かないように、どこに足を置いたらいいか教えるのに自分の時間の大半を費やしてきたんだ」<I spend most of my time telling them where to put their feet so they won’t break an ankle.>の中にある<telling>とうまくつながらない。ふだんはあれこれと警官相手にやかましいオールズは、今回に限って口をつぐんでいたのであって、はにかんでいたわけでも恥ずかしがっていたわけでもない。

「そのうち分かるさ」と訳したところは<We'll see about that>。よく使われる言い回しで、双葉氏は「その話はあと回しだ」。村上氏は「考えておこう」と訳している。こういう決まり文句は、いつも同じ表現ではなく、場面場面でそれにふさわしい言葉に訳す必要がある。この場合、どれを使っても意味は通る。要は、その件についてこれ以上話す気はないということが相手に伝わればいいからだ。

「私は二つのことを除外した。正直なところ何故その時、その一つを除外したのか分からない」は<I left out two things, not knowing just why, at the moment. I left out one of them.>。双葉氏は「なぜか自分にもわからなかったが、私は二つの点を除外して話した」と訳していて<I left out one of them>をトバシている。村上氏は「私は二つの事実だけは伏せておいた。そのひとつについては、なぜ伏せておかなくてはならないのか、その時点では理由が自分でもよく分からなかったのだが」と正確に訳している。きっとこれが後になって効いてくるのだろう。伏線というやつだ。