marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第十八章(3)

《クロンジャガーは私の顔から決して眼をそらさず、私が話す間どんな表情も浮かべることはなかった。話し終えると彼はしばらくの間完璧な沈黙を守った。ワイルドは黙ってコーヒーをすすり、静かに斑入りの煙草を吹かしていた。オールズは彼の片方の親指を見つめていた。
 クロンジャガーは椅子にゆっくり背をもたせ、片方の足首をもう一方の膝に乗せ、神経質そうな手で踝の骨をこすった。彼の痩せこけた顔は厳しい渋面をしていた。彼は恐ろしく丁寧な口調で言った。 
「それでは、君がやったのは、昨夜発生した殺人を通報せず、それから今日はいらぬところを嗅ぎまわって、ガイガーのお稚児さんが今夜第二の殺人を犯す手はずを整えただけというわけだ」
「それだけだ」私は言った。「私はとんでもない窮地に陥っていた。馬鹿をやったとは思うが、私は依頼者を守りたかった。それに坊やがブロディを撃つとは思ってもみなかった」
「その手のことを考えるのは警察の仕事だよ、マーロウ。もしガイガーの死が昨夜報告されていたら、ガイガーの店からブロディのアパートメントへ本が運ばれることはなかったろうし、坊やがブロディにたどり着き、彼を殺すこともなかったろう。ブロディはいつ死んでもおかしくなかった。彼のような人種はいつもそうだ。とはいえ、命は命だ」
「ごもっとも」私は言った。「今度あんたのとこの警官が、盗んだスペアタイヤを抱えておっかなびっくり小路を逃げていくこそ泥を撃った時、ぜひ聞かせてやってくれ」
 ワイルドが強い音を立てて両手を机の上に置いた。「もうたくさんだ」彼はぴしゃりと言った。「どうしてそこまで確信が持てるんだ、マーロウ?このテイラーという青年がガイガーを撃ったと。たとえ、ガイガーを殺した銃がテイラーの死体、もしくは車の中で発見されたとしても、彼が殺人者だと断定はできない。銃は罠かもしれない――たとえばブロディ、或いは真犯人による」
「それは物理的には可能です」私は言った。「が、事実上不可能だ。偶然の一致が多すぎるし、ブロディとその女や、彼らが企んでいたこととは毛色がちがいすぎる。私は長いことブロディと話した。彼は詐欺師だが人殺しのタイプじゃない。彼は銃を二挺所持していたが、どちらも身につけていなかった。彼はそれとなく女から聞いて知ったガイガーの商売に割り込もうとしていた。彼はガイガーにタフな後ろ盾がいないか時々見張っていたと言っていた。私は彼を信じる。本を手に入れるために彼がガイガーを殺したと仮定して、ガイガーが撮ったばかりのカーメン・スタンウッドのヌード写真を持って逃げ、それからオーエン・テイラーの仕業と見せるために銃を仕込み、テイラーをリドの沖に突き落とした、というのでは、あまりにも仮定が多すぎる。テイラーにはガイガーを殺す動機、嫉妬による怒り、それに機会があった。彼は断りなしに一家の車を一台持ち出している。彼は娘の目の前でガイガーを殺した。仮にブロディが殺ったとして、彼にそんな真似はできない。ガイガーに商売上の関心があるというだけでそんな真似をするやつは私には思いつかない。だが、テイラーならやるだろう。ヌード写真の一件が彼をその気にさせたんです」
 ワイルドは含み笑いをしてクロンジャガーの方を見やった。クロンジャガーは鼻を鳴らして咳払いをした。ワイルドが尋ねた。「死体を隠すというのは何の目的があってのことだ?私には見当がつかないんだが」
 私は言った。「坊やは我々に何も話しません。しかし、彼がやったにちがいない。ブロディはガイガーが撃たれた後、彼の家に入ろうとはしないはず。坊やは、私がカーメンを家に送っている間に帰って来たにちがいない。彼はもちろん自分のしたことのせいで警察を恐れていた。おそらく自分があの家にいた痕跡を拭い去るまで、死体を隠しておく方がいいと思ったのだろう。敷物に着いた痕から見て、彼は死体を玄関まで引きずっていき、ガレージにでも運んだのではないか。それから何であれそこにあった彼の持ち物を詰め込んで運び出した。しばらくして、夜のうちの何時ごろか、死後硬直する前に、死んだ友人を丁重に扱わなかったと思い、ひどく後悔した。それで彼は戻ってきて死体をベッドに横たえた。もちろん、すべては推測ですが」
 ワイルドは頷いた。「それから今朝、彼は何事もなかったかのように店に行き、八方に目を配っていた。そしてブロディが本を運び出した時それがどこへ消えたのかを突きとめ、そして、それを手にしたのが誰であれ、当然それが目的でガイガーを殺したのだと思い込んだ。彼はブロディと女について彼らがうすうす気づいていたよりもっと知っているかもしれない。どう思うね、オールズ?」
 オールズは言った。「調べてみましょう――でもクロンジャガーの悩みの助けにはなりませんね。彼の悩みというのは、すべては昨夜起きていたというのに、彼は今報告を受けたということですから」
 クロンジャガーは不快そうに言った。「私はそのいかさまにも対処法を見つけることができると思う」彼は鋭く私を見て、すぐに視線をそらした。》
「ブロディはいつ死んでもおかしくなかった」は<Say Blody was living borrowed time.>。双葉氏は「ブロディはいかさま人生を送ってたかもしれん」と訳している。<live on borrowed time>は「(老人、病人などが)奇跡的に生き延びている」という意味で使われる。「借り物の時間」で生きているということだ。ブロディのような商売はいつ危険にさらされてもおかしくないからだ。「いかさま人生」という訳語は苦肉の策だろう。村上氏は「ブロディは所詮長生きはできなかっただろう」と訳している。
「今度あんたのとこの警官が、盗んだスペアタイヤを抱えておっかなびっくり小路を逃げていくこそ泥を撃った時、ぜひ聞かせてやってくれ」は<Tell that your coppers next time they shoot down some scared petty larceny crook running away up an alley with a stolen spare.>。双葉氏は「こんど君の部下が、かすみたいな品物を盗んだこそ(傍点二字)泥を射ち殺したら、そう言ってやるといい」と、あっさり訳している。村上氏は「今度おたくの部下が、スペアタイヤを盗んで横丁を逃げていく怯(おび)えたこそ泥を撃ったとき、その話を聞かせてやってくれ」だ。<spare>はそれだけで「スペアタイヤ」のこと。マンガじみた光景を思い浮かべるには具体的な絵が見えてくる訳が好ましい。
「それは物理的には可能です」は<It’s a physically possible.>。双葉氏は「それは形式的にはあり得るでしょうが」。村上氏は「理論的にはそれはあり得ます」だ。<physically>は、「身体的に、肉体上、物理学的に」の意味はあるが、「形式的」や「理論的」と訳すのは無理があるのではないか。「が、事実上不可能だ」としたところを、双葉氏は「心理的にはあり得ませんね」。村上氏は「しかし現実的にはあり得ない」。原文は<Bat morally impossible.>。<morally>は「道徳的に、事実上」の意味があるが、この場合後者の意。
「ガイガーに商売上の関心があるというだけでそんな真似をするやつは私には思いつかない。だが、テイラーならやるだろう。ヌード写真の一件が彼をその気にさせたんです」は<I can’t see anybody with a purely commercial interest in Geiger doing that. But Taylor would have done it. The nude photo business was just what would have made him do it.>。
ここを双葉氏は「ガイガーがまっ裸の娘をうつしているのを、ただ商売上の興味だけで見られる奴はいないでしょう。が、テイラーなら平気だったにちがいない。裸体写真の件は前からわかっていた。だからこそ殺しに来たんですからね」と訳しているが、明らかに誤訳だ。<with a purely commercial interest in Geiger>は<anybody>を説明しているのに、双葉氏は<Geiger doing that>(ガイガーがまっ裸の娘をうつしている)と読んでしまった。村上氏は「ガイガーの商売に純粋に商業的興味を抱くような人間がそこまでやるとは、私にはどうしても思えません。しかしテイラーならやりかねない。ヌード写真が絡んでいるというだけで、その程度のことはやってのけたでしょう」と訳している。
しかし何よりまずいのは、「ワイルドは頷いた」の後の会話文を双葉氏は「それからけさになって、やっこさん、なにくわぬ顔で店へいき、目玉を皿にしていた。ブロディが本を運び出すと、やっこさんその本の行先をつきとめ、本を持ってる奴がガイガーを殺したたにちがいないと結論した。やっこさん、ブロディや奴の女が考えていたより、二人のことをよく知っていたのかもしれませんね。どう思う。オウルズ?」と、マーロウの言葉として訳していることだ。
ここはワイルドの言ったこととして取らないとおかしい。厄介なのは、原文には日本語のような敬語とはっきり分かる書き方はないことだ。それを日本語らしくみせかけるために必要以上に上下関係を明らかにするための丁寧語やら俗語表現をふんだんにぶち込むので、とんでもないまちがいがおきてしまう。もっとフラットな訳にしておけば、あっさりとワイルドの言葉として読めたものを。
英語を日本語にするときに必要以上に敬語その他を用いることは、もとの文章が含む文化やシステムを日本における制度や慣習に置き換えることを意味する。地方検事の前であまりにもくだけすぎた表現を使うマーロウを見ていると、独立した私立探偵が、捕り物帳に出てくる、岡っ引きの下で働く下っ引きに見えてくる。マーロウの鼻っ柱の強さは、悪党だけでなく誰に対しても変わらないと思うのだが。