marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第二十章(3)

《グレゴリー警部は頭を振った。「もし彼が稼業でやっているくらい切れるなら、この件も手際よく処理するさ。君の考えは分かるよ。警察は彼がそんな馬鹿なまねをするわけがないと考えるからわざと馬鹿なまねをしてみせるというんだろう。警察の見方からすればそれは悪手だ。警察と関われば頭を悩ますことが増え、仕事に支障をきたすだろう。君は愚かな振りをするのが利口だと思うかもしれない。私もそう思うかもしれない。現場はそうは思わない。彼らは彼の悩みの種になるだろう。私はその考えを取らない。もし私がまちがっているなら、君が証明すればいい。そうしたら私は椅子のクッションを食ってみせよう。それまでエディは白のままだ。彼のようなタイプに嫉妬という動機は似合わない。一流のギャングはビジネスの頭脳を持っている。彼らはどうするのが得策かを学んでいる。個人的な感情をはさんだりしない。私は除外するね」
「何を残しているんだ」
「夫人とリーガン自身だ。他にはいない。彼女はかつてはブロンドだったが、今はちがうだろう。警察は彼女の車を発見していない。おそらく二人はその中だ。彼らは我々より先にスタートしている──十四日も。リーガンの車を別にしたらこの件に関しては全く手がかりがつかめない。もちろん、そんなことには馴れっこだ。特に上流家庭の場合は。そして言うまでもないことだが、私がこれまで調べたことは帽子の下にしまっておかにゃならん」
 彼は椅子の背にもたれ、椅子の肘掛けをその大きながっしりした両手の付け根で叩いた。
「私は何もしないで、ただ待っている」彼は言った。「外部に協力を求めてはいるが、結果はすぐには出てこない。リーガンが一万五千ドル持っていることは聞いている。女もいくらかは所持している。かなりの量の宝石も持っているだろう。しかし、いつかは底をつく。リーガンが小切手を現金化するか、約束手形を書くか、手紙を書くかするだろう。見知らぬ町で、新しい名で通っていても、人の欲望は変わらない。彼らは財政の仕組みに帰らざるを得なくなるだろうよ」
「エディ・マーズと結婚する前、彼女は何をしていたんだ?」
「歌手だ」
「その当時の写真は手に入らなかったのか?」
「ない。エディはきっと何枚か持っているはずだが、気前よく見せてはくれなかった。彼は彼女の邪魔をしたくないのだろう。私は彼に強制できない。彼は町に友人がいる。でなきゃ今のようになれはしない」彼は不服そうだった。「これで何かお役に立てたかな?」
 私は言った。「二人とも絶対に見つからないだろうね。太平洋が近すぎる」
「椅子のクッションについて言ったことは本気だ。いつかは見つける。時間はかかるかもしれない。一年か二年はかかるだろう」
「スターンウッド将軍はそんなに長くは生きられない」私は言った。
「我々はできることはすべてやった。彼がいくらか金をはずんでほうびを出す気があれば、結果を出せるかもしれん。市はそのために金を出してくれんのだ」彼の大きな両眼がじっと私を見、まばらな眉が動いた。
「君は本気でエディが二人を片づけたと考えているのか?」
 私は笑った。「いや、ちょっとからかってみただけだ。私も同じように考えているよ、警部。リーガンは相性の悪い金持ちの妻より、惚れた女と一緒に逃げたのさ。それに夫人はまだ金持ちになっていない」
「彼女に会ったんだろう?」
「ああ。週末を派手に過ごすのだろうが、彼女はそんなお定まりにうんざりしている」
 彼は何かぶつぶつ言った。私は手間を取らせたことと情報をくれたことに礼を言って部屋を出た。グレイのプリムス・セダンが市庁舎からあとをつけてきた。私はそれに静かな通りで私に追いつくチャンスを与えたが、相手はのってこなかった。そういうわけで、私はかまわず仕事に戻った。》

「現場はそうは思わない」は<The rank and file wouldn’t>。この<the rank and file>だが、「兵士、一兵卒、平社員、一般組合員、庶民、大衆」を表すイディオムだ。双葉氏は「が、俗衆はそう思わん」と、「一般大衆」の意味に訳している。村上氏はというと「しかし、現場の兵隊たちはそこまで深く考えやしない」と、現場の兵隊、つまり平の刑事や警官と解している。問題は、解釈のちがいが次の訳に関わってくることだ。

「彼らは彼の悩みの種になるだろう」は<They’d make his life miserable.>。その「彼ら」を大衆と取るか、警察と取るかで「彼ら」のやることが変わってくる。双葉氏は大衆、つまり賭博場の客と取るから、「店の信用が落ちて哀れなことになる」と訳す。村上氏は警察と取るから、「連中はやつの生活をかきまわすだろう」と訳す。エディ・マーズの生活がひどいことになるのはいっしょだが、そうする相手がちがう。文脈から考えると、それまで話題に上っていたのは警察関係者だから、「彼ら」は捜査関係者と取るのが順当ではないか。

裏の裏をかいたつもりでも、相手がそこまで考えるとは限らない。順調に利益を上げている高級賭博場経営者がそんな危ない橋を渡るだろうか。いくら市の上層部に顔がきいたとしても殺人容疑がかかったら、警察に出向く必要があるだろう。あるいは警察のほうからやってくるかもしれない。それは彼の仕事上、あまりうれしくはない動きだ。経営手腕がある経営者はそんなリスクは負わないだろう。

「彼女はかつてはブロンドだった」は<She was a blonde then>。主語は「彼女は」だ。双葉氏は何を思ったか、そこを「その二人は金髪だったが」とやってしまっている。その少し前にリーガンの容貌について「ふさふさした黒い髪の毛」と書いているというのに。こういう凡ミスは双葉氏には珍しい。

「かなりの量の宝石も持っているだろう」は<maybe a lot in rocks>。<rocks>はダイヤなどの宝石のことだが、双葉氏は「相当な現金かもしれん」と訳している。その前に「女もいくらか持っている」としているのだから、現金ではないと考えるべきだ。女性が自由にできる現金は知れているが、ジュエリーなら、簡単に持ち出せて金に換えられる。村上氏は「とくに宝石なんかをたっぷりとな」。

「彼らは財政の仕組みに帰らざるを得なくなるだろうよ」は、< They got to get back in the fiscal system.>。双葉氏は「それやこれやでこっちの網にかかろうというものさ」と、例によって曖昧な常套句を多用して済ませている。村上氏は「身についた金遣いはそうそう改まるものじゃない」と、意訳している。<fiscal system>は「財政制度」を意味する硬い用語だ。村上氏はそれを彼らの「金遣い」と解釈しているようだ。ここは警部がその前に話している「リーガンが小切手を現金化するか、約束手形を書くか、手紙を書くかするだろう」を指していると考えたい。ただの紙切れが現金に代わるのが<fiscal system>だからだ。

エディ・マーズ夫人の前職は原文では<Torcher>となっている。アメリカには女性歌手が失恋の痛手を切々と歌う、トーチソングというジャンルがある。それを知る音楽産業界の誰かがしゃれで言い出したのが、一時流行した「ご当地ソング」だ。「トーチャー」というのは初耳だが、<torch singer>なら辞書にも載っている。双葉氏は「歌姫」、村上氏は「クラブ歌手」と訳している。

「週末を派手に過ごすのだろうが、彼女はそんなお定まりにうんざりしている」は<She’d make a jazzy weekend, but she’d be wearing for a steady diet.>。双葉氏は「どんちゃん騒ぎの週末が好きな女らしい。根気強い減食などできない性質(たち)ですね?」。村上氏は「派手に遊びまわるのが好きな女だ。しかし限られた小遣いでは何かと厳しい」。両氏の訳だが、後半の訳にはどちらも首をひねりたくなる。

< steady diet>とは「お決まりのこと、習慣化されたこと」という意味で、もともとは毎日の決まった食事から来ている。「根気強い減食」というのは傑作だが、誤訳だろう。ミセス・リーガンは細身の美人で、ダイエットが必要とは思えない。村上氏の「限られた小遣い」となると、どこからひねり出してきたのか、さっぱり見当もつかない。夫人はエディ・マーズの高級賭博場に出入りし、五千ドルという大金をエディ・マーズから借りることもできる、と言っている。「限られた小遣い」とはいえ、遊ぶ金に困っている様子はない。》