marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第二十一章(2)

《私は指を折って数えあげた。ラスティ・リーガンは大金と美人の妻から逃げて、エディ・マーズという名前のギャングと事実上結婚していた正体の知れない金髪女とさまよい歩いている。彼が別れの挨拶も告げずに突然消えたのにはいろいろ訳があったのかもしれない。将軍は誇りが高過ぎたか、慎重すぎたからか、私に最初に会ったとき一件を失踪人課の手に委ねたことを話さなかった。失踪人課の連中はくたびれ果てていて、明らかにそれに頭を悩ます気はなさそうだった。リーガンはやりたいことをやっていて、それは彼の問題ということだ。一緒に暮らしてもいない妻が他の男とどこかの町へ消えたからといって、エディ・マーズが二件の殺人に関るなどということはありそうもないという点で私はグレゴリー警部に同意する。腹を立てたかもしれないが、仕事は仕事だ。迷子のブロンドのことを考えたりせず、ハリウッド界隈を取り仕切らねばならなかった。もし大金がからんでいたら様子がちがっていたかもしれないが、一万五千ドルなんかエディ・マーズにとってははした金だ。彼はブロディのようなけちなペテン師ではない。
 ガイガーが死んで、カーメンは一緒にエキゾティックなブレンドの密造酒入りドリンクを飲むいかがわしい相手をまた探さねばならない。造作もないことだ。街角に立って五分間はにかんで見せさえすればいいだけだ。願わくは、次のペテン師が彼女を引っかける際にはもう少し穏やかに、短期のではなく、もう少し長期の金づるとして扱ってほしいものだ。
 ミセス・リーガンは金を借りられるぐらいエディ・マーズと昵懇だ。彼女がルーレット好きのいいカモなら当たり前だ。どの賭博場オーナーも困っている上客に金を貸す。それとは別に彼らはリーガンがらみで利害関係があった。彼は彼女の夫であり、エディ・マーズの妻と駆け落ちしたのだ。
 限られた語彙しか持たない若き殺人犯キャロル・ランドグレンは、たとえガス室で硫酸の入ったバケツの上の椅子に縛りつけられなくとも、長期刑に服すことになる。死刑は免れるだろう。彼は情状酌量を歎願するだろうし、それが郡の経費節約にもなる。大物弁護士を雇う金のない連中のいつものやり口だ。アグネス・ロゼルは重要参考人として拘留されている。もしキャロルが助命歎願して、罪状認否手続きで有罪を認めたら、彼女は必要なくなり、釈放されるだろう。彼女が関係したのはガイガーの裏稼業だけだが、警察はそれを暴露されたくない。
 残るは私だ。私は殺人を隠蔽し、証拠を二十四時間の間秘匿したが、まだ自由の身で、もうすぐ五百ドルの小切手が手に入る。もう一杯やって、ごたごたは忘れてしまうのが利口というものだ。
 明らかにそれが手っ取り早かったので、私はエディ・マーズに電話して今晩ラス・オリンダスに話をしに行くと伝えた。私の利口なところだ。》

「失踪人課の連中はくたびれ果てていて」は<The Missing Persons people were dead on their feet on it>。双葉氏は「失踪人調査部のほうは立往生のかっこうで」と訳している。村上氏は「失踪人課の連中はもともと動きがのろいし」と訳す。<dead on one's feet>は「(体が)くたくたに疲れて、極度に疲労して」という意味のイディオムだが、両氏とも単語の意味から自分で考えた訳なのだろう。<dead on one's feet>を「立往生」と訳す双葉氏のセンスはさすがだ。

「迷子のブロンドのことを考えたりせず、ハリウッド界隈を取り仕切らねばならなかった」は<and you have to hold your teeth clamped around Hollywood to keep from chewing on stray blondes.>。双葉氏は「さまよえる金髪を求めてハリウッド界隈を歩きまわるなんてまねはできるものではない」と訳している。<chewing on〜>は、「〜のことを熟考する」という意味のイディオム。また、<keep from〜>は「〜を避けて」という意味だ。まわりくどい言い回しだが、意味的には合っている。

村上氏は「だいたいハリウッド界隈には、ぐっとくる金髪女が文字どおりうようよしている」と訳している。どこからこんな訳が出てくるのかさっぱりわけが分からない。ひとつ分かることは原文にある<blondes>の複数形にこだわったのではないか、ということだ。しかし、主語が<you>「人は」と一般的に扱われていることからして、<stray blondes>はすでに個別の金髪女性を離れていると考えられる。「逃げた女房に未練」はあっても、男は仕事をしなければならない、ということを言いたかったのだろう。

「願わくは、次のペテン師が彼女を引っかける際にはもう少し穏やかに、短期のではなく、もう少し長期の金づるとして扱ってほしいものだ」は少し長くなるが<I hoped that the next grifter who dropped the hook on her would play her a little more smoothly, a little more for the long haul rather than the quick touch.>。

双葉氏は「が、今度彼女をひっかける山師は、もうすこしやんわりと、もうすこしのんびりと、扱ってやってもらいたいものだ」と、素直に訳している。村上氏は「彼女をカモにしようとする次なるいかさま男が、彼女をもう少し練れたやり方で扱ってくれることを私としては望むばかりだ。お手軽なたかり(傍点三字)なんかではなく、もっと長い目で利益を見てくれることを」と話を噛みくだいて訳している。

双葉氏の訳では村上訳のように金についての意味合いが抜けているが、ここは、金の匂いがプンプンする。<the long haul rather than the quick touch>の<haul>は動詞なら釣り糸や網を「たぐる」という意味だが、<the long haul>になると「比較的長い期間」という意味のイディオムである。また、<the quick touch>の方だが、俗語の<touch>には「人に金をねだる、無心する、盗む」の意味がある。カーメンの扱いにことよせて、言外に金についての話であることを匂わせているわけだ。

「たとえガス室で硫酸の入ったバケツの上の椅子に縛りつけられなくとも、長期刑に服すことになる」は<out of circulation for a long, long time, even if they didn’t strap him in a chair over a bucket of acid.>。双葉氏は「ぜんぜんこの事件の埒外だ。たとえ死刑室の椅子にしばりつけられなくても問題にしないでいい」と訳す。<out of circulation>とは「人づきあいをしない」という意味で、あとに続く<for a long, long time>を含めて、長期拘留を意味している。

村上氏は「かなりの長期刑を食らうことになるだろう。もし酸を入れたバケツの上の椅子に縛り付けられなかったらということだが」。なぜ酸を入れたバケツが死刑につながるかといえば、当時のカリフォルニア州の死刑は、死刑囚を密室の椅子に縛りつけ、その下に硫酸入りのバケツを置き、全員が部屋を出る。密閉後、死刑執行人がレバーを引くとシアン化ナトリウムが流れ込み、化学反応によりシアン化水素ガスが発生する仕組みだったからだ。

「彼女が関係したのはガイガーの裏稼業だけだが、警察はそれを暴露されたくない」は<They wouldn’t want to open up any angles on Geiger’s business, apart from which they had nothing on her.>。双葉氏は「彼女が無関係となれば、警察はガイガーの商売をどの方面からもあばこうとはしないだろう」。村上氏は「彼女が違法行為を犯していないということもあるが、当局としてはガイガーの闇商売をあまり深く追及したくないからだ」。

双葉氏は<angle>を「方面」と訳しているが、俗語では「不正な手段、策略」の意味がある。村上氏の「彼女が違法行為行為を犯していない」は言い過ぎだろう。アグネスはガイガーの裏稼業に加担している。ただ、彼女をを尋問したりすれば、今まで見てみぬふりをしていたことが明らかになる。それは警察としては避けたいところだ。<have nothing on>は「有罪にするのに必要な証拠や情報がない」という意味のイディオム。直訳すれば「彼らはガイガーの商売のからくりを外に漏らしたくないが、そのほかに彼女を有罪にする証拠はない」だ。

「私の利口なところだ」は<That was how smart I was.>。双葉氏は「まさに私のスマートなところだ」と、スマートをそのまま使っている。実はここでは<smart>が、三度繰り返し使われている。チャンドラーがよくやる手だが、複数の意味を持つ単語の使い回しだ。拙訳では「利口」という意味と「素早い」という意味を使っている。双葉氏はスマートを二回と「そのて(傍点一字)に限る」。村上氏は「かしこい」を二度と「まっとうなこと」としている。ただし、最後のところを「いつになったらかしこくなれるものか」と反語的に訳している。エディ・マーズとの話の内容如何によって、これが効いてくるのだろうか。