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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第二十二章(3)

《エディ・マーズはかすかに微笑み、それから頷いて胸の内ポケットに手を伸ばした。隅を金で飾った仔海豹の鞣革製の大きな財布を抜き出し、無造作にクルピエのテーブルに投げた。「かっきり千ドル単位で賭けを受けろ」彼は言った。「ご異存がなければ、今回に限り、このレディお一人との勝負にさせていただきます」
 誰にも異存はなかった。ヴィヴィアン・リーガンは身を乗り出し、両手で乱暴に儲けを全部、レイアウトの大きな赤のダイヤモンドの上に押しやった。
 クルピエは急ぐ風もなくテーブルの上に身を傾けた。彼は金とチップを数えてその場に積み重ねると、きれいな山にした端数のチップと札を、レイクでレイアウトの外に押し出した。彼はエディ・マーズの財布を開けて千ドル札の平たい束を二つ引き出した。その一束の封を切り、六枚を数えて未開封の束に加えると、残りの四枚を財布の中に戻し、マッチ箱みたいにさりげなく脇に置いた。エディ・マーズは財布に触れもしなかった。クルピエ以外に動くものはなかった。彼は左手で回転盤を回し、手首を軽くひねって上の縁すれすれに象牙の球を投げ入れた。それから手を引いて、両腕を組んだ。
 ヴィヴィアンの両唇はゆっくり、光を受けた歯がナイフのようにきらきらするところまで開いた。球は回転盤のスロープをのろのろとさまよいながら下り、数字を区切るクロムの仕切りの上で跳ねた。長い時間が過ぎた後で、ことんという乾いた音とともに突然その動きは止まった。回転盤は球をのせたまま速度を緩めていった。クルピエは盤の回転が完全に止むまで組んだ両腕を解かなかった。
「赤の勝ち」彼は関心がなさそうに形式的に言った。小さな象牙の球は赤の25にあった。ダブル・ゼロから三つ目。ヴィヴィアン・リーガンは頭をのけ反らせて勝ち誇るように笑った。
 クルピエはレイクを取り上げ、千ドルの札束の山をレイアウト越しにゆっくり押して彼女の賭け金に加え、それらすべてをゆっくりと勝負の場の外に出した。
 エディ・マーズは微笑んで財布をポケットにしまうと、踵を返して鏡板についたドアを抜けて部屋を後にした。
 十数人ほどの人々は一斉に息を吐き出し、バーの方へ散っていった。私も彼らとともにそこを離れ、ヴィヴィアンが儲けをかき集めてテーブルを離れる前に部屋の向こう側にいた。私は人気のない広いロビーに出て、手荷物預かりの娘から帽子とコートを貰って、二十五セント硬貨をトレイに入れ、ポーチに出た。ドアマンがどこからか私の傍に現れて言った。「お車をお持ちしましょうか?」
 私は言った。「少しばかり歩くよ」
 張出し屋根の縁に廻らした渦巻き装飾は霧のせいで湿っていた。海岸の切り立った崖に向かって暗さを増していくモントレー糸杉から霧が滴だっていた。どこを見渡しても十フィート足らずの視界しか得られなかった。私はポーチの階段を降り、木立の間をあてもなく歩き、覚束ない小径を辿っていくと、霧を舐めるように岸に打ち寄せる波の音が崖のずっと下の方から聞こえてきた。どこにもわずかな光すらなかった。木立ははっきり見える時もあればぼんやりと見える時もあり、やがて霧のほかは何も見えなくなった。私は左に回り込み、駐車場代わりの厩舎を一回りする砂利道の方に引き返した。屋敷の輪郭がようやく見分けられるようになって、私は足を止めた。私の少し前で男の咳が聞こえた。
 湿った芝生のせいで足音は立たなかった。男は再び咳をし、ハンカチか袖で咳を抑えた。彼がそうしている間に、私は近づいた。小径の傍らに立つぼんやりとした影を私は認めた。何かが私を木の陰に入って屈みこませた。男が振り返った。その顔は霧でぼんやりと白いはずだった。そうではなかった。暗いままだった。覆面をつけていたのだ。
 私は待った。木の陰で。》

またもや出てきた「隅を金で飾った仔海豹の鞣革製の大きな財布」は<a large pinseal wallet with gold corners>。第四章でガイガーの店を訪れた客が持っていた財布の大型版だ。<pinseal>を調べるとチャンドラーの『大いなる眠り』が例文として引用されている。若い海豹の皮をなめした革に角に金の飾をつけるのが当時の流行だったのだろうか。それともチャンドラーがどこかで目にして気になっていたのだろうか。双葉氏は「角に金をつけた大きな紙入」。村上氏は「角に金をあしらった、大きなアザラシ革の札入れ」。両氏とも子どものアザラシであることにこだわっていない。

「レイアウトの大きな赤のダイヤモンド」は<the large red diamond on the layout>。ルーレット・テーブルにはどこに賭けるかを記したレイアウトと呼ばれる枠がある。長方形をいくつかの線で区切ったその最下段にあるのが赤のダイアモンド。双葉氏は「大きな赤い仕切り」と訳しているが、仕切り線は普通白だ。村上訳は「レイアウトの大きな赤のダイヤモンド」。こうとしか訳しようがない。

「マッチ箱みたいに」は<as if it had been a packet of matches>。双葉氏も同じ訳だが、村上氏は「まるで紙マッチか何かみたいに」とより詳しく訳している。この時代にアメリカではすでに紙マッチ(ブックマッチ)は流布していたから、紙マッチであっても不思議ではないが、<packet>には「束」のほかに「小箱」の意味もある。あえて紙マッチと解する理由があるだろうか。

ここで<a packet of matches>を出してきた理由は、日本語訳ではよく分からない。実は、その前に出てきた「千ドル札の平たい束」が<flat packets of thousand-dollar bills>、「未開封の束」が<unbroken packet>と、いつものように<packet>が使い回されているのだ。同じ<packet>であるのに、片方は千ドル札の札束、もう一方はマッチの箱(あるいは束)という軽重の比較の面白さをねらっての< a packet of matches>だ。もしかしたら、村上氏は<packet>が繰り返されることで< a packet of matches>をそのまま英語で「マッチの束」と読んで、紙マッチを思い浮かべたのかもしれない。

「ヴィヴィアンの両唇はゆっくり、光を受けた歯がナイフのようにきらきらするところまで開いた」は<Vivian’s lips parted slowly until her teeth caught the light and glittered like knives.>。双葉氏は「ヴィヴィアンのくちびるが徐々に開いた。光を受けた歯がナイフを並べたようにきらめいた」と訳している。村上氏も「ヴィヴィアンの唇がゆっくりと開いた。歯が明かりを受けて、ナイフのようにきらりと光った」と訳す。

唇が開いて、歯がきらめくのが見えた、という結果的には同じことを言っているのだが、両氏の訳では<until>の意味が伝わらない。もしかしたら、それ以上に開いたかもしれないと思わせる表現になっている。ふだんは細かいところにこだわらない双葉氏が<knives>の複数形を気にして「ナイフを並べたように」と訳しているのが面白い。正しいのだろうが、ヴィヴィアンの歯の一本一本がナイフのように思えて、少し怖い。

「その顔は霧でぼんやりと白いはずだった」は<His face should have been a white blur when he did that.>。双葉氏は「白いものがほのめいた。顔が白いのか」と訳しているが、白く見えたはずがない。顔は<mask>で覆われているのだから。<should have been>は「はずだった」と訳すべきで、村上氏も「その顔は霧に白くぼやけて見えるはずだったが」と訳している。