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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第二十六章(2)

《喉を鳴らすような唸り声が今は楽し気に話していた。「その通り、自分の手は汚さないで、おこぼれにありつこうとするやつがいる。それで、お前はあの探偵に会いに行った。まあ、それがおまえの失敗だ。エディはご機嫌斜めだ。探偵は、誰かが灰色のプリムスで自分をつけてる、とエディに言った。エディとしたら、当然誰が何のためにやってるのか、知りたいだろうさ」
 ハリー・ジョーンズは軽く笑った。「それがエディと何の関わりがあるんだ?」
「要らぬ世話を焼くな、ということさ」
「知っての通り、俺は探偵のところに行った。それはもう話したな。ジョー・ブロディの女のためだ。あいつは逃げたいが金がない。探偵なら金を出すと考えたのさ。俺は金を持っていないし」
 唸り声はおだやかに言った。「何のための金だ? 探偵がお前のような若造に気前よく金をはずんでくれるはずがない」
「あいつは金を工面できる。金持ち連中を知ってるからな」ハリー・ジョーンズは笑った。勇ましいちびの笑いだ。
「無駄口をたたくんじゃない、坊や」唸り声には鋭さがあった。ベアリングに混じった砂のように。
「わかった、わかった。知ってるよな、ブロディが始末された件だ。頭のイカレた小僧の仕業だった。ところが、事件が起きた晩、そのマーロウが偶々その場に居合わせたんだ」
「知れたことさ、坊や。あいつが警察に話している」
「そうだ──が、話してないこともある。ブロディは娘のヌード写真をスターンウッドに売りつけようとしていた。マーロウはそれを嗅ぎつけた。話し合いの最中にその娘がふらっと立ち寄ったのさ──銃を手にして。そしてブロディを撃った。その一発は逸れて窓ガラスを割った。探偵はそのことを警察に言わなかった。もちろんアグネスも。しゃべらなきゃ汽車賃くらいにはなると考えたのさ」
「エディとは何も関係がないというんだな?」
「あるなら聞かせてくれ」
「アグネスはどこだ?」
「何も話すことはない」
「話すんだ、坊や。ここか、それとも若いのが壁に小銭をぶつけてる裏の部屋がいいか」
「あれは今では俺の女だ、カニーノ。俺は自分の女に、誰も手出しはさせない」
 沈黙が続いた。私は雨が窓を打つ音に耳を傾けていた。煙草の薫りがドアの隙間を通って流れてきた。咳が出そうになり、ハンカチを強く噛んだ。
 唸り声が言った。まだ穏やかだった。「聞くところによると、その金髪娘はガイガーの客引きに過ぎない。エディに掛け合ってみよう。探偵からいくらふんだくったんだ?」
「二百だ」
「手に入れたのか?」
 ハリー・ジョーンズはもう一度笑った。「明日会うんだ。そう願ってるよ」
「アグネスはどこだ?」
「あのなあ──」
「アグネスはどこだ?」
 沈黙。
「これを見ろよ、坊や」
 私は動かなかった。私は銃を持っていなかった。ドアの隙間から覗かなくても銃だと分かっていた。唸り声がハリー・ジョーンズに見せようとしているもののことだ。しかし、ミスタ・カニーノがちらつかせる以上のことを銃にさせるとは思えなかった。私は待った。
「見てるよ」ハリー・ジョーンズは言った。その声はまるでやっと歯の間を通ったとでもいうようにきつく絞り出された。「目新しいものは見えないがな。やれよ、撃てばいい。それであんたは何を手に入れるんだ」
「俺はどうあれ、おまえが手に入れるのは、棺桶(シカゴ・オーバーコート)さ、坊や」
 沈黙。
「アグネスはどこだ?」
 ハリー・ジョーンズはため息をついた。「分かったよ」彼はうんざりして言った。》

「自分の手は汚さないで、おこぼれにありつこうとするやつがいる」は<a guy could sit on his fanny and crab what another guy done if he knows what it's all about>。直訳すれば「もし、それについて知っているなら、そいつは他の男がすることを、自分の尻の上に座りながらできる」。双葉氏は「誰だってひと様の尻尾をにぎりゃ、うまい汁を吸いたくならあ」。村上氏は「自分じゃ腰一つ上げねえくせに、したり顔で他人の上前をはねようとするやつがいる」だ。<fanny>は「尻」。両氏とも「尻尾」、「腰」を使うことで原文を生かす工夫をしている。

「要らぬ世話を焼くな、ということさ」は<That don't get you no place>。双葉氏は「おめえが虻蜂(あぶはち)とらずになるってことよ」と訳している。村上氏は「つまらん真似をすると痛い目にあうってことさ」だ。ギャングということで、大仰な文句になっているが、< no place>を<nowhere>と置き換えると、<get you nowhere>「(人)の役に立たない、(人)に何の効果ももたらさない」という成句に突き当たる。<don't get you no place>は「無駄なことはよせ」くらいでいいのでは。

「勇ましいちびの笑い」は<a brave little laugh>。双葉氏は「なかなか勇敢な笑いだ」。村上氏は「勇気のある小さな笑いだった」と訳している。グリム童話に「勇ましいちびの仕立て屋」という話がある。それをもとにしたディズニーの短篇映画『ミッキーの巨人退治』(Brave Little Tailor)が1938年に公開されている。それの引用ではないかと思われるが、確かなことは分からない。余談だが、SF作家、トマス・M・ディッシュには『いさましいちびのトースター』(The Brave Little Toaster)という児童向け短篇があり、アニメ化もされている。

「無駄口をたたくんじゃない、坊や」は<Don’t fuss with me, little man.>。双葉氏は「おれをなめるつもりか」。村上氏は「俺を甘く見るんじゃないぜ、ちび公」だ。<fuss>は「空騒ぎ」の意味で、<Don’t fuss with me>は無駄なことで騒ぎ立てることをいましめる成句だ。特にギャングだからおどしをかけているわけではない。<little man>を両氏とも「ちび公」と訳しているが、相手に呼びかける言葉としては、ふつう「坊や」の意味。

「目新しいものは見えないがな」は<And I don’t see anything I didn’t see before.>。双葉氏は「まだ見たことがねえものは見えねえんだ」。村上氏は「前にも見たことのあるものしか見えない」。「これを見ろ」と言われても、相手が手にしているのはおなじみの銃である。「それがどうした」というのを、精一杯つっぱって、こう言ったのだろうが、分かりにくい物言いである。

「俺はどうあれ、おまえが手に入れるのは、棺桶(シカゴ・オーバーコート)さ、坊や」は<A Chicago overcoat is what get you, little man.>。双葉氏は「おれがどうなろうと、おめえは蜂の巣になるのさ。ちび公」と訳している。「おれがどうなろうと」というのは、その前のハリー・ジョーンズの<and see what it gets you>を「おめえがどういうことになるか、ためしてみな」と訳しているからだろう。

村上氏は「お前さんはシカゴのオーバーコートを手に入れるのさ(棺桶のこと)、ちび公」と小文字で注を入れている。<Chicago overcoat >というのは、シカゴのギャングの間で使われていた隠語で「棺桶」を表す言葉。<what it gets you>を文字通り「何を得るか」と読めば、こういう訳になるだろう。わざわざ「お前さんは」を前に出したのは、斜字体の<you>に配慮してのこと。