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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第二十六章(3)

《「バンカー・ヒルのコート・ストリート二八番地にあるアパートメント・ハウス。部屋は三〇一。俺は根っからの意気地なしさ。あんな女の代りに死ぬ理由はないだろう?」
「その通り。いい料簡だ。いっしょにご挨拶に出かけようぜ。俺はただ、女がお前に話していないことを知りたいだけだ。もしお前の言ったとおりだったらそれでよし。探偵に金をせがんでどこへなりと消えな。恨みっこなしだぜ」
「ああ」ハリー・ジョーンズは言った。「恨みっこなしだ。カニーノ」
「けっこうだ。一杯やろう。グラスはあるのか?」唸り声は今では劇場の案内係の睫のように空々しく西瓜の種のようにつかみどころがなくなった。抽斗が開けられた。何かが木にぶつかる音がした。椅子が軋り、床をこする音がした。「こいつは上物の酒だ」唸り声が言った。酒の注がれる音がした。「さあ乾杯といこうじゃないか」
 ハリー・ジョーンズが静かに言った。「成功に」
 急激にせき込む音が聞こえた。それから激しい嘔吐。ごつん、と厚手のグラスが床に落ちたような小さな音がした。私の指はレインコートを握りしめた。
 唸り声が優しく言った「たった一杯で吐く手はないだろう、なあ相棒?」
 ハリー・ジョーンズは答えなかった。少しの間、苦しい息遣いがあった。それから深い沈黙に包まれた。その後で椅子が軋った。
「さようなら、坊や」カニーノ氏が言った。
 足音、かちりという音、足もとの楔形の光が消えた。ドアが開き、静かに閉まった。足音が消えていった。ゆっくりと落ち着き払って。
 私は体を動かしてドアの縁まで行き、大きく開いて、窓からの薄明かりを頼りに暗闇の中をのぞき込んだ。机の角が微かに光っていた。椅子の後ろに背中を丸めた姿が浮かび上がった。閉ざされた空気には重苦しい、香水のような匂いがした。私は廊下に通じるドアまで行って耳を澄ました。遠くでエレベーターの金属と金属が擦れ合う音が聞こえた。
 私は明かりのスイッチを探しあてた。天井から三本の真鍮の鎖で吊るされた埃っぽいガラスのボウルに明かりがついた。ハリー・ジョーンズは机越しに私を見ていた。眼を大きく見開き、顔は激しい痙攣で凍りつき、皮膚は青みがかっていた。小さな黒髪の頭は片側に傾いていた。椅子に背をもたせて真っ直ぐ座っていた。
 路面電車が鳴らすベルの音が遥か彼方から無数の壁に打ち当たって響いてきた。蓋の開いたウィスキーの褐色の半パイント瓶が机の上にあった。ハリー・ジョーンズのグラスが机のキャスターのそばで光っていた。もうひとつのグラスはなくなっていた。
 私は肺の上の方で浅い呼吸をしながら、瓶の上に身をかがめた。バーボンの香ばしい薫りの陰に微かに他の臭いが潜んでいた。ビター・アーモンドの匂いだ。ハリー・ジョーンズは自分のコートの上に嘔吐して死んでいた。青酸カリだろう。
 私は用心深く死体のまわりを歩いて、窓の木枠に吊るされていた電話帳を持ち上げ、そしてまた元に戻した。電話機に手を伸ばして、小さな死者からできるだけ離れたところに引き寄せた。番号案内のダイヤルを回した。声が答えた。
「コート・ストリート二八番地、アパートメント三〇一の番号を知りたいんだが」
「少々お待ちください」声は甘酸っぱいアーモンド臭に運ばれてやってきた。沈黙。「番号はウェントワース二五二八。グレンダウアー・アパートメント名義で記載されています」
 私は声に礼を言って、その番号を回した。ベルが三回鳴った。それからつながった。電話口からラジオの大きな音が聞こえたが、小さくなった。ぶっきらぼうな男の声が言った。「もしもし」
「そこにアグネスはいますか?」
「いや、ここにアグネスはいない、あんた、何番にかけてるんだ?」
「ウェントワース二五二八」
「番号は正解。女がまちがい。残念でした」甲高い笑い声だった。》

「バンカー・ヒルのコート・ストリート二八番地にあるアパートメント・ハウス。部屋は三〇一」は<She's in an apartment house at Court Street, up on Bunker Hill. Apartment 301.>。双葉氏は「バンカー・ヒルの上のコート通り二八番地のアパートだ。三〇一号アパートだ」と訳している。アメリカでは集合住宅を<apartment house>と呼び、その中の一世帯を<apartment>と呼ぶ。つまり< Apartment 301>は、三〇一号室を指す。因みに<up on>の後に数字が来ると「〜番街に」という意味になる。バンカー・ヒルは区画の名だから、「バンカー・ヒルの上の」はおかしい。

「あんな女の代りに死ぬ理由はないだろう?」は<Why should I front for that twist?>。双葉氏は「だが、蜂の巣にされてまであの女に義理立てするて(傍点一字)はないだろう?」。村上氏は「しかしそんな面倒に巻き込まれるのはごめんだよ」と意訳している。<front for〜>は「〜の(不法な行為をごまかす)隠れ蓑となる」という意味。<twist>は「(ふしだらな)女」を表す俗語。

「俺はただ、女がお前に話していないことを知りたいだけだ」は<All I want is to find out is she dummying up on you, kid.>。<dummy up>とは「口を利かない、押し黙る」という意味だが、双葉氏は「女がどれくらいおめえに首ったけだか見せてもらうだけの話さ」と訳している。「首ったけ」という訳語がどこから来たのかは分からないが誤訳だろう。村上氏は「俺が知りたいのは、女がお前に隠し事をしていないか、それだけだ」と訳している。

「恨みっこなしだぜ」は<No hard feelings?>。次の行の「恨みっこなしだ」も同じ。双葉氏は「悪く思うなよ」、「思わねえよ」。村上氏は「それで文句はあるまいな?」、「文句はないよ」だ。会話の最後にくっつけて、悪気のないことを双方で確認する場合によく使われる言葉だが、訊いた方には疑問符がついている。これを同じ言葉で返した方には疑問符はつかない。双方同じ文句にするには「恨みっこなしだ」が、お誂え向きだと思う。

「こいつは上物の酒だ」は<This is bond stuff>。双葉氏は「こいつぁ保税倉庫に入ってた奴だぜ」と訳している。<bond>は「保税倉庫に入れる」の意味で、瓶詰め前に保税倉庫に4年以上入れておいたウイスキーのことを<bonded whisky>といった。おそらく熟成が進むのだろう。双葉訳が正しいのだが、注がないと分かりづらいので、村上氏も「こいつは上等な酒だぜ」と意訳している。

「酒の注がれる音がした」は<There was gurgling sound>。双葉氏は「ごくごくと喉が鳴るのがきこえた」と訳しているが、これはおかしい。そのすぐ後にカニーノが「さあ乾杯といこうじゃないか」と言っているからだ。<Moths in your ermine, as the ladies say.>というのが、カニーノの台詞だが、双葉氏はここをカットしている。乾杯の時に挙げる言葉の一種なのだろう。<ermine>はオコジョのことで、白地に小さな黒点の入った白貂の毛皮のことでもある。「貴婦人たちに倣って『あなたの毛皮の虫食いに』」とでも訳すのだろうか。アイロニカルな文句だが、そのままでは意味が通じない。村上氏も「さあ乾杯といこう」と意訳している。

「ごつん、と厚手のグラスが床に落ちたような小さな音がした」は<There was a small thud on the floor, as if a thick glass had fallen.>。<thud>は「ドシン、ドタン、バタン」のような衝撃音を表す。双葉氏は「厚いガラスがたおれるような音がきこえた」と訳しているが、厚いガラスが倒れたら小さな音ではすまないだろう。村上氏は「何かが床を打った。分厚いグラスが落ちたような音だ」と訳している。

「たった一杯で吐く手はないだろう、なあ相棒?」は<You ain’t sick from just one drink, are you, pal?>。双葉氏は「たった一杯飲んでのびるて(傍点一字)はねえぜ」。村上氏は「たった一杯で倒れる手はなかろうぜ、兄弟」だ。ただ、次の場面でマーロウが目にするハリー・ジョーンズは椅子に座ったままの姿勢でこと切れている。「のびる」も「倒れる」も適していない。この<sick>は「吐き気を催す」の意味ではないか。

「ハリー・ジョーンズのグラスが机のキャスターのそばで光っていた」は<Harry Jones’ glass glinted against a castor of the desk.>。双葉氏は「ハリー・ジョーンズのグラスひとつが光っていた」と訳しているが、これだと机の上に置かれているようにしか読めない。もしかしたら、双葉氏はハリー・ジョーンズの手からグラスが落ちたことに気づいていないのか。だから「厚いガラスがたおれるような音がきこえた」と訳したのだ。

バーボンの香ばしい薫り」は<the charred smell of the bourbon>。バーボンは焦がしたオークの樽で熟成させるので、香ばしい薫りがする酒だ。それを村上氏のように「バーボンの炭で焦がした臭い」や、双葉氏のように「ブールボン・ウィスキーの焦げ臭いにおい」と訳されたら身も蓋もない。匂いに関しては、もう一つ気になる点がある。

「ビター・アーモンドの匂い」は<the odor of the bitter almonds.>。これを双葉氏は「苦い巴旦杏(はたんきょう)の臭い」、村上氏は「苦いアーモンドの匂い」と訳している。誤解があるようだが、基本的にシアン化物は無臭で苦いのは味の方である。バーボンに混ぜられたシアン化物からビター・アーモンドの匂いはしないはずで、これはチャンドラーのまちがいか、あるいはマーロウがハリー・ジョーンズの吐息から漂う臭いを誤認したかのどちらかだ。

われわれがふだん食べているのはスイート・アーモンドの方である。これとはちがい、ビター・アーモンドという野生種に近いアーモンドがあり、ビター・アーモンド・エッセンス、オイルの原料とするために栽培されている。中に含まれるアミグダリンという成分には苦味と毒性がある。よく言われる青酸カリのアーモンド臭とは、収穫前のビター・アーモンドの甘酸っぱい匂いのことで、シアン化物中毒者の体内で化学反応してできた青酸ガスの匂いがそれに似ているという。これを誤って吸った場合、自分も中毒する恐れがある。マーロウが死体に近寄らないのはそれを知っているからだ。