marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第二十七章(1)

《「お金をちょうだい」
 声の下でグレイのプリムスのエンジンが震え、上では雨が車の屋根を叩いた。頭上遥か、ブロック百貨店の緑がかった塔の頂では菫色の灯りが、雨の滴る暗い街からひとり静かに身を引いていた。女は身を屈めダッシュボードのかすかな光で金を数えた。バッグが音を立てて開き、音を立てて閉まった。女は疲れ切った息を吐き切ると、私に身を寄せた。
「もう行くわ、探偵さん。逃げる途中なの。これがなくては逃げるに逃げられない。ハリーに何があったの?」
「逃げたと言っただろう。カニーノが何かを嗅ぎつけた。ハリーのことは忘れろ。払った分の情報がほしい」
「話すところよ。ジョーと私は先週の日曜、フットヒル大通りを車で走ってた。灯ともし頃で車はいつものように混雑してた。茶色のクーペを追い越したとき、運転してる女を見たの。横には男がいた。浅黒い背の低い男。女は金髪で以前に見たことがあった。エディ・マーズの奥さんよ。男の方はカニーノ。一度見たら忘れられない二人組。ジョーはそのクーペの後をつけた。尾行がうまいのよ。番犬のカニーノが気分転換に連れだしたのね。リアリトから一マイルほど東へ行ったところで道は丘の方に向かうの。南に行けばオレンジ畑が続くけど、北に行けば地獄の裏庭のように剥き出しの土地で、丘と衝突したように燻蒸消毒用の薬品を作るシアン化物工場が建ってる。ハイウェイをちょっと外れたところにアート・ハックっていう男がやってる小さな塗装兼修理工場がある。盗難車を売買してそうな店よ。そこを過ぎると木造家屋が一軒建っている。その先には丘と露頭と二マイル先のシアン化物工場のほか何もない。そこが彼女の隠れ家よ。二人はそこで脇道に入ったので、ジョーはやり過ごしてから引き返すと、車が入った脇道の先に一軒の木造家屋が見えた。半時間ほどそこに座って車が通るのを見てたわ。誰も戻ってこなかった。すっかり暗くなってからジョーがこっそりのぞきに行った。ジョーが言うには、家には明かりがついて、ラジオが鳴っていて、玄関には一台だけ車が停まっていた。クーペよ。それで私たちは引き上げた」
 女は話しを止め、私はウィルシャー大通りを行くタイヤの軋る音に耳を澄ませた。私は言った。「その後で隠れ家を引っ越したかもしれない。だが、ともあれ売り物はそれか。人違いじゃないだろうな」
「一度でもあの女を見たなら、次に見まちがえたりしない。さよなら、探偵さん。幸運を祈っててね。まったくひどい目にあったんだから」
「散々だったな」私は言った。そして通りを横切って自分の車まで歩いた。
 グレイのプリムスは動き出し、スピードを上げ、サンセット・プレイスに向かうコーナーに突っこんでいった-。エンジン音が消え、私の知る限り金髪のアグネスはその姿を永遠に消し去った。三人の男が死んだ。ガイガー、ブロディ、そしてハリー・ジョーンズ。そして女は私の二百ドルを鞄に入れ、雨の中を跡形もなく走り去った。私は弾みをつけ、ダウンタウンまで飯を食いに行った。しっかりとした夕食だ。雨の中の四十マイルはちょっとした遠出だ。おまけに私は往復したいと思っていた。
 私は北に向かい、川を渡ってパサデナに入った。パサデナを抜けるとすぐにオレンジ畑だった。どしゃ降りの雨がヘッドライトを浴びて厚く白い水煙になった。ワイパーをいくら速く動かしても、視界をクリアに保つことは難しかった。それでも、濡れそぼつ闇を通してオレンジの樹々の完璧な輪郭が無限に続く輻のように夜の中を走り去るのが見えた。
 行き交う車はつんざくような音を立て、汚れた水煙を波打たせて通り過ぎた。 ハイウェイは小さな町をいくつも通り抜けた。オレンジの選果場と倉庫、それに寄り添う鉄道の引き込み線がすべてといった町だ。いつかオレンジ畑はまばらになり、南の方に消えていった。そして道が上りになるにつけ寒くなった。北方に黒い丘陵が身を屈めて近づき、山腹に激しい風を吹きつけた。 やがて暗闇の中にぼんやりと二つの黄色い蒸気灯が浮かびあがり、その間に「リアリトへようこそ」と告げるネオンサインが見えた。》

「地獄の裏庭のように剥き出しの土地で、丘と衝突したように」は<it’s a bare as hell’s back yard and smack up against hills>。双葉氏はここもカットしている。村上氏は「地獄の裏庭みたいな荒涼とした土地で、その突き当りには、丘にしがみつくような格好で」と訳している。<smack>は「衝突する、ぶつかる、強く打つ」などの意味。

「小さな塗装兼修理工場がある」は<there’s a small garage and paintshop>。双葉氏は「小さな車庫と、ペンキ屋があるの」と訳しているが、そんな地獄の裏庭のような場所でペンキ屋を営む物好きはいない。村上氏は「小さな修理工場がある。塗装もする」だ。実は双葉氏、この後の<Hot car drop, likely.>を「車はそこで速力を落したの」と誤訳している。これが読めていないのでペンキ屋になってしまったんだろう。村上氏の訳では「たぶん盗難車をさばく店ね」だ。<hot car>とは「盗難車」のことで、<drop>は「(盗品などの)隠れ売買所」のことだ。

「一軒の木造家屋が見えた」は<where the flame house was.>。双葉氏はここもカットして「車が曲がって行ったところで、三十分ほど見張っていたの」と訳している。<the flame house>とあるように、それまでに一度出てきている。初出なら<a flame house>だ。双葉氏は簡潔な訳を好むが、脇道の向こうにこの家があることはそれまでに書かれていない。後に訪れるであろうマーロウが無事たどり着けるように、ここは正確に訳しておく必要がある。アグネスの道案内は行き届いているのだ。

「跡形もなく」と訳したのは<not a mark on her>。双葉氏は「何の刻印も残さずに」と訳している。村上氏は「かすり傷ひとつ負わずに」と訳している。その前に男が三人死んだ、とあるので村上氏の訳はそれを考慮に入れているのだろう。蛇足ながら、この時点で男はもう一人死んでいる。運転手のオーウェン・テイラーだ。なぜ三人としたのだろう。使用人は物の数ではないのだろうか。

「私は弾みをつけ」は<I kicked my starter>。双葉氏は「私はスターターをけり」とそのまま訳しているが、バイクではないのだから、これはおかしい。村上氏は「私は車のアクセルを踏み」と、無難な訳にしているが、まだエンジンをかけてもいないのにアクセルを踏んでもはじまらない。<kick starter>には、オートバイなどのペダルを踏んで始動させる、という通常の意味のほかに「(活動などの)始動時に弾みをつける」という意味がある。<my starter>とあるように、ここは遠出を前に自分に元気をつける意味で食事に出かけたのだろう。

「私は往復したいと思っていた」は<I hoped to make it a round trip.>。双葉氏は「遊覧旅行なら申し分ないのだが」と訳している。<round trip>は「周遊旅行」の意味もあるが、アメリカ英語では「往復旅行」の意味になる(英<return trip>)。村上氏は「私としては片道とはいわず、できれば往復したいところだ」と相変わらず丁寧な訳しぶりだ。四十マイルは約六十キロ。往復で百二十キロなら普通は日帰りだ。「日帰り」と訳しかけたが、日をまたぐことも考えて「往復」にした。

「オレンジの選果場」と訳したところは<packing houses>。双葉氏は「オレンジの包装所」と訳している。辞書には「選果包装施設」などのほかに「缶詰工場」という訳語も載っている。村上氏は「缶詰工場」を採っているが、オレンジ畑が続いていることを盛んに強調していることもある。ミカンの缶詰というのもあるが、オレンジならそのまま箱に詰めるだろう。日本語としては「選果場」が一般的ではないか。

「山腹に激しい風を吹きつけた」は<sent a bitter wind whipping down their flanks.>。村上氏は「刺すような風を山腹に向けて吹き下ろした」と訳している。ところが、双葉氏は「その中腹から酸っぱい臭いが流れて来た」と訳している。シアン化物工場という言葉からの連想で<a bitter wind>を「酸っぱい臭い」と思ってしまったのだろう。しかし、雨の中のドライブで窓を開けているわけがない。この<bitter>は「(雨、寒さなどが)激しい、厳しい」の意味だろう。