marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『十三の物語』スティーヴン・ミルハウザー

十三の物語
ミルハウザーらしさに溢れた短篇集。<オープニング漫画><消滅芸><ありえない建築><異端の歴史>の四部構成になっており、<オープニング漫画>は「猫と鼠」一篇だけ。後の三部は各四篇で構成されている。「トムとジェリー」を想像させる猫と鼠の、本心では互いを必要としながらも、習性として策略を廻らして戦い続ける宿命の二人組を文章で描き切った一篇は「パン屋の一ダース」にするためのミルハウザーからのおまけだろう。

残る三部はタイトルから分かるように、いかにもミルハウザーというべきジャンル分けになっている。中篇であれば作り込んだ設定の中で、ディテールに凝りまくって読者をうならせるミルハウザーだが、短篇の場合、一つのテーマに絞り込んで、脇見もせず一気に驚愕のラストまで読者を送り込む。息もつかせぬ迫力がミルハウザーの短篇の真骨頂だ。

<消滅芸>のテーマはその名の通り「消滅」。おとなしくて印象の薄い同級生が鍵のかかった部屋からいなくなる「イレーン・コールマンの失踪」。誘拐か、それとも失踪か、捜査は進むが、誰もがイレーンという少女はどんな顔をしていたのか思い出せない。「私」も一生懸命思い出そうとするのだが結果は空しい。誰にも自分を正視してもらえなかった少女の消滅の過程を検証した胸の痛む一篇。

転校生の家を訪れた「僕」が真っ暗な部屋で暮らす妹に紹介される「屋根裏部屋」。いつ行っても部屋は暗い。容貌に問題でもあるのか、それとも兄の悪戯か、姿の見えない相手に対する「僕」の好奇心は高まるばかり。そして遂にカーテンが開かれるとき「僕」は意外な行動に出る。「危険な笑い」は他愛ないゲームとして始まった「笑いクラブ」がどんどエスカレートしていく狂気を描く。「ある症状の履歴」は、ハイデガーのいう頽落を避けるため、空言に耽ることができなくなってしまった男の妻に寄せる弁明の書だ。

<ありえない建築>は、これぞミルハウザーという作品ばかり。透明なドームで家を丸ごと覆ってしまうという流行は、やがて街全体を覆うものとなり、遂には……。行き着く果てはご想像の通りという奇想溢れる「ザ・ドーム」。ミルハウザーお得意の微細な世界の構築を描くのが「ハラド四世の治世に」だ。王に雇われた細密細工師の作り出す、拡大鏡がなくては見ることのできない作品は人々の評判を呼ぶが、匠は一向に満足できない。中島敦の『名人伝』を彷彿とさせる一篇。

遂に天に到達した塔に住みついた人々を描く「塔」は、ブリューゲル描く『バベルの塔』の画を思い出させる。あまりに距離が遠く、一代では天に到達することもかなわず、地に戻ることもできない人々は子孫にその願いを託す。想像を絶する高さの塔の建築過程を克明に描写する作家の愉悦を思う。他に、自分たちの住む町の複製を隣に作り、時々はそこを訪れるのを楽しみにする人々を描く「もう一つの町」を含む。

<異端の歴史>は、歴史が主題。「ここ歴史協会で」は、過去の再現のためにすべてを蒐集しようとする学芸員の偏執病的な思考を前面に押し出すことで、その異様さを暴き出す。確かボルヘスに実寸大の地図製作を描いた一篇があったと思うが、それの歴史版。「流行の変化」は、女性のファッションの変遷をややシニカルに描いたもので、流行の変化にとらわれずにいられない人々をコミカルに描く。

異端の芸術家の試みを描いたのが「映画の先駆者」。落語に「抜け雀」というのがある。旅の絵師が屏風に描いた雀が毎朝餌を求めて絵から抜け出す話だ。画家ハーラン・クレーンが描いた絵の中の蠅は、とまっていた林檎から隣の林檎に飛び移る。やがて、大きな会場を借り切ったクレーンは舞踏会を描いた大作を披露する。画中の人々は奏でられるワルツに合わせて絵から舞台に出てきて躍り出す。しかし、音楽が終わると絵の中に戻る。一昔前の興行師を描かせるとミルハウザーの筆は冴えわたる。他にエジソンをモデルに、皮膚感覚を機械的に再生する触覚機(ハプトグラフ)の発明を描く「ウェストオレンジの魔術師」を含む。

海岸の砂浜に斜めに刺さるジュース瓶といった、古き佳きアメリカの夏の風景を入口に、それが徐々に極大或いは極小といった一定の方向に極端化されていく。論理的には不可能な世界が目に見えるように、精緻にどこまでもリアルに描出される。そんな世界を描かせたらミルハウザーの右に出る者はいない。それでいながら、どこかエドワード・ホッパーが描いたアメリカのような郷愁を感じさせるレトロスペクティブな世界が共存しているところが、ミルハウザー・ワールドの魅力だ。