marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第二十八章(2)

《女はさっと頭を振り、耳を澄ませた。ほんの一瞬、顔が青ざめた。聞こえるのは壁を叩く雨の音だけだった。彼女は部屋の向こう側へ戻って横を向き、ほんの少しかがんで床を見下ろした。
「どうしてここまでやって来て、わざわざ危ない橋を渡ろうとするの?」女は静かにきいた。「エディはあなたに何の危害も与えていない。あなたもよく分かっているはず。私がここに隠れなければ、警察はエディがラスティ・リーガンを殺したと考えるに決まってた」
「エディがやったんだ」私は言った。
 女は動かず、一インチも姿勢を変えなかった。息遣いが荒く、速くなった。私は部屋を見渡した。二枚のドアが同じ壁についていて、一方は半開きになっている。赤と褐色の格子柄の敷物、窓に青いカーテン、壁紙には明るい緑の松の木が描かれていた。家具はバス停のベンチに広告を出しているような店で買ったもののように見えた。派手だが耐久性はある。
 女はものやわらかに言った。「エディはそんなことはしない。私はもう何か月もラスティと会っていない。エディはそんなことをする人じゃない」
「君はエディと別居中でひとり暮らしだ。そこの住人が写真を見てリーガンだと認めた」
「そんなの嘘」女は冷たく言い放った。
 私はグレゴリー警部がそんなことを言ってたかどうかを思い出そうとした。頭がぼうっとし過ぎていて、確かめられなかった。
「それにあなたに関係ない」女は付け足した。
「あらゆることが私の仕事なんだ。私は事実を知るために雇われている」
「エディはそんな人じゃない」
「おや、君はギャングが好きなんだ」
「人が賭け事をする限り、賭ける場所がいるでしょう」
「それこそ身びいきが過ぎるというものだ。一度法の外に出たらずっと外側だ。君はあいつを一介のギャンブラーだと思っているんだろうが、私に言わせれば、猥本業者、恐喝犯、盗難車ブローカー、遠隔操作の殺し屋、腐れ警官の後ろ盾だ。自分をよく見せるためには何でもする。金になるなら何にでも手を出す。高潔なギャングなんて売り文句は私には通用しない。やつらはそんな柄じゃない」
「あの人は殺し屋じゃない」彼女は鼻の孔をふくらませた。
「本人はね。だがカニーノがいる。カニーノは今夜一人殺した。誰かを助け出そうとした害のない小男を。私は彼が殺すところを見たと言ってもいいくらいだ」
 女はうんざりしたように笑った。
「いいだろう」私は怒鳴った。「信じなくていい。もしエディがそんなにいい男なら、カニーノがいないところで話がしたいものだ。君はカニーノがどんなことをするやつか知っている──私の歯を折っておいて、もぐもぐ言うからと腹を蹴るんだ」
 彼女は頭を後ろに戻して思慮深げにそこに立っていたが、何か思いついたとでもいうように身を引いた。
「プラチナ・ブロンドの髪は廃れたと思ってた」私は話し続けた。部屋の中に音が満ちて、別の音を聞かずにいられるように。
「ばかばかしい。これは鬘。自前の髪が伸びるまでの」手を伸ばしてそれをぐいと引いた。髪は少年のように短く刈り上げられていた。それから鬘を戻した。
「誰がそんなまねをした」
驚いたようだった。「私がしたんだけど、どうして?」
「そうさ、どうしてだ?」
「どうしてって、見せるため。エディの期待通りに私は身を潜める気があるし、こうすれば見張りはいらない、と。彼の期待に背きたくない。愛しているから」
「やれやれ」私はうめいた。「で、君の方はこの部屋に私と一緒にいるわけだ」
 女は片手を裏返してじっと見つめた。それから不意に部屋を出て行った。戻ってきた手にはキッチン・ナイフが握られていた。かがみこんで私を縛っているロープを切った。
「手錠の鍵はカニーノが持ってる」息をついだ。「私にはどうすることもできない」
 女は後退りして、息を喘がせた。すべての結び目が切れていた。
「面白い人ね」女は言った。「こんな目にあってるのに一息ごとに冗談を言ってる」
「エディは人殺しじゃないと思ってたんだ」》

「一インチも姿勢を変えなかった」は<didn’t change position an inch.>双葉氏は「一インチも位置を変えなかった」と訳しているが、村上氏は「ほんの数センチも姿勢を変えなかった」とメートル法を使っている。村上氏は単位についてはメートルとキログラムを使うことにしているから、こういうふうに書かなければならないだろうが、「一歩も動かない」という言い方と同じで、実際の長さより「一」という最小の単位が大事なんじゃないだろうか。

「家具はバス停のベンチに広告を出しているような店で買ったもののように見えた。派手だが耐久性はある」は<The funiture looked as if it had come from one of those place that advertise on bus benches. Gay, but full of resistance.>双葉氏は「家具は、バスの停車場に広告を出している店から買って来たようなしろものだった」と後の文をカットしている。

村上氏は「バスの待合所に広告が出ているような店で買い集められたものみたいだ。はなやかで、しかも頑丈」と訳している。両氏とも<bus benches>を「停車場」「待合所」と訳しているが、<bus bench>で検索をかけると背凭れ部分に広告のあるベンチの画像ばかりがひっかかる。ここは待合所でも停車場でもなく、ベンチそのものについた広告ではないだろうか。

「そこの住人が写真を見てリーガンだと認めた」は<People at the place where you lived identified Regan’s photo.>。双葉氏は「君が住んでたところにはリーガンの写真があったというぜ」と訳しているが、これはまちがいだ。村上氏は「そこの住人たちはリーガンの写真を見せられて、見覚えがあるといった」と訳している。いずれにせよ、マーロウの記憶ちがいで、グレゴリー警部は、リーガンに似ていなくもない人物が夫人と一緒にいたところを見られている、と言っただけだ。

「自分をよく見せるためには何でもする。金になるなら何にでも手を出す」は<He’s whatever looks good to him, whatever has the cabbage pinned to it.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「彼は見栄えを整えるためなら何にだってなるし、金になるものなら何だって取り込む人間だ」と訳している。<cabbage>は「キャベツ」だが、俗語で「紙幣」の意味がある。「やつらはそんな柄じゃない」は<They don’t come in that pattern.>。双葉氏はここもカットだ。村上氏は「そんなものは通用しない」と訳している。

「私の歯を折っておいて、もぐもぐ言うからと腹を蹴るんだ」は<beat my theeth out and then kick me in the stomach for mumbling.>。双葉氏はここを「僕の歯をへし折ったうえ、腹までけっとばしたんだ」と過去形で訳している。ここは、カニーノがどんな人物かを説明しているところで、あくまでも喩え話だ。村上氏は「まず私の歯を叩き折って、それからもぞもぞとしかしゃべれないといって、私の腹を蹴り上げるようなやつだ」と相変わらず丁寧に訳している。