marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第三十一章(1)

《執事が私の帽子を持って出てきた。私はそれを被りながら言った。
「将軍のことをどう思うね?」
「見かけより弱っておられません」
「もし見かけ通りなら、もう埋められる覚悟ができていそうだ。リーガンという男の何があんなに将軍の気を引いたのだろう?」
 執事はしらけた、そのくせ奇妙に表情を欠いた顔で私を見た。「若さでしょうか」彼は言った。「それと、兵士の目です」
「君のように」私は言った。
「こう申しては何ですが、あなた様の目も似ていなくもない」
「ありがとう。お嬢さんたちは今朝はどうしてる?」
執事は礼儀正しく肩をすくめた。
「だと思ってた」私は言った。執事がドアを開けてくれた。
 私は外に出て階段の上に立ち、目の前の風景を見下ろした。段丘になった芝生と手入れの行き届いた樹木と花壇からなる庭園の基部には背の高い金属柵が巡らされていた。斜面の途中に両手で頭を抱えたカーメンがひとり、しょんぼりと石のベンチに腰掛けていた。
 私は段丘と段丘をつなぐ赤い煉瓦の階段を下りた。私は足音に気づかれる前に近づいた。カーメンは飛び上がって振り返った。猫のように。初めて会ったときと同じ淡青色のスラックスをはいていた。金髪も同じように緩く黄褐色に波打っていた。顔は白かった。私を見たとたん頬に赤みが差した。瞳は灰色だった。
「退屈かい?」
 カーメンはゆっくり、どちらかといえば恥ずかしそうに微笑んだ。そして素早く頷いた。それから囁いた。「私のこと、怒っていない?」
「君の方が怒っていると思っていた」
 カーメンは親指を上げ、くすくす笑いながら言った。「怒っていない」。そのくすくす笑いが私の気を引くことは最早なかった。私はあたりを見回した。三十フィートばかり向こうの木に吊るされた的に、ダーツが何本か刺さっていた。さっきまで座っていた石のベンチにももう三、四本あった。
「金持ちにしては、君も姉さんもたいして面白くもなさそうだな」私は言った。
 カーメンは長い睫の下から私に視線をくれた。本来なら私は仰向けに寝転がっていなければならないはずの視線だった。私は言った。「ダーツを投げるのが好きなのかい?」
「うん」
「それで思い出した」私は屋敷の方を振り返った。三フィートばかり動いて木の陰に身を隠し、ポケットから真珠貝の握りのついた小さな銃を取り出した。「君に返そうと飛び道具を持ってきてたんだ。掃除して弾も入れておいた。忠告しておくが──もう少し腕前をあげない限り、人を撃ってはいけない。分かったかい?」
 顔が青ざめ、扁平な親指が落ちた。私を見ていた視線が私の握っている銃に落ちた。うっとりするような眼だった。「分かった」彼女は言って、頷いた。それから突然言った。「撃ち方を教えて」
「何だって?」
「どうやって撃つのか教えて。やってみたいの」
「ここでかい? それは違法行為だ」
 カーメンは近寄ってきて私の手から銃をとり、床尾を愛おしそうに抱きしめた。それからまるでいけないことでもするみたいに急いでスラックスの中に押し込むと周りを見回した。
「いいところを知ってる」彼女は内緒話をするような声で囁いた。「古い油井が並んでるあたり」そう言うと、丘の麓を指さした。
「教えてくれる?」
 私は灰青色の瞳をのぞき込んだ。二つの瓶の口を見ているようだった。「いいだろう。銃を返してくれ。その場所が相応しいところだと私が決めるまで」
 カーメンは微笑み、顔をしかめ、こっそりと悪戯でもしているような様子で銃を返した。まるで自分の部屋の鍵を手渡すみたいに。我々は階段を上り、私の車のところまで歩いた。庭園は取り残されたように見えた。陽光は給仕長の笑顔のように空虚だった。二人は車に乗り込み、掘り下げられた私道を下り、ゲートを抜けて外に出た。
「ヴィヴィアンはどこにいる?」私は訊いた。
「まだ起きてこない」彼女はくすくす笑った。
 車は丘を下り、雨に洗われ静かで華やかな街路を通り抜けた。ラ・ブレアまで東に進み、そこで南に折れた。十分ほどで話に出た場所に着いた。》

「あなた様の目も似ていなくもない」は<not unlike yours.>。双葉氏は「あなた様のとはだいぶ違いますようで」とやってしまっている。<unlike>を<not>で否定しているわけだから、いわゆる二重否定だ。単なる肯定ではなく、そこに何らかの含意があると見なくてはならない。村上氏は「あなた様の目にもそういうところがなくはありません」と訳している。執事の言葉として丁寧語を使いたいのだろうが、「なくはありません」という日本語はおかしくはないだろうか。

「私は外に出て階段の上に立ち、目の前の風景を見下ろした」は<I stood outside on the step and looked down the vistas>。本当は、この後にどんな風景かを説明する長い文が続くのだが、一度ここで切った。双葉氏は「私は階段の上に立って、草のしげったテラスから庭の奥にある鉄柵のほうにつづいている刈りこんだ木々と、夜の遠近感にあふれた風景を見わたした」と訳している。

「夜の遠近感にあふれた」は原文のどこにも該当する部分が見当たらない。第一、マーロウが屋敷を訪れたのは朝である。どこからこんな訳が出てくるのか、想像することすらできない。村上訳は「私は外に出て階段の上に立ち、段丘になった芝生と、きれいに刈り込まれた樹々と、花壇が連なる風景を見下ろした」と、やはり途中で文を切っている。ただし、この切り方には問題が残る。

村上訳の続きを見てみよう。「庭園のいちばん下には、金属製の高い手すりが巡らされている。その斜面の中腹あたりに、カーメンの姿が見えた」がその部分。途中で文を切ったために、視線は庭園のいちばん下にあるはずなのに、「その斜面の中腹あたりに」と急に視線が動いている。ここは眺めた風景全体を描写しておいて、斜面全体の中程にいるカーメンを見つけたように訳す必要があるだろう。

「くすくす笑いながら」は<giggled>。双葉氏は「げらげら笑った」と訳しているが、<giggle>は忍び笑いのことで、「げらげら」とはちがう。「そのくすくす笑いが私の気を引くことは最早なかった」は<When she giggled I didn’t like her any more.>。双葉氏は「笑ったとたんに、私は彼女が好きでなくなった」と、ずいぶんストレートな訳だ。村上氏は「彼女がくすくす笑い出すと、私はもうあまり好意が持てなくなる」と、訳している。

「本来なら私は仰向けに寝転がっていなければならないはずの視線だった」は<This was the look that supposed to make me roll over on my back.>。双葉氏は「私をノックアウトするねらいを持った一瞥(いちべつ)だ」と訳している。村上氏は「それはどうやら、私を狂おしく身悶えさせることを目的とした表情であるらしかった」だ。<roll over on my back>自体は「仰向けに寝転がる」の意味だが、犬が甘えるときに腹を見せる格好を思い出してもらえればその意は通ずるだろう。

「うっとりするような眼だった。「分かった」彼女は言って、頷いた」は<There was a fascination in her eyes. “ Yes,” she said, and dodded.>。双葉氏はここをカットしている。拳銃を見つめるカーメンの目の奥に潜む狂気のようなものを表現している部分なのに、ここを抜くのは惜しい。村上氏は、その部分を「その目には魅せられたような表情が浮かんだ」と訳している。