marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第九章(2)

《我々は渓谷の内奥の窪地に下り、それから高台に上がった。しばらくしてから、もう一度下り、そして、また上った。マリオットの緊張した声が私の耳に入った。
「次の通りを右だ。四角い小塔のついた屋敷だ。その脇を回るんだ」
「あんたが連中にこの場所を選ばせたんじゃないだろうね?」
「まさか」彼は言った。そして、苦々し気に笑った。「たまたまこの辺りをよく知ってるだけのことさ」
 天辺を円いタイルで覆われた四角い小塔を備えた大きな角屋敷を通り越し、私は右に折れた。ヘッドライトが一瞬道路標識に光を浴びせた。<カミノ・デ・ラ・コスタ>だ。我々は未完成のシャンデリア型街灯が並び、歩道には雑草が繁り放題の大通りを滑り降りた。幾人かの不動産業者の夢の名残りだった。雑草の生い茂る歩道の陰の暗闇で、蟋蟀が啼き、牛蛙が盛んに声を響かせている。マリオットの車はそれくらい静かだった。
 一ブロックに家が一軒建っていた。それが、二ブロックに一軒になり、やがて一軒も見えなくなった。一つ二つ、仄かな灯火の洩れる窓もあったが、このあたりの人々は鶏と一緒に寝るようだ。いきなり舗装道路が途切れ、日照り続きでコンクリートみたいに固まった未舗装路に入った。ベルヴェデーレ・ビーチ・クラブの灯りが右手の中空に浮び上り、はるか前方ではうねる波に光がきらめいていた。セージのぴりっとした匂いが夜を満たしていた。やがて、白塗りの障壁が未舗装の道路を横切って立ちはだかった。マリオットは再び肩越しに声をかけた。
「ここを通り過ぎるのは難しそうだ」彼は言った。「そんなに幅があるとは思えない」
 静かな音を立てるエンジンを切り、ライトを下向きにして座ったまま耳を澄ませた。何も聞こえない。私はライトをすべて消して車の外に出た。蟋蟀が啼きやんだ。しばらくの間、沈黙はあまりにも完璧で、一マイル離れた崖下のハイウェイを行く車が立てるタイヤの音が聞こえるほどだった。やがて、一匹また一匹と蟋蟀が啼き始め、夜が満たされるまで続いた。
 「じっとしてるんだ。そこまで行って様子を見てくる」私は車の後部座席に囁いた。
 私はコートの下の拳銃のグリップに触れ、前に向かって歩いた。灌木の茂みと白い障壁の端との隙間は車から見たより大きく開いているようだ。誰かが灌木を刈ったらしい。地面にタイヤ痕がついていた。おそらく暖かい晩には若者たちがお楽しみにやってくるのだろう。私は障壁を通り抜けた。道は下りで、曲がっていた。下は暗く、どこか遠くで海鳴りが響いていた。ハイウェイを行く車のライトが見えた。私は進んだ。道は周りを灌木で囲まれた浅い盆地で終わっていた。そこに入るには私が来た道しかないようだった。私は沈黙に浸され、立ったまま耳を澄ませた。
 時がゆっくりと過ぎていった。何か聞こえないかと待ち続けたが、何も聞こえてこなかった。その窪地にいるのは私だけのようだった。
 私は向こう側にあるビーチ・クラブの灯りに目を留めた。上階の窓から高性能の夜間望遠鏡を使えば、多分この場所をかなりのところまで見て取ることができる。そいつは往来する車も、誰が外に出るかも、相手が複数か、一人なのかも見ることができる。夜間望遠鏡を手に暗い部屋に腰を据えれば、思った以上に細部まで見ることが可能だ。
 私は引き返し、丘を上った。灌木の足もとで蟋蟀が大きく啼きだし、私を驚かせた。カーブを曲がり、白い障壁を通り過ぎた。すべては変わりなかった。黒い車は、昏すぎも明るすぎもしない薄明を背に、ぼんやりと輝いていた。車に戻り、運転席脇のランニング・ボードに片足をかけた。
「テストのようだ」車の後ろにいるマリオットに聞こえる程度の小声で言った。「君が言ったとおりにするかどうかのさ」
 後ろで何か動く気配はしたが、返事は聞こえなかった。私は灌木の傍にある何かを見ようとした。
 誰にせよ私の後頭部を殴るのは実に容易だったろう。後になって、私はブラックジャックが風を切る音を聞いたような気がした。多分、人は誰も後になってから気がつくのだ。》

「マリオットの緊張した声が私の耳に入った」は<Marriott's tight voice said in my ear>。清水氏は「マリオットがまた、いった」と訳している。村上氏は「マリオットのこわばった声が耳元で聞こえた」と訳している。

「天辺を円いタイルで覆われた」は<topped with round tiles>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「てっぺんに丸いタイルがあしらわれた」と訳している。同じところでもう一つ。「大きな角屋敷」と訳したところは<a big corner house>だが、ここを清水氏はたた「邸」と訳し、村上氏は「大きな屋敷」としている。<corner house>とは「道路の曲り角にあって、二面を街路に面した屋敷」のこと。江戸時代の用語だが意味は通じるだろう。

「ベルヴェデーレ・ビーチ・クラブの灯りが右手の中空に浮び上り」の前に、清水訳では「泥の道は次第に狭くなって、叢と叢のあいだをゆるやかに下(くだ)ってた」、村上訳では「未舗装道路はやがて細くなり、灌木の壁に挟まれたなだらかな下り道になった」という一文が入っているのだが、私が参照しているKindle 版「Farewell My Lovely」では抜け落ちている。ペーパー・バックをスキャンしたと思われる造りで、時々スペルのミスはあるのだが、まるまる一文の脱落は初めてだ。こうなると、紙製の本の方が確かかも知れない。

「はるか前方ではうねる波に光がきらめいていた」は<far ahead there was a gleam of moving water>。清水氏はここもカットしている。村上訳では「その向こうには海のうねりが煌いて見えた」となっている。

ブラックジャックが風を切る音」は<the swish of a sap>。清水氏はここを「物音」と訳している。<sap>は、一般的には「棍棒」のことだが、スラングでは「ブラックジャック」を指す。村上氏も「ブラックジャックがさっと空気を切る音」と訳している。