marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第11章(2)

《明かりが地面に垂れていた。私は財布を戻し、ペンシル・ライトをポケットにクリップで留めると、とっさに女がまだ懐中電灯と同じ手に持っていた小さな拳銃に手を伸ばした。女は懐中電灯を落とし、私は銃を手にした。女がさっと身を引いたので、私はかがみ込んで懐中電灯をつかんだ。しばらく女の顔を照らした後、スイッチを切った。
「手荒い真似をすることもなかったのに」肩にフレアのついたざっくりしたロング・コートのポケットに両手を突っこみながら彼女は言った。「あなたが殺したとは思っていない」
 クールで落ち着いた声が気に入った。生意気なところもだ。我々は暗闇の中に立ったまま、しばらく無言で向い合っていた。見えるのは茂みと空の明かりだけだった。
 懐中電灯をつけて顔を照らすと女は眼を瞬かせた。活き活きと整った小さな顔に、大きな眼。皮膚の下の骨格がクレモナ製のヴァイオリンのように繊細を極めている。とても可愛い顔だ。
赤毛だね」私は言った。「アイルランド人のようだ」
「そして私の名前はリオーダン。それが何か? 明かりを消して。赤毛じゃない、鳶色よ」
 私は明かりを消した。「ファースト・ネームは?」
「アン。アニーと呼ばないで」
「それで、こんなところで何をしていたんだ?」
「ときどき夜にドライブするの。気晴らしよ。一人暮らしで、両親はいない。この辺のことはよく知ってる。偶々通りかかると、窪地にちらつく明かりに気づいたの。愛し合うには少し寒すぎる。それにそういう人たちは明かりをつけない。そうよね?」
「したことがないんでね。ずいぶん危険なまねをするんだね。ミス・リオーダン」
「それって、さっきの私の台詞よね。私には銃があるし、怖くはない。ここに来ちゃいけないって規則もない」
「それはそうだ。自己防衛という規範があるだけだ。ほら、今夜は血の巡りがよくない。銃の許可証はあるんだろうね」私はグリップの方から銃を差し出した。
 娘は銃を受け取るとポケットの中に突っ込んだ。
「好奇心旺盛な連中は何をするか分からない、でしょ? 私は文章を書くの。特集記事ね」
「金になるのか?」
「雀の涙。何を見つけたかったの―あの人のポケットの中から?」
「特には何も。こそこそ嗅ぎまわることでは名が売れてる。我々はあるレディのために、盗まれた宝石を八千ドルで買い戻そうとしていたところを襲われた。連中が男を殺した理由がわからない。たいして抵抗をする男のようには見えなかった。人が争う音も聞いていない。襲撃されたとき私は下にいた。彼は上の車の中だ。車で窪地まで下りるように指示されていたんだが、引っ掻き傷を作らずに通るだけの空きがなかった。そこで、私が窪地まで下りている間に連中に捕まったにちがいない。奴らのうちの一人が車に乗り込んで待ち伏せていたんだ。あの男は当然まだ車の中にいるものと私は思っていた」
「なら、あなたがドジを踏んだってわけじゃない」彼女は言った。
「初っ端から、この仕事には何か気に障るものがあった。勘が働いたんだ。けれど、金が必要だった。今となっては恥を覚悟で警察に出向くしかない。モンテマー・ヴィスタまで乗せて行ってくれないか? 車を置いてきた。そこに依頼者の家があるんだ」
「いいけど。誰かここについていなくていいの? あなたが私の車で行くか―私が警官を呼んでこようか」
 私は腕時計の文字盤を見た。かすかな光がもうすぐ深夜であることを告げていた。
「だめだ」
「どうして?」
「理由は分からない。ただそう感じるんだ。これは私一人でやることだ」
 娘は何も言わなかった。我々は坂を下って戻り、娘の小型車に乗り込んだ。娘はエンジンをかけ、ライトもつけずに方向転換すると、坂を上り、難なくバリケードをすり抜けた。一ブロックばかり行ったところでライトを点けた。
 頭がずきずきした。道が舗装路に変わって、最初の家が現れるまで、我々は口をきかなかった。それから、彼女が言った。
「一杯ひっかけた方がいいわ。うちに寄って飲んでいけば? そこからでも警察に電話できる。いずれにせよ、西ロサンジェルスからくるんだし。この辺には消防署しかないから」
「このまま海岸沿いまで行ってくれ。あとは一人でやるから」
「でも、どうして? 私は警官なんて怖くない。あなたの話を裏づけることもできる」
「誰の助けもいらない。考えたいことがある。しばらく一人になりたい」
「わたしは―そうね、分かったわ」彼女は言った。
 どうともとれる音を喉で鳴らすと、娘は大通りに向かった。湾岸ハイウェイのガソリン・スタンドの前を北に折れ、モンテマー・ヴィスタまで戻った。そこには豪華客船のように光り輝くオープン・カフェが待っていた。娘は車を路肩に停めた。私は車を降り、ドアに手をかけたまま立っていた。
 財布から手探りで名刺を取り出し女に渡した。「いつか君に強い後押しが必要になるかもしれない」私は言った。「そんなときは連絡してくれ。ただし頭を必要とする仕事以外で」
 女はハンドルの上を名刺で叩くと、やがてゆっくり言った。「ベイ・シティの電話帳に名前が載ってる。二十五番街の819番地。近くに来たら立ち寄って、嘴を突っこまなかったご褒美に可愛いメダルでも頂戴。あなたの殴られた頭、まだ普通じゃないみたい」
 娘はハイウェイに出ると、素早く車を回した。私はツイン・テール・ライトが闇の中に消えていくのを見ていた。
 アーチとカフェを通り過ぎ、駐車スペースの自分の車に乗り込んだ。すぐ目の前にバーがあり、私はまた震えだしていた。しかし、賢明なことに私が二十分後にやったのは、蛙のように冷たく、刷り上がったばかりの一ドル紙幣のように青ざめたままで、西ロサンジェルス署に入ってゆくことだった。》

「明かりが地面に垂れていた」は<The flash was drooping to the ground>。清水氏はここをまるきりカットしている。村上訳は「明かりが地面を向いた」。<droop>は「うなだれる、垂れる」の意味。マーロウが立ち上がったので、身体検査が終わったと思って娘は懐中電灯を下ろしたままにしていたのだろう。その隙をついての行動だ。行動に移るきっかけの提示である。カットする理由がない。

それに続く<little gun she was still holding in the same hand with the flashlight>「まだ懐中電灯と同じ手に持っていた小さな」もカットして「いきなり、向きなおって、彼女の手からピストルを奪った」と訳している。シガレット・ケースを見るために片手を開ける必要があり、懐中電灯と小さな拳銃を同じ手に持っていたから、拳銃をとられると同時に懐中電灯も落としたわけだ。この部分を略すと、それがわかりづらくなる。それにしても、この辺りのマーロウのとっさの判断と行動は、さすがというべきだ。

「しばらく女の顔を照らした後、スイッチを切った」は<I put it on her face for a moment, then snapped it off>。清水氏は「彼女の顔を照らし、そして、すぐ消した」と訳している。村上氏は「ひとしきり相手の顔に光をあててからスイッチを切った」である。どれだけの時間顔にライトをあてていた今ではのだろう? 相手を確認するだけなら、それほど長時間ではあるまい。ただ、後にも出てくるように、なかなか印象的な顔である。村上氏は<for a moment>を「ひとしきり」と訳しているが、「ひとしきり」という語は「しばらくの間。その間に物事が集中するようす」を表しており、言い得て妙である。

「肩にフレアのついたざっくりしたロング・コート」は< a long rough coat with flaring shoulders>。清水氏は「長い外套」とだけ。「外套」は、死語とは言わないまでも、ゴーゴリの小説以外、今ではほとんど使われることのない言葉だ。村上氏は「粗い布地の、肩にフレアがついたロングコート」と訳している。当時の流行なのかもしれない。ハードボイルド小説の読者にはあまり重要な情報ではないと清水氏は踏んだのだろう。資料的には訳しておきたいところかもしれない。

「見えるのは茂みと空の明かりだけだった」は<I could see the brush and light in the sky>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「見えるのは茂みと、空の明かりだけだった」。

「皮膚の下の骨格がクレモナ製のヴァイオリンのように繊細を極めている」は<A face with bone under the skin, fine drawn like a Cremona violin>。清水氏はここを「皮膚の下の骨が感じられるような強い顔だった」と意訳している。ヴァイオリン産地としてのクレモナが今ほど知られていなかったからだろうか。ヴァイオリンの比喩を欠くと、なんだか骨ばったぎすぎすした女のイメージになってしまう。村上氏は「骨格のきっちりした顔立ちで、優美な輪郭はクレモナのバイオリンを思わせる」と訳している。

「愛し合うには少し寒すぎる」は<It seemed a little cold for love>。清水氏は「逢いびきにしては、今夜は寒すぎるし」と訳している。「逢いびき」も風情のある言葉だとは思うが、今やデヴィッド・リーン監督の映画くらいにしか使われていないのではないか。村上氏は「恋人たちがいちゃつきに来るにはいささか寒すぎるし」と訳している。

「したことがないんでね」は<I never did>。清水氏は「ぼくだったら、つけないね」と訳している。マーロウにしては愛想がいい。村上氏は「そうかもしれないが」だ。こちらも、そんなに素っ気なくはない。両氏とも、この若い女性にマーロウが好感を抱いていることを意識した訳になっている。

「それって、さっきの私の台詞よね」は<I think I said the same about you>。清水氏は「あなただって同じことよ」と、訳しているが、ここはその前のマーロウの台詞<You take some awful chances>に、注意喚起しなければならないところだ。この台詞はリオーダン嬢が前にそのまま使った言葉の繰り返しである。村上氏は「あなたについてもさっき同じ指摘をしたと思う」と、まさか気づいていない訳でもないだろうに、いささか逐語訳的だ。「その台詞、そっくりお返しするわ」という訳も考えたくらい美味しいところなのだが。

「ここに来ちゃいけないって規則もない」「それはそうだ。自己防衛という規範があるだけだ」は<There's no law against going down there><Uh-huh. Only the law of self preservation>。<law>という同じ単語の持つ異なる意味を二人の台詞に響かせている。チャンドラーらしい言葉遊びである。清水氏は「ここへ来てはいけないという法律はないはずよ」「うん、しかし、自己防衛という法律がある」と、同語反復になっている。村上氏の場合「それにここに来ちゃいけないという法律(ロウ)もない」「そうだな、ただ自己保存の法則(ロウ)ってのがあるだけだ」とルビ振りで同語であることを匂わせている。

「なら、あなたがドジを踏んだってわけじゃない」は<That doesn't make you so terribly dumb>。清水氏は「では、あなたが抜かったというわけでもないじゃないの」と訳している。これでまちがいはないと思う。ところが、村上氏は「筋は通っている」と意訳している。マーロウの説明に無理のないことを理解したという意味だろうが、先刻の「とんだボディガードね」という皮肉を込めた一言に対する釈明の言葉と解すると、少し軽すぎる気がする。

「今となっては恥を覚悟で警察に出向くしかない」は<Now I have to go to the cops and eat dirt>。清水氏は「どくはこれから警察へ行って、油をしぼられなければならない」、村上氏は「おかげでこれから警察に出向いて、こってり絞り上げられることになる」と訳している。村上訳が清水訳を踏襲しているのが分かるところだが、<eat dirt>は「屈辱をなめる、恥を忍ぶ」という意味だ。「油を絞られる」は「ひどく叱責される」の意味で、少し意味が異なる。マーロウは警察に叱責されることをではなく、自分の勘に従わなかったことを悔やんでいるのだ。警察官ではない私立探偵としてのプライドの問題である。

「どうともとれる音を喉で鳴らすと、娘は大通りに向かった」は<She made a vague sound in her throat and turned on to the boulevard>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「彼女は喉の奥で小さくうなり、大通りに出た」と訳している。

「近くに来たら立ち寄って、嘴を突っこまなかったご褒美に可愛いメダルでも頂戴」は<Come around and pin a putty medal on me for minding my own business>。清水氏は「私、あんたの仕事に余計な口出しをしなかったんだから、ほめていただいてもいいはずよ」と<pin a putty medal on me>を逐語訳せずに処理している。村上氏は「近くに来たら立ち寄って、余計なことに首を突っこまなかったことで、おもちゃの勲章でもちょうだい」と訳している。

「しかし、賢明なことに私が二十分後にやったのは、蛙のように冷たく、刷り上がったばかりの一ドル紙幣のように青ざめたままで、西ロサンジェルス署に入ってゆくことだった」は、少し長いが<But it seemed smarter to walk into the West Los Angeles police station the way I did twenty minutes later, as cold as a frog and as green as the back of a new dollar bill>。

清水氏は「しかし、いまの私にとっては、蛙のように冷えきったからだと、新しい一ドル紙幣の裏のように青ざめた顔色のまま、西ロサンゼルス警察署に乗りつけるのが一番賢明なことのように思われた」と訳している。村上氏は「しかし私は何とか理性を働かせた。そしてその二十分後には蛙みたいに冷え切った身体と、一ドルの新札なみの緑色の顔を抱え、西ロサンジェルンス警察署に足を踏み入れた」と訳している。