marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(3)

18-3

【訳文】

《「何だろう、このお上品な飲み方」彼女はいきなり言った。「さっさと話に入りましょう。にしてもあなた、あなたみたいな稼業にしちゃ、ずいぶん様子がいいのね」
「悪臭芬々たる仕事です」私は言った。
「そんな意味で言ったんじゃない。お金にはなるの、それとも大きなお世話かしら?」
「大して金にはなりません。悲嘆にくれることも多いが、愉快なことも少なくない。それに、いつだって大事件に出くわすチャンスが待ってる」
「人はいかにして私立探偵になるのか? 私が下す評価なんか気にしないわよね? それから、そのテーブルこっちに押してくれない? 飲み物に手が届くように」
 私は立ち上がり、大きな銀のトレイを載せた小卓を、艶やかな床を横切って彼女の側に押した。彼女は飲み物をもう二つ作った。私は二杯目を半分まで飲んだところだった。
「探偵の大半は警官あがりです」私は言った。「私はしばらく地方検事の下で働いていたんです。解雇されましたが」
 彼女は感じよく微笑んだ。「無能だったってわけではないでしょうね」
「いいえ、口ごたえのせいです。ところで、あれから電話はかかってきましたか?」 
「そうね―」彼女はアン・リオーダンの方を見て、待った。その顔つきがものを言った。
 アン・リオーダンは立ち上がった。彼女はまだいっぱい入っているグラスをトレイまで運び、そこに置いた。「人手は足りてるようですね」彼女は言った。「でも、その気になったら―お時間を頂き有難うございました、ミセス・グレイル。記事にはしないのでご安心を」
「まさか、もう帰るっていうんじゃないでしょうね」ミセス・グレイルは微笑みを浮かべて言った。
 アン・リオーダンは下唇を歯の間に挟んだまま、いっそ噛んで吐き出すか、それとももう少しそのままにしておくか、しばらく決めかねているようだった。
「申し訳ありませんが、お暇しなければなりません。私はミスタ・マーロウのために働いていません。ただの友人です。さようなら、ミセス・グレイル」
 ブロンド女はきらりと彼女に目を光らせた。「また立ち寄ってね、好きな時に」彼女はベルを二回押した。執事がやってきた。彼はドアを開けて待った。
 ミス・リオーダンは足早に出て行き、ドアが閉まった。ミセス・グレイルはしばらくの間、気のない笑みを浮かべてドアを見つめていた。「この方がいいわ、そうは思わない?」沈黙の幕間が終わると、彼女は言った。
 私は頷いた。「ただの友達のはずの彼女がどうしてそんなに知っているのか不思議に思うでしょう」私は言った。「好奇心旺盛な娘なんです。いくつかは彼女自身が掘り出してきたものです。たとえば、あなたが誰で、翡翠のネックレスの所有者が誰なのかといったことの。いくつかは偶然そこに居合わせたからです。彼女は昨夜マリオットが殺されたあの谷にやってきた。ドライブの途中、たまたま明かりを見つけそこまで下りてきたんです」
 「まあ」ミセス・グレイルは素早くグラスを傾け顔をしかめた。「考えてみれば怖ろしい。かわいそうなリン。どちらかといえばろくでなしだった。あの人の友達のほとんどはそうよ。でもあの死に方はひどすぎる」彼女は震えた。瞳は大きく暗くなった。
「そういうわけで、ミス・リオーダンについては心配ご無用。何もしゃべりません。父親が長い間ここの警察署長をやっていたんです」私は言った。
「ええ、そのことも話してくれた。あなたは飲んでないわ」
「私はこれを飲酒と呼んでいます」
「あなたと私、うまくやっていけそうね。リン・マリオットはあなたに話したの、どうやってホールドアップが起きたか?」
「ここと<トロカデロ>の間のどこか。詳しいことは話さなかった。三人か、四人組だと」
 彼女の金色に輝く頭がこくりと肯いた。「そう、変なホールドアップだった。指輪のひとつを返してくれたの。かなり高価なものを」
「それは聞きました」
「それに、私はあの翡翠は滅多にしない。世界に類を俟たない極めて珍しい翡翠だけど、はっきり言って時代遅れ。なのに、連中はそれに飛びついた。あれの値打ちが分かる輩とは思えないのだけど、そう思わない?」
「あなたが値打ちのないものを身につけないことを連中は知ってる。値打ちを知っていたのは誰です?」
 彼女は考えた。彼女が考えている姿は見ものだった。脚はまだ組んでいた。しどけなさもそのままだった。
「いろんな人がいると思う」
「でも、その晩あなたが身に着けていることは知らないはずです。それを知る者は?」
 彼女は薄青い肩をすくめてみせた。私は両眼をあるべきところにとどめておこうと努めた。
「私のメイド。でもその気なら機会は山ほどあった。それに私は彼女のことを信じてる」
「なぜ?」
「分からない。私は人を信じるだけ。あなたのことも」
「マリオットのことも信じてましたか?」
 彼女の顔が少し険しくなり、眼に警戒の色が浮かんだ。「ある面ではノー。でも別の面ではイエス。程度によるわね」感じのいい話し方だった。クールで、半ばシニカル、それでいてドライ過ぎもしない。言葉の使い方を熟知していた。
「メイドのことは良しとしましょう。運転手はどうです?」
 彼女は首を振って否定した。「あの晩はリンが自分の車を運転してた。ジョージは見当たらなかった。木曜日じゃなかった?」
「私はそこにいなかった。マリオットが言うには四、五日前のことだと。木曜日は昨夜から数えて一週間前になります」
「そう、木曜日だった」彼女はグラスに手を伸ばし、私の指に少し触れた。柔らかな触り心地だった。「ジョージは木曜の夜は休みをとる。公休日だから」彼女は芳醇なスコッチをたっぷり一杯分私のグラスに注ぎ、炭酸水を噴出させた。いつまでも飲んでいたいと思わせる種類の酒で、そのうち、どうとでもなれと思えてくる。彼女は自分にも同じようにした。
「リンは私の名前を言った?」彼女は優しく訊いたが、眼は警戒を解いていなかった。
「慎重に避けていました」
「おそらく、それで日にちについてごまかしたのね。手札を見てみましょう。メイドと運転手は抜き。共犯者としては考えられないという意味よ」
「私ならその二枚は置いておきます」
「そうなの、でもやるだけやってみる」彼女は笑った。「それからニュートンがいる。執事。あの晩私の襟元を見ることができたかもしれない。でも翡翠は低く垂れ下がっていたし、上からホワイト・フォックスのイブニングラップを羽織っていた。無理ね、彼に見えたとは思えない」
「夢のよう眺めだったでしょうね」私は言った。
「酔いが回ったんじゃないでしょうね?」
「人より醒めてることで名が通ってるんです」
 彼女は頭を仰け反らせ、どっと笑いこけた。そんな真似をしても美しい女は、生涯で四人しか知らない。彼女はその中の一人だった。

【解説】

マーロウとミセス・グレイルのやり取りはたがいの腹の探り合い。訳す方も息を抜けないのだろう。清水氏も、いつものようにトバすことなく訳している。

「はっきり言って時代遅れ」は<After all, it's a museum piece>。清水訳は「博物館にあるようなもので」。村上訳は「だいたいが美術館向きのものなのよ」。文字通り訳せばそういうことだが、これでは、その前の「私はあの翡翠は滅多にしない」ことの理由になっていない。<museum piece>には「時代遅れ」という意味もある。いくら貴重な品でも装身具としての価値はまた別。他者が欲望するようなものでなければ身に着ける価値がない訳だ。

「あなたが値打ちのないものを身につけないことを連中は知ってる。値打ちを知っていたのは誰です?」は<They'd know you wouldn't wear it otherwise.Who knew about its value?>。清水氏は「頸飾りをつけていたことを知っていたのは、誰ですか?」と訳しているが、これはでは次の会話を先取りしてしまう。村上訳は「価値のあるものしかあなたは身につけないと知っていたんですよ。その値うちを知っていたのは誰ですか?」。

「彼女が考えている姿は見ものだった」は<It was nice to watch her thinking>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「彼女が考えるのを目にしているのは素敵だった」と、優等生的な訳だ。

「私は両眼をあるべきところにとどめておこうと努めた」は<I tried to keep my eyes where they belonged>。清水氏は「私は彼女の脚を見つめていた」と作文している。村上氏は「私は目が飛び出さないように自制しなくてはならなかった」と一歩踏み込んで訳している。アメリカのカートゥーンでも、目が飛び出る表現は見たことがあるから、おそらくその意味なのだろう。

「彼女は自分にも同じようにした」は<She gave herself the same treatment>。村上氏は「彼女が求めているのもまさにそういう状態だった」と訳している。村上訳によれば「そういう状態」とは「飲んでいるうちになんでもあり(傍点六字)という気分になってくる」ことだ。少々考え過ぎではないだろうか。<same treatment>は「同列」という意味だ。客につくった物と同じ物をつくった、ということだろう。清水訳では「彼女は同じ飲物を自分のグラスにもつくった」だ。

「そうなの、でもやるだけやってみる」<Well, at least I'm trying>。清水訳は「私は、ただお手伝いをしているだけよ」だ。たしかに、ここでミセス・グレイルがやっているのは探偵のまねごとだ。お手伝いにはちがいない。村上訳を見てみると「かもしれないけど、少なくとも私はそう考えたいの」となっている.。村上氏は、この<try>を、自分の意見に固執することと考えているようだ。